やわらかな妻
闘神が言葉を残したあと。
部屋には静かな空気だけが残った。
「今の俺が愛しているのは、お前自身だ」
その言葉は確かに告げた。
だが――
それ以上は何も言わなかった。
闘神は妻の手をゆっくり離す。
しばらく彼女を見ていた。
妻は何も言わない。
ただ静かに立っている。
その沈黙を見て、闘神は理解した。
今は答えを求める時ではない。
あまりにも多くのことがあった。
子のこと。
時の神のこと。
自分がしてきたこと。
彼女が受けてきたこと。
簡単に答えなど出るはずがない。
闘神は一歩下がった。
そして短く言う。
「……今日は休め」
それだけだった。
振り返ることなく。
闘神は部屋を出ていった。
廊下を歩きながら思う。
しばらく、そっとしておこう。
彼女がどう思うか。
それは彼女が決めることだ。
神であっても、そこには踏み込めない。
⸻
次の日の朝。
闘神の部屋。
窓の外は赤い空。
闘神は机の前に座っていた。
報告書を見ている。
だが、頭には入っていない。
昨日のことが、まだ胸に残っている。
そのとき扉が静かに開いた。
闘神の手が止まる。
入ってきたのは――
妻だった。
闘神の目がわずかに動く。
妻は何も言わない。
ただいつものように部屋に入り。
机の横に置かれた杯を手に取る。
新しい酒を注ぐ。
書類を整える。
衣を掛け直す。
身の回りの世話をしている。
まるで何事もなかったかのように。
闘神はしばらくそれを見ていた。
そして低く声をかける。
「……来なくていいと言ったはずだ」
妻の手が少し止まる。
それから振り向く。
闘神を見る。
その顔は――
昨日とは違った。
そして妻は静かに言った。
「お世話をするのは」
少しだけ目を細める。
「私の役目ですから」
ほんの少しだけ微笑んだ。
とても静かな笑顔。
花園で見たのと同じ。
闘神の胸の奥が、わずかにほどける。
妻はまた仕事に戻る。
杯を差し出す。
「どうぞ」
闘神はそれを受け取る。
何も言わない。
だがその部屋の空気は、
昨日よりも少しだけ――
やわらかくなっていた。




