川原の女子会
日に透けて夏蜜柑色に艶めくであろう彼女の髪は、日陰の中で濃いブラウンに染まったように見えた。
「こんにちは、鬼姫。ねえねえ何してたの?水浴び?水練?今日は暑いもんね!こんなに暑いんだしアイス食べに行かない?駅前に新しくできたお店が気になってるの!あ、鬼姫アイスどんな味が好き?私はチョコチップが好き!!」
「ちょ、待って。ちょっと待って」
慌てて彼女の口を手で塞ぎ弾丸トークを中断させる。想定外も甚だしい、まさかの事態。あの朝に会った、台風少女の再来だった。
「えーあの……その、……こんにちは」
何故ここに居るのか、なんで話しかけてきたのか。そもそも自分達は共にアイスを食べに行くほど仲が良かったか。聞きたい事は色々あったが、逡巡した末に口から滑り出してきたのはそんな当たり障りの無い挨拶だった。だって他に何が言える。
掌の向こうで彼女が口をもごもご動かして何か言ったので、とりあえず手を外す。すると台風少女はにっこりと笑って逢に問いかけてきた。
「ね、私の名前覚えている?」
何故だろう、笑いかけられているのにプレッシャーを感じる。苦笑いを浮かべて後ずさりしながら、逢は搾り出すような声で答えた。
「だ……橙ちゃん……だよね?」
「そうだよ!橙だよ!でもちゃんはいらないってば、呼びづらいでしょ?」
笑顔から圧力が消える。あやふやな記憶だったが合っていたらしい。そのまま橙色の少女は嬉しそうに逢の両手を取るとクルクル回るようにスキップして、日なたの土手まで赴き、そのまま草原の斜面に腰掛けた。逢を道連れにして。
まったくいつ見ても嵐のような女の子だ。思わず出そうになった溜め息をかみ殺して苦笑いを浮かべる。賑やかな彼女は座ってからは静かだった。黙って空の匂いを嗅ぐように宙を見つめている。
隣あった体から柔らかい体温と鼓動が微かに伝わり、それがうだるような暑さの中で逢の心に柔らかく染みていった。他人の気配というのはこうも落ち着くものなのか。逢は橙の存在に耳を澄ませるようにゆっくりと目を閉じた。
川面を撫でていく風の音、もう夏も終わりかけだいぶ数が減ってしまった蝉の合唱。隣の少女の息遣い、遠くで車が走る排気ガスの音。暗い視界の中で色々な音が聞こえてきた。それでもなお、静かで穏やかだと感じた。茹だっていた思考が緩やかに平成を取り戻していく。
草の匂いに混じって、ほんの少し懐かしいような爽やかな香りが鼻腔に届く。もしかしたら隣の彼女が名前の通りに柑橘系の香水をつけているのかもしれない。その香りは幼い頃にどこかで見た、冬の澄み切った空気の中で一面の青空に映える、太陽の光を集めて固めたような色の甘夏を想起させた。
不意に合点がいった。日の下で見る彼女の髪の髪は、いつかの冬の日に見た甘夏に良く似ている。甘夏橙とも呼ばれるその果実はなんだかずいぶんと彼女に相応しい気がした。
「甘夏かあ……」
ほろりと、考えていたことが口から零れる。その声が川原に落ちるか落ちないかという刹那、突如彼女は凄まじい気配をその身から迸らせ、逢の口を片手で塞ぐていで顔面を華奢な掌からは想像もつかない力で鷲づかみにしてきた。
衝撃で草原に押し倒され、頭をぶつける。突然の出来事に停止した思考のまま少女を見上げれば、逆光で翳った表情の中で目だけが異様なまでの、殺気としか表現できないような感情を宿してギラギラと輝いていた。
「どうしてそれを知っているの?」
ああ、なんだいつも通りだ。
痛いほどに強烈な意思を向けられ、逢は掌の下で緩やかに笑った。なんのことはない、いつも通りの反射的な行動だったが、彼女にとっては気味の悪い反応だったのだろうか、引き剥がすように口を塞ぐ手を外した橙の眉間には皺が寄っていた。
その反応で思い出す。そうだ、この子は、今自分の目の前に居る少女は逢の命を狙うためにやってきた死神の鎌をふるう者ではないのだ。
いつだって、慣れてしまうくらいたくさん浴びてきた害意のこもった視線。そんな誰かの眼差しが身を刺す度に、逢は緩やかに笑ってその誰かを通した面影に話しかけるのだ。
ねえ、お父さん。そんなに私が憎いですか。
そうして静かに目を閉じる。せめて死に顔くらいは綺麗でいたかったから。だけれどもいつだって逢はその目をもう一度開ける。記憶にあった場所とは全く違う場所で、殺気など微塵も感じないような場所で。
その度に、憎まれてもしょうがないと知っているのに、せめてもの親孝行に望まれることくらい叶えてやればいいのに、生き汚いな、私は。と自分を嘲笑う。
記憶など無いけれど、命の危機に瀕して無意識に自分が何かをやったのだろうということは何となく考えていた。小娘一人にプロの人間をどうにかできるのかとか、その人はどうなったのかとか、何故いつも死ぬ前に意識がぶつりと途切れるのかとか、不思議なことを不思議と思うこともずいぶんと前に放棄した。ドキュメント番組や犯罪捜査の番組でも極度の緊張状態から脳のリミッターが外れ、命の危機に瀕した状況を切り抜けるために驚異的な力を発揮するが、記憶が混濁して本人はそのことを覚えていないという話を聞いたことがある。恐らく自分もそうなのだろう。そもそも考えても理解できない不思議な状態が目を覚ます度に用意されているのだ、早々に理解も納得も諦めて、逢は悪意をその身に感じる度にただそっと目を伏せるのだ。今度こそもう目を開けることは無いのかもしれないと思いながら。
だけど今は、逢は痛いほどの殺気を至近距離から浴びながら、目を瞑ることはしなかった。笑った後に、気づいた。橙のしかめた顔を見て確信した。「いつも」と違う。
いつだって殺意と共に浴びてきた、こちらを害そうとする明確な悪意。それが無かった。
まるで驚いて反射的に攻撃してしまった手負いの獣のような、そんな印象。今だって彼女は失敗をして怒られるのを待っているような、バツの悪そうな表情でこちらを見ている。
「別に、いいよ」
呟いた言葉は何に対する許容だったのだろう。それを橙は和解の合図と取ったようだった。花開くように笑顔を浮かべると、逢に突進するような勢いで抱きついてきた。