波紋
「まったくもう……」
今日も空は嫌になるほど晴れ渡っている。陽炎ができそうなほど暑いコンクリートの道を歩きながら逢は一人ぶつぶつと今朝からの不満をつぶやき続けていた。
竜胆は壊した扉の修繕のためにホームセンターへ向かったため一人だ。なんだか一人でこうして散歩をするのも久しぶりな気がした。
「そういえば大抵一緒に居るもんなぁ……」
改めて口に出してみるとなんだか恥ずかしい。そうか、自分はぼっち散歩に違和感を覚えるほどいつも竜胆と一緒に居たのか。
足は無意識のうちに賑やかな駅前の界隈に向いていた。それがホームセンターのある方角だと気付き、なおいっそう恥ずかしいような気分になる。
「べつにホームセンター行くわけじゃないし……駅前のアイス屋さんでアイス食べるだけだし竜胆とか関係ないし」
誰に聞かせるわけでもなくそう言い訳をする。そうでもしないと羞恥心に良く似たようなこの気分に心を占領されそうな気がした。
傷ついても、いいのだと。
竜胆から与えられたその言葉は鋭利な響きで逢の心を切り裂いた後、おずおずと申し訳なさそうに逢のハリボテで固めたような心中の内に居座った。ここに居てもいいだろうか、痛がってもいいだろうかとでも言うように。
「ねえ、私は痛がってもいいんだって。傷ついても手を伸ばすべきなんだってさ」
どう思う、自分の中に居るであろう空想の少女に語りかけてみる。当然返事は無い。ただ母親のように時に姉のように逢に接するあの少女なら優しく頭でも撫でてくれるのだろうと思った。
竜胆に出会ってから、少しずつ世界が色を取り戻してゆく気がする。それが面映くもあり、悔しいような嬉しいような、そんな気分だった。
そんなことを考えながら歩いていたせいか、行きかう人並みのなかに見知った紫を見つけた気がした。
「……竜胆?」
見知った色が映った方へ足を向けて目をこらす。そこには人ごみに紛れて揺れる灰の髪。確かに竜胆だった。確かに竜胆だったが、語尾に疑問系をつけざるおえない。なにせ彼はいつも知っている一辺倒な服ではなかった。
あの趣味の悪い真紫のパーカーの代わりに黒いツナギを着ている。真夏の日差しの中で暑苦しさ倍増だ。しかも腕まくりしているために僅かに見え、全体のアクセントとなっている裏地はあろうことか紫に白の水玉だった。ベルト代わりに結んでいる紐も同じ模様だ。もう趣味が悪いを通り越して激ダサと言っても過言ではないかもしれない。
すごく近寄りたくない。
見なかったことにしてしまおうか、いやそもそも竜胆に会うために此処まで来たわけではなくああでもどうしよう。
遠目に不審人物スレスレの人物を眺めながら葛藤していた逢は、次の瞬間目に入った光景にピタリと動きを止めた。
竜胆は一人ではなかった。
日の光に艶々と輝く短い髪。肩を出すデザインのカットソーがよく似合う年上の美人が竜胆に寄り添い微笑んでいた。
上品な色の口紅を引いた唇が何か音を紡ぐ。それを聞いてか竜胆が微かに笑ったのを見た瞬間、何故だか逢は心臓がすくみあがったような心地に襲われた。
なんだ、これ。
とっさに踵を返してその場から歩き去る。まるで今見たものを全て無かったことにでもするかのような自分の行為に笑ってしまう。
「はは……竜胆が他人と一緒に居る所初めて見たかも……」
強がりのように口にする独り言は全て虚しく落ちてゆく。もう空っぽになって久しく想いを響かせないはずだった心に何かがカラリと音を立てて転がった。それは竜胆の言葉によって切り裂かれ捻じ込まれた、仄かに温かく脈打つものではなく、もっとモヤモヤした何とも言えない不安感を煽るようなものだった。
「意味わかんない……暑いから調子悪くなったんだわ。きっと脱水症状で心臓が不整脈に近くなったんだ。ポカリ買って帰ろう」
酷くすっきりしない嫌な気分のまま駆け出した逢の足は、言葉とは裏腹にいつもの川原に向いていた。日差しを避ける高架線の下まで逃げ込むようにして走り、そこが竜胆と初めて会った場所だったと認識してまたゲンナリとする。
自分の心が、分からない。
何かを感じたのは分かる。だけどそれが何か知らない。掴めない答えにイライラする。
「竜胆があんなこと言うからいけないんだ……」
八つ当たりのように呟いて膝を抱えて蹲る。あんな、人並みに傷ついていいのだなんて言うから、その言葉を養分に自分の心は感覚などというくだらないものを取り戻しつつあるらしい。そんなものあったって痛いだけなのに。痛みだけしか与えないものなど要らなかったのに。
ああでも竜胆が笑うから。少年みたいに綺麗に笑うものだから、それをくすぐったいような気持ちで受け止めてしまったから、痛み以外を軽く放り投げて寄越したりするものだから、だから自分は性懲りもなく手を伸ばそうとしてしまったのだ。そうして意味の分からない感情に振り回され、まるで死期を待つ猫のようにこんな所で一人座り込む。
「最悪だわ……」
いっそ身投げしてしまいたい。ああもう今すぐ目の前の川に飛び込めば少しはすっきりするだろうか。ついでに頭も冷えて熱中症のようなさっきの症状もなんとかなって一石二鳥だ。うん、そうしよう。
混乱しきって湯だった頭のまま、逢は水面に向かってフラリと体を傾がせた。影になって光ることもなくただトロリと流れる境界線が視界一杯に広がる。逢は冷たい水に溢れた数秒後の世界に備え目を閉じた。
「何してんの?」
「ぐぇ」
しかし想像していた冷たさの代わりにやってきたのは首筋への圧迫。息の詰まる苦しさに両腕を振り回してもがけば、首の辺りの洋服を掴んで腕一本で逢の体を岸に引き止めていたらしい相手はあっけなくその手を離した。今度はバランスを崩してふらつく逢の手を握りながら、のんびりとした問いかけは再度降ってきた。
「何してんの?水練?」