闘神の迷い
妻の言葉が落ちた瞬間。
部屋の空気が、完全に止まった。
闘神はまだ妻の手首を掴んでいる。
だがその手の力は、
もう入っていなかった。
⸻
時の神ではありません。
その言葉が、頭の中で繰り返される。
妻の目。
静かな目。
怒りもない。
責めてもいない。
ただ理解してしまった目だった。
闘神の胸の奥で、何かが軋む。
自分がずっと隠していたもの。
誰にも言わなかったこと。
いや。
自分自身にも、はっきりとは認めていなかったこと。
それを。
彼女は見抜いていた。
あの日。
彼女が言った言葉。
「私を見ていません」
「他の誰かを見ているようです」
あの時。
思わず頬を叩いた。
それは怒りではなかった。
図星だったからだ。
闘神は理解していた。
自分が最初に彼女を連れてきた理由。
それは――
時の神。
何百年も愛した神。
その転生を見つけたから。
ただそれだけだった。
だから記憶を消し、
城に閉じ込め、妻にした。
彼女の意思など関係ない。
それが神のやり方だった。
だが闘神の胸の奥が、強く痛む。
今、目の前にいる彼女は。
その理由を知ってしまった。
そして自分を見ている。
その目には。
怒りはない。
ただ深い悲しみがある。
それが、何よりも苦しい。
闘神は思い出す。
城に来たばかりの頃の彼女。
反抗していた。
睨みつけていた。
それでもだんだんと変わっていった。
丁寧な言葉を使うようになり、
給仕をし自分の帰りを待つようになり、
花園で、
小さく笑った。
そして、子を身籠った。
あの時自分は願っていた。
女であれ。
その願いは、
時の神のためではない。
彼女のためだった。
だが、それを言葉にしたことはない。
認めることもしなかった。
そして、
子を奪った、
自分の手で。
闘神の胸が強く締めつけられる。
今、彼女は思っている。
自分は代わり、
時の神の影。
本当の愛ではない。
闘神の指が、わずかに震える。
違う。
そうではない。
そうではないのに。
自分は一度も言わなかった。
何も。
何も。
だから。
彼女はそう思うしかない。
闘神は初めて気づく。
自分がしてきたことの重さを。
神として生きてきた。
戦い。
支配。
命令。
それが当たり前だった。
だが目の前にいるこの女は、
神ではない。
ただの人間だ。
心がある。
傷つく。
悲しむ。
それを今になって理解している。
あまりにも遅く。
闘神の胸の奥から、低い声が漏れる。
「……違う」
それは戦場で叫ぶ声ではない。
神が命じる声でもない。
初めて迷いを持った声だった。




