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混線


彼女は目を細めた。


そうすると、凛々しい雰囲気が優しく緩み、幼い日に見た母の柔らかい笑顔に酷く似ていることを彼女自身は知っていたのだろうか。


「ごめんね、逢。少し眠るよ」


「どっか行っちゃうの…?」


彼女の気配があまりにも儚くて、なんだか消えてしまいそうで、思わずそうすがるように尋ねてしまった。すると彼女はゆるゆると首を振り、まるで妹をなだめる姉のような顔で頭を撫でてくれた。それが心地良くて目を閉じる。クスリと笑う気配が耳に届いた。


「大丈夫、居なくならないよ。ただ少し、くたびれてしまったから、眠るだけ。その間は守ってあげられないけれど、逢はもう大丈夫だよ。力の使い方を教えてあげるから」


その子はいつも傍に居てくれて、慰めてくれて、励ましてくれて、母のようだった。姉のようだった。酷く愛しい存在だった。


でも、それは自分だった。


欠けていた魂が引き合うように、唐突に理解した。彼女は逢ではないけれど、自分達は同じものなのだと。


「私……貴女の名前、知らない。教えて」


大事な存在に何かを言おうと必死で口を動かし、出てきたのは結局そんな一言で、だけど彼女はとても嬉しそうに笑った。


「私は、あやめ。あやめという。私達の母がくれた名前だ」


あやめ。その名は逢の中に染み込み、キラキラと輝いた。足りなかったものをやっと補うことができた、そんな気がした。ああ、彼女はあやめと言うのか。


「私はいずれ大切な者を、貴女を殺してしまう女なのだと戒めて、殺女と名乗っていたけれど、たぶん母は、菖蒲と名付けたかったのだと、思う」


酷く言いづらそうに、少しずつ少しずつ菖蒲は言葉を吐き出す。きっと自分の中で長いこと抱え込んでいた思いを必死に噛み砕いて言葉にしているのだ。


そんなになるまで長く想いを抱えていた姿が悲しくて、やりきれなくて、逢は自分とまったく同じ背格好の彼女を力の限りに抱き締めた。


「呼ぶよ!私が菖蒲って呼ぶ!だから!」


もうそんな悲しい字を名乗らないでよ。お願いだから。母の願いのままに、貴女は気高い紫の花のように生きてきたじゃない。だから、もういいじゃない。


そう言いたかったのに、上手く言葉にならなくてよく分からない自己主張を叫んでしまった。けれど彼女は逢の言いたいことなど全て分かっているというかのように、優しい優しい声でありがとうと笑うのだ。正しく自分を呼んでくれて、ありがとうと。


「久しく聞かなかったから、自分の名を呼んで貰えるのは、少し照れくさいな」


「いっぱい呼ぶよ。私これから、いっぱい菖蒲のこと呼ぶから」


「うん。……これで、名が揃ったなぁ」


「名?」

「うん、大事な名。今までは字面を変えていたから効力も弱かった。いいか、菖蒲という名は私にとっても、たぶん逢にとっても大切なものだから、人に言っては駄目だ」


だから私の名を正しく呼ぶのは、きっとこの先も逢だけだと、菖蒲の腕が頭を撫でる。逢は「うん、分かった」と答えながら、菖蒲の言うことは難しいなぁと目を細めた。彼女はいつもなんでも知っていて、自分は何も知らない。それが嫌でたくさん本を読んだけど、まだ足りない。


知識が、欲しい。


そう、改めて強く思った。





*********






ごぅ、と耳元で水流が渦巻く音がする。それに混じって、頭の何処かで警報音がけたたましく響いていて、やめろ、とめろ、戻れなくなる、と逢に訴える。


戻れなくなるって何処にだろう。逢はぼんやりとした頭でそう思いながら、鋭く研ぎ澄ました爪を揃えて構える。あの魚を切り刻まなければならない。そうしないときっと竜胆達の居る場所まで戻れない。


大丈夫、やれる。水の中で手足は酷く重たかったけれど、自分が不利だとは思えない。巨大な魚と目が合った。さぁ来い、切り刻んでやる。お前を切り刻んで、私は生きて帰るのだ。


あいつを見てごらん。


心の中に響く声に従い魚のギョロリとした目を強く見つめる。すると頭の中にたくさんの本棚が出てきて、その中から逢を呼ぶ本を手に取り開いた。そしてあの魚のこと、知りたいと願った知識が頭に入ってくる。これが母達が積み重ね、そして菖蒲がくれたものの一端か。逢は活字を追うように知り得たものを辿った。


川藻の魚、古くから山に棲むもの。形も名も判然としない有象無象よりも存在を強くもつ輩。まるでこの水流の主のような顔で溺れた子供の魂を喰らって力を付け、更に子供を食うために雨を降らせて川を暴れさせる。里の人間は子供が死ぬと雨が降るのを知って、日照りの度に川に子供を落とす。こいつは生贄を喰らう悪辣な奴だ。そうだ、だから遠い昔に、お母さんが封印したんだ。なのにまた性懲りもなく起き出してきて、人間を喰おうてしているのだろうか。


「じゃあ、私がここで殺してしまっても問題ないよね……?」


これは母が敵と定めた獲物、封印が解けたなら自分が始末するのが筋のはずだ。そう笑うと牙のように伸びた犬歯が唇にひっかかり、軽い痛みを引き起こした。


ぴり、と口の中に微かな鉄の味が広がる。しかしその程度の傷は瞬きする間に癒えていく。逢はゆったりと笑った。


そうして獲物を引き裂こうとした指が、ふいに躊躇する。


あれ?


私、今なんて言った?


なんで唇が裂けた?なんで痛むはずの傷は一瞬で塞がった?


あれ?


片平逢って、人間だったんじゃなかったっけ?


人間じゃなかったんだっけ?


あれ?


片平逢って、誰だっけ?




意識がブレる。たった今まで自我だと信じていたものまでが濁流に流されていくような気分だった。クラリと姿勢を崩した刹那。



逢の腕をいっそ暴力的な程の力で掴む手があった。



「つっ!?」


考えていたことの全てが吹っ飛ぶ。反射的にその手の主を振り返ると、紫に光る瞳と視線がぶつかった。

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