箱
学校というのは緩やかな牢獄に似ているなと、逢は時々思う。こんな狭い箱のような場所に同世代を集めて「集団」であることを強要してくる、そういう社会というのはいつだってボーダーラインから逸脱した者に冷たいのだ。
「一般論が引いたレールなんて案外脆いもんなのに」
呟いた言葉はたくさんの紙に吸い込まれるようにして消えていった。
こんな場所でも、本に囲まれて静まりかえる図書室は心地良い。人気の無い空間は書物が傷まないため の配慮か日差しは無く、開け放たれた窓から夏の風だけがカーテンを揺らして吹き抜けていった。
遠いところから微かに蝉の鳴き声が聞こえてきて、あぁもうすぐ夏も終わるのだなどと他人事のようにぼんやりと考える。なんだか今年の夏はずいぶんといろんな事があった気がする。推定彼氏ができたり、夏祭りに行ったり、川原を延々と歩き続けたり。こうして見ると立派に青春を謳歌しているように見えるから不思議だ。実際には基本的に惨憺たる有り様なのに。
でも本当に――忙しかった、にぎやかだった。少なくとも去年までの夏休みを振り返って寂しかったなと思えるくらいには。
窓から流れて来た昼下がりの風が本達の間を通り抜ける。ふわりと古びた紙の甘い匂いが香った。
逢は高い書架から本を取るための脚立に腰かけて、ちょうど目線の高さにあった小説を棚から抜き取った。
書物は好きだ。価値観を押しつけることもなく、読み手を差別することもなく、ただ静かに作者の想いと知識を刻んで其処に在る。いっそ人よりもその在り方は分かりやすくて良い。
昼休みが終わったからだろうか、廊下も図書室も静まり返り、ただ逢が頁をめくる音だけが響いていた。
「なんて心地良い空間なんだろう」
だから箱の中でもこの空間は好き。
手慰みに開いた小説を読み進めながら、逢はぽつりと呟いた。
***
――竜を封じた清き聖女
――竜を愛した愚かな女
己の体と竜の心臓を一つの剣で刺し貫きながら、少女は涙をこぼして静かに笑う。
「愛しています。私の貴方」
いったい、愛する者を自らの手で屠るなど、いかほどの狂気を持ち、いかほどの覚悟を背負ったのか――
「…っと、ょっとぉ!ちょっと!聞こえてるの!?」
「……え?」
いつの間にか読書に没頭してしまったらしい。耳元でがなりたてる喧しい声に、逢は意識を引き戻された。せっかく話も佳境だったのに。
「いにしえの竜の封印が解けるところだったのに……」
「は?何言ってるの、気持ち悪い子」
ボソリと呟いた文句はしっかりと聞こえていたらしい。虫でもみるような、それでいてどこか怖がるような視線を寄越された。
いつだって集団は、ボーダーラインから外れている者に冷たい。
生まれのせいか育ちのせいか、逢は学校では同世代の少女達にはあまり好かれなかった。別段自分から何を言ったわけでも無いけれど、女特有のカンで集団においての異質を嗅ぎわけているのか、気がついたら悪評というかなんというか、とにかく何らかの噂が流れて逢は遠巻きにされるようになっていた。
「貴女、父親はそこそこの有権者らしいけど、母親の素性は不明らしいじゃない。さすが何処の誰とも分からない女の腹から産まれた子ね、座り方にも品が無いったら」
どうやらカトリック系のお嬢様学校は座り方にすら品格を求めるらしい。まぁ普通お嬢様はスカートで脚立に跨がって足を晒したりしないだろうよ、育ちの悪さには、多少の自覚はある。しかしこんな古典的な嫌味を言う人間がまだ存在するとは、これだから良いとこの女子高はガラパゴスだなんて都市伝説がたつのだ。真実だったけど。
逢はため息をついて本を閉じた。安寧の時間は終わりだ。
「で、何の用?」
確かこの女子はクラスメイトだ。逢によく絡んでくる娘だからよく覚えている。後ろの方で図書室の外から此方の様子をうかがっている目の前の娘の取り巻き達も恐らくはクラスメイトなのだろう。顔も名前も知らないくらい希薄な存在感だけど。
視線を投げ掛けられた女子は怯えたように一瞬肩を引き、そしてそんな自分を誤魔化すように鋭い目付きで逢を睨み付けてきた。
「あ……貴女ねぇ!中途半端に授業に出てからサボるの止めなさいよ!迷惑なのよ!貴女が教室にも居ず帰りもせずこんな所でダラダラしてるせいで、文化祭の催し物についてクラスメイト全員の署名が集められないんでしょうがっ!」
話し合いが進まないのよっ!と顔から火を吹きそうな勢いで怒鳴る少女を見て、ようやく逢にも合点がいった。嫌がらせでもなく嫌みでもなく珍しく真っ当な理由だったらしい。
「あぁ……ごめん、忘れてた」
というより、知らなかった。
一応逢も午前の授業だけは真面目に受けたのだ。しかし不登校スレスレの出席数で、なおかつクラス内の情報ネットワークが陸の孤島状態では、午後に文化祭関連の集まりがあることまでは知らなかったのも無理は無い。夏休み特有のうっかりミスとも言える。
「ごめんごめん、今行くよ」
「あたりまえよ。早くしなさい!」
しかめっ面で急かされた。たぶん彼女の頭の中ではわざと逢が面倒を引き起こしたとか、意地悪をしたとか、そんなふうに事態が処理されているのだろう。好かれていないからといって迷惑をかけるつもりなどないのに。今回は本当にうっかりしていた。
本を棚に戻して脚立から飛び降りる。めくれあがるスカートを上手くさばいて立ち上がると、彼女はまたなんとも微妙な顔をしていた。
「そういうところに育ちが出るって言っているのよ……」
「ん、何か言った?」
「……別に。これだから育ちの悪い女は嫌だって言ったのよ」
言い捨てると彼女は踵を返した。しかし何故一際自分を嫌っている彼女が探しに来たのだろうなどと考えていると、まるで思考を読んだかのように「勘違いしないでよね!学級委員じゃなきゃアンタなんて探したりしなかったんだから!」と怒鳴られた。ツンデレのような物言いだが実態は言葉の通りなのだろう。
書に囲まれた空間を抜け出して、一歩踏み出したリノチウムの床は夏だというのにばかみたいにひんやりした空気を放っていた。
試験的に携帯から投稿。勝手が分からんとです……