妻への想い
妻が部屋に入ってきた瞬間。
闘神の手は止まった。
まさか来るとは思っていなかった。
昨日――
あれだけのことを話した。
時の神のこと。
自分が彼女を連れてきた理由。
そして、今愛しているのは彼女だと。
それは闘神にとっても初めて口にした本音だった。
だからこそ、
今日は来ないと思っていた。
来るとしても、もっと時間がかかると思っていた。
もしかすると。
もう二度と、この部屋には来ないかもしれない。
そんな考えすらあった。
それでも。
妻は来た。
何も言わず。
いつものように部屋に入り。
杯を整え。
書類を直し。
衣を整える。
まるで。
本当に何もなかったかのように。
闘神はそれを黙って見ていた。
胸の奥が静かに揺れている。
理解できない感情だった。
安堵なのか。
戸惑いなのか。
それとも――
恐れなのか。
昨日の言葉を思い出す。
「今の俺が愛しているのは、お前自身だ」
あれは本当だ。
偽りではない。
だが。
それを聞いた彼女が、どう受け取るか。
分からなかった。
怒るかもしれない。
拒むかもしれない。
軽蔑するかもしれない。
それでも仕方ないと思っていた。
自分がしてきたことは、それだけのことだったからだ。
だから、
今、目の前にいる彼女の姿が――
信じられない。
そして、
彼女が振り向いて、微笑んだ瞬間。
闘神の胸の奥で何かがほどけた。
あの微笑み。
花園で見たものと同じ。
小さくて。
静かで。
けれど確かに温かい。
闘神は思う。
この女は本当に人間なのだろうか。
神ではない。
力もない。
弱い存在のはずなのに。
自分よりもずっと強い。
子を奪われても。
真実を知っても。
壊れてしまわない。
それでも立っている。
そしてまたここへ来た。
闘神は杯を受け取る。
指先に、ほんの少し彼女の温もりが残る。
その温もりを感じながら思う。
自分は今まで何百年も戦ってきた。
神を殺し。
領地を奪い。
誰よりも強いと言われてきた。
だが今、分かる。
本当に強いのは。
この女かもしれない。
闘神は視線を落とす。
そして小さく思う。
失いたくない。
それは時の神に向けていた感情とは違う。
もっと静かで、
もっと深いものだった。




