川遊び
「逢、果物あるよ!食べる?この西瓜おいしーんだからー!」
「いえ……だいじょうぶです……けっこうです……」
いったい何事だというのだろう。逢は橙と隣り合ってごつごつとした岩に座りながら、謎の事態に遠い目をした。
* ***
それは今朝のことだった。いつも通りの朝、逢はテレビを見ながらくつろぎ、竜胆も仕事に出かけることなく何かの本を読んでいる、そんなのんびりした時間、そんな夏の日のゆるやかな静寂は突如として壊された。
「やっほー!逢いるー?」
いきなりの大音量と共に、片平家の玄関ドアは勢い余って破壊されそうな勢いで開け放たれて、逢は想定外の事態に一瞬で心臓と思考がフリーズし、竜胆は即座に戦闘態勢に移行した。
「……え?」
逢が我に帰ったのは、侵入者改め橙姉妹がズカズカと家に上がりこみ、竜胆は台所にあった包丁を全力で投擲し、橙姉がそれを避けて包丁は壁に突き刺さり、橙妹が竜胆に殴りかかるという事態が惨憺たる有様になった時点だった。
「ええええええ何!?」
え、ドアに鍵かけてたよね、鍵やぶったのか。奇襲か、そうなのか。混乱のままに絶叫すると、あまりの五月蝿さにか大乱闘になりかけていた場が固まり、全員が驚いたような表情でグルリと逢に顔を向けてきた。かなり怖い。
「逢、遊びに行こうって誘いに来たんだよ!!」
一番先に膠着状態から抜け出し、反応を返したのは橙妹だった。竜胆の胸倉を掴んだまま笑顔でそんな提案をする。何気なく喋っているように見えるが竜胆に掴みかかっている左手と拳を振りかぶっている右手にはギリギリと音が聞こえそうなほどに力がこもっているのが見て取れるし、その両腕をそれぞれ掴んで投げ飛ばそうとしている竜胆も同様だった。そんな攻防戦を家の中でしないで欲しい。
次に後ろの方でこの大惨事をのんびりと静観していた橙姉が、逢に笑顔を向けてきた。
「いきなりのお誘いで申し訳ないわね、この子が逢と川にでも遊びに行きたいと言って聞かないのよ。それに私も少し、川の上流に用があるしね」
その言葉と共に視線がチラリと竜胆を示した訳を、恐らく逢は正確に読み取った。
「はあ!?仕事の件はこの間断ったろーがめんどくせえ!だいたいテメエ何避けてんだ!敷金返って来ないだろう!!」
「安直に室内で刃物なんか投げる方が悪いのよ。それに今回の仕事は貴方の方が適任だって何度も言っているでしょう?こんなに頼んでるんだからそろそろ承諾してよ。ね、逢からも何か言ってやってくれないかしら」
橙妹を投げ飛ばした竜胆も橙姉の視線の意味を把握したらしい。否を叫ぶ彼を他所に、橙姉は逢に加勢を求めてきた。
何故だろう、その掛け合いがまるで酷く仲むつまじいものに見えてしまい、逢は無意識のうちに心臓の上を押さえた。表情筋はもはやオートマチックのように勝手に笑顔を作成する。
「竜胆、こんなに頼んでるんだから、少しくらい手伝ってあげなよ……」
力なく落ちていく語尾には気付かないふりをして、説得の言葉を吐く。竜胆の顔が嫌そうに歪み、口元が何か言葉を紡ごうと開かれるが、それが形になる前に橙妹がその首にヘッドロックをかけた。
「逢の了承も得たし、決まりだね!!皆で川に行こうー!」
「え、私が川に行くって話は……」
パス。そう言おうとした言葉は竜胆を放り出した橙妹の嬉しそうな笑顔に負けて口から出ることなく消え、逢は妹に、竜胆は姉に捕獲された。
そして、今に至る。
四人揃ってガタゴトとバスに揺られ、川に連行されてすぐに橙姉と苦虫を噛み潰したような顔の竜胆は上流の方へ消えた。残された逢と橙妹は流れに足を浸して、鳥の声などに耳をすましていた。いや、すまそうとした。
「逢、日焼け止めいる?」
「お茶は?のど渇かない?」
「西瓜冷やしとくね!後で一緒に食べよーねー」
「あ、胡瓜もあるよ!」
この距離感である。
異様に近い。隣に座った橙との距離もそうなのだけれど、なんというか心の距離感が。
前回別れた時はこんなにフレンドリーだっただろうか。
しかも名前呼び。名乗っても頑として鬼姫と呼び続けた彼女が、だ。何があったのだろう。
「ええと……橙妹?名前で……呼んでくれるようになったんだね?」
理由を聞きたい気もしたが、なんと言えばいいのか分からずに結局このようなお茶を濁したような発言に留めてしまった。
幸い逢のもそもそした問いかけの意味は橙にも正確に伝わったらしい。西瓜を入れた網を持って川の少し深い所へ向かった彼女は肩越しに逢を振り返ると、輝くようににっこりと笑った。
「うん。私は逢の友達、味方だからね!」
「え?あ、うん、ありがとう……?」
友達。友達なのか。問いの答えとは微妙にずれているような気もしたが、それでも友達と言ってもらえたことが素直に嬉しくて、こそばゆかった。そっか、友達か、橙妹は友達になったくれたのか。
なんだか心臓のあたりがポカポカする。頬に熱が灯るのをボンヤリと自覚しながら、意味も無く水面をつま先で蹴る。派手に跳ねた飛沫がキラキラ光りながら顔にかかり、上がった体温に心地よかった。
この間に橙と別れた川を更に遡ったこの場所は緑深く、見上げる空は川の両側から覆いかぶさるように生えた木に挟まれた狭いもので、水のせせらぎと蝉や鳥の声以外は聞こえないような山の中だった。今居る浅瀬はどこまでも透明な水が小石の上をすべり流れていくが、川の反対側の水は深く青緑に沈んでおり、とても複雑な流れが渦巻いているのだろうと予測できた。
逢はフワフワと幸せな気持ちのまま、目を閉じた。遠くで鳴く鳥の声が響く。酷く穏やかな心地だった。まるでこのところ心のどこかで抱え込んでいたモヤモヤした感情全部を水面に浮かべて流してしまったかのように。
「ところで逢、まだ灰色と仲直りしてないんでしょ」
「ぅえ!?」
穏やかな時間など夢幻のごとく儚いものだった。
「灰色と姉様のこと、まだ気にしてるんでしょー」
だってさっき灰色に川に行こうって言った時、寂しそうな顔してたよ。そう指摘されて、ぽかぽかしていた心と頬が一瞬で沸騰した。そんな馬鹿な。
「りっ竜胆のことなんて関係ないし!?」
それはまぁ確かに先程は2人がえらく仲良く見えたりもしたが、それがなんだというのだ。そう伝えたくて慌てて吐いた言葉は裏返っており、逆効果も甚だしい状態だった。
「んもー、逢は素直じゃないなぁ」
笑い顔のまま呆れたように言う橙の言葉に際限なく頬の温度が上がる。このままでは本当に沸騰してしまいそうだ。
西瓜を岩にくくりつけおえて戻ってくる橙と入れ違いに、逢はザバザバ水音を立てながら川の中に踏み入れていった。ミニスカートの裾が水面にかするような所で立ち止まり、掌にすくった水をきっと真っ赤であろう顔に勢いよく浴びせた。戻ってこい平常心。
頭を冷やすつもりだったのに、吸い込んだ川の匂いは時々ずぶ濡れになって帰ってくる竜胆を思い出させて、それに連なり先程の2人の背中も脳内にフラッシュバックする。いや、だから全然気にしてないし。だから…だから。
「そんなんじゃないしー!!」
逢は緑に挟まれた空に向かって衝動的に雄叫びを上げた。
そして未だに冷めない熱い顔で、ぜーはー息をしながら、砂利の上で突然の逢の奇行にびっくりしている橙に向き直って気付く。やばい。とにかくすごく恥ずかしくて、否定したい一心だったけれど、これでは奇行をした逢が変人というだけだ。
目をぱちくりさせた橙が口を開く。――しかし、その場でいの一番に声を発したのは、彼女ではなかった。
――うるさいのぅ――
「え……?」
グラリと体が傾く。いきなりの第三者の声に驚いて硬直した逢が声の出所に気づいた途端、足に何かが絡み付き、逢の視界を揺らした。
「え!?」
橙があっという間に視界から消え、自分が上向いたために見えた青い空もすぐに水の幕に覆われる。
「逢!?」
耳が最後に拾った空気を震わす音は、橙の酷く焦った声だった。