子守唄
落ちていく、おちていく。
下へゆっくりと沈んでいくのが自分でも分かる。誰かが遠くで呼んでいる。
華奢な腕が自分を柔らかく抱き寄せたのを知覚して、逢はゆっくりと目を開けた。
「ここは……?」
「おかえり。現と切り離された内なる世界の底へ」
沈んだ先にあったのはよく見なれた、不思議な場所だった。白くけぶり、時々思い出したように淡い色を浮かべる靄に覆われた空間。上も下も無いのに確かに足は地面に着いている。そんな世界。
「……あ、そっか、私寝ちゃったんだ……」
彼に自我を突き崩されたのは思ったよりキツかったらしい。もう何も考えたくなくなって、家に帰ってすぐに布団にくるまってしまったのだ。恐らくそのまま眠ってしまったのだろう。その証拠に目の前には母と同じ色の目をした、自分とよく似た少女が立っている。
「こんにちは、久しぶりだね」
思えば彼女と顔を合わせるのもずいぶんと久しぶりだ。少なくとも竜胆と暮らすようになってからは会っていない。会いたくて会える、というようなものでもないが。
物心ついた時、それこそ不意に体が痛むようになった頃から、逢は時々不思議な夢を見た。いわゆる明晰夢というやつだ。夢らしく空を飛べるわけでもないし怪獣に追いかけられるわけでもない。ただこの柔らかな空間で、自分と似たような顔をした名前も知らない少女と会う、それだけの夢。
少女の目は鮮やかな金の色で、頭には捻れた角が二本生えている。鬼のような見ための子だ。しかし怖くはない。その眼差しはどこまでも優しい色をたたえているし、何より自分の成長に合わせるように大きくなっていく彼女とはずっと一緒に居るのだ。もう最初の会話がなんだったかすら覚えていない。いつの間にか此処は逢にとって、自身の気持ちを見つめなおすための大切な場所になっていた。
所詮自分が頭の中で作り出した夢の中だという気安さもあって、独り言をこぼすように逢はいろんなことを彼女に話した。そんな逢の話を彼女は根気強く聞き、慰め、時には叱咤して、悲しい時には静かな声で子守唄を歌ってくれた。そうして一緒に居てくれたのだ。
自分の脳が寂しさのあまり作り出した幻の友達だと分かっていても、逢には確かな救いだったのだ。一人だけれど一人じゃないと思うことができた。自分のことを認めてくれる、唯一だった。
「元気が無いな……何かあったのか?」
「いっぱいあったよ……いろんなことが」
一つ抜粋するなら、彼氏ができた。そういうと少女は驚いた風もなく、「そいつにいじめられたのか?」と聞き返して来た。
「ちょっと違うかな……たぶん私は、自分が思っているよりもずっと、アイツのことを近しく思っていたんだと思う」
懐に入れていたとも言える。きっと浮かれていたのだろう。初めてそばに居てくれる人ができて、一緒に笑いあえて、一人じゃなくなって。
「だからこそ、踏み込まないでいてくれるなんて、手前勝手に馬鹿な期待を持っていたの」
傷つかずに生きていけるように作ったライン。それを竜胆は易々と壊してしまった。本当は彼の言うことが間違っていないことだって、分かってる。だけど怖いのだ、諦めることをやめて、当たり前を望んだ手をはね除けられ、今さら傷つくのが怖くてしょうがないのだ。
「……かわいそうに、辛かったね。今はただ眠るといい。どうすればいいか、自分がどうしたいかはそれから考えればいい」
おいで、子守唄を歌ってあげよう。そう言って手招きする彼女に、逢はノロノロともたれた。低い声で紡がれる旋律、ゆっくりと背中を撫でる手。遠い昔に失った、母の温もりを思いだし逢は少しだけ悲しくなった。もういいや、眠ろう。それからのことは起きてから考えるから。
******
「なー、逢ー、機嫌なおせよー。夕飯に好きなもの作ってやるからさー」
無言のまま家まで戻り、フラフラと自室に入っていったきりの逢に、竜胆は先ほどから部屋の前で呼びかけを続けていた。しかし目の前には相変わらず静まり返った扉が鎮座するだけで、彼女は姿を見せない。気分は天岩戸だ。いっそ舞ったら出てくるのだろうか。
困ったなぁなどとぼやいていた竜胆は、突然顔を強張らせ、予備動作無しで横に跳んだ。その直後、凄まじい音を立てて扉が吹き飛ぶ。
「……は?」
見間違いではなく、扉が内側から、吹き飛んだ。
いやいやいやいや、なんで吹き飛ぶ?アイツは天岩戸の中で波動拳でも修得してたのか?一瞬そんなくだらない考えが走馬灯のように頭を過ったが、謎は次の瞬間には消えた。
ひたり、と部屋の中から踏み出す裸足の足。角こそ生えていないものの、その瞳を金に輝かせる少女。
怒りに燃える鬼姫が、立っていた。






