呪縛
夜の薄闇の中に、夏蜜柑色の長い髪が翻った。
ネオンの光る表通りから一本奥に入った薄暗い裏通り。ポリバケツやダンボールが散在する狭い路地を、橙は苦も無く駆け抜けていた。
目についた曲がり角に入り、ジグザグに駆ける。その様はまるで野生の獣のようで、人などには到底追えないような軽やかさだった。それでもなお、時々背後や頭上を確認する目線には焦りが消えない。
「くっ……追いつかれる」
鋭く呼気を吐き出す口元は引きつり、辛うじて苦笑いを浮かべている。
「かんべんしてよーもー……」
走る勢いを殺さず近くの壁に立てかけてあった板へ向かって飛び、三角飛びの要領で建物の上へ飛び乗る。その動きは異様に俊敏で、もしもこの場に他の人間が居たならば彼女は人間では無いと一目で分かるものだった。
そのまま足のバネを使って建物の上を走り続ける。見渡すかぎり誰も居ないけれど、分かる。追ってきている。
昼間に鬼姫と別れてから、姉と別行動をとって正解だった。おそらく今晩に動くだろうと思ったからの判断だったが、当たって欲しくない予感に限って当たるものだ。
こうなった責任が自分にあるのは分かる。不用意な反応をしすぎてしまったのだ。あれでは勘付いてくださいと言っているようなものだった。しかし本当に焦ってしまい、頭が真っ白になったのだ。
だから逃げる。そうそう逃げ切れるとも思わないが、まだ自分にはやらなければならないことがあるのだ。
とにかく相手を引き離そうと必死に走り続ける橙は、不意に足を止めた。
前方に誰かが立ちふさがっている。短いスカートがヒラと翻り、晒された白い足が一歩こちらへと踏み出してくる。逃亡劇もここで仕舞いだ、回り込まれてしまった。
今の彼女はこの状況から更に逃亡を許してくれるほど、優しくはないだろう。ならばもう正面から向かい合うしか無い。橙は静かに息を吸った。
「こんばんは、さっきぶりだね。鬼姫」
「甘夏」
前置きも無しか。橙は苦笑いを顔に貼り付けながら体にかかる重圧に耐えた。
「甘夏、お前が必要だ。私の所に来い」
「おにひめ……今はちょっとかんべんしてくれないかなあ?」
昼間の鬼姫は気付いていなかった名前の持つ意味を、今の彼女は正確に把握しているらしい。そして自分がどういう立場なのかも。
自分の本当の名前。人ではないものがこの世に産まれ出でた時に天地より授かる名がある。それを読み取れるのは自分と、もし親というものが居るのならその産みの親だけなのだと聞いたことがある。
名前は魂に絡まるものだ。すなわち命に近い。普通に呼び合う分にはなんら問題は無いが、稀に途方も無く強いものに呼ばれると魂を縛られてしまうことがある。話に聞いていたその状況がまさに今なのだと、橙にはありありと感じ取れた。
魂の緒を握られるとは言っても、さほど大したことはない。一般的な慣わしとして隠すべきものではあるが、妖し者の中にはまるで騎士道の礼のように敬意の表れとして自分の名を明かすもの達も居るくらいだ。人の呪い師などに知られると少しマズイのではないかという、その程度の認識のはずだ。
ただ、姫の通り名を持つものだけは、いけない。それらは他の者を縛るに足る強大な力を持ったものだ。
そしてたった今、名を呼ばれた重圧を肌で感じて初めて知ったことだが、自分の全権を相手に毟り取られるような、そんな絶対的な強制力は持たないらしい。ただ抗えない、抗いたくないというような甘ったるい気持ちが突如として思考の中に紛れ込む。まるでいきなり彼女と親子の絆が通ったかのような、相手の望むことをしてやりたくなってしまう、そんな厄介な呪いだった。
ああ、だから明かしてはいけないと言われているのかと、今更のように納得する。確かにこれは危険だ。慣習のように通り名だけを呼び続けるもの達の一体どれだけがこの危険性を知っているものなのか。
甘夏。それは橙が妖しものとして闇より出でた瞬間に与えられた名だった。姉と二人で生きるうえでは、二人で橙という通り名を名乗ろうと決めた。
(ねえさま、ごめん。つかまった)
別段、今いきなり鬼姫への好意を与えられる前から、何も知らない鬼姫も嫌いではなかった。むしろ気に入っていたくらいだ。だから何も無ければ、彼女に隷属してみるのも良いかもしれないと思えただろう。ただ今は駄目なのだ。
「鬼姫、今は駄目。お願い、今だけは許して。まだ私はやらなきゃいけないことがあるの。自分の命の全部を賭けなければいけない時が待っているの。それが終わったら鬼姫と一緒に居てもいいから、だから、お願い。時間を頂戴」
もはや恥も外聞も無くそう懇願する。姫に名前を呼ばれた時点で橙のできることなど自分の意思を強く保ち続けることか、猶予を希うしかないのだから。
暗闇の向こうで、ふと鬼姫が眉尻を下げた。
そのままこちらまで歩みを進めた彼女は、静かに橙を抱き寄せる。もしかして自分はそんなに酷い顔をしていたのだろうか、背中をゆっくりを撫でられて肩が強張っていたことに初めて気付いた。
「……そんな顔をさせたかったわけでは、ない。ただ逢の味方でいて欲しいと思っただけだ」
「みかた……?」
「ああ、逢の傍に居るあの男は駄目だ、あの男は狩る側だから。だからお前に傍に居てやってほしいと……だがやるべきことがあるなら、待とう」
ふと、肩越しに彼女が笑ったような気配を感じた。
「まったく、私も生まれて初めて他者の名前を呼んだが、厄介なものだな。逢を守る駒にしようと思ったのに、今はお前に対して逢に向けるようなものに近い情を覚える。いやはや、知らなかった。名前というのは呼ぶ側も縛られるのだな」
少し苦々しく愚痴るその言葉がなんだかおかしくて、橙は笑った。
「ありがとう……昼間の鬼姫とはまるで別人だね、最初に会った時なんて、その美味しそうな匂いが無かったら人間の娘と区別がつかなかったよ。ね、どっちが本物の鬼姫なの?」
「どちらが本物ということもなく、逢と私が居るから私達は成立している。ただ逢は何も知らない人間の娘だ。余計なことは言ってくれるなよ」
「……分かってるよ。昼間の鬼姫は名前の持つ意味も知らない人間の子供だった。今の貴女とは違うものなんだね」
「……逢は、片平逢という名は人間として母がつけた名前だ。あの名にはなんの危険性も無い。逢に接する時だけは、どうか名前で呼んでやって」
「……うん、わかった。……安心して、全てが終わったら、貴女達の味方でいるよ」
薄闇の中、橙はそうっと少女の髪を撫でた。まるで昼間の再現のように。