神の代わり
花園の散歩から、数日が過ぎた。
城の空気は少しずつ変わっていた。
妻の顔色は戻り、歩く足取りも軽くなっている。
食事も普通に取るようになり、侍女たちも安心していた。
闘神も、表には出さないが――
胸の奥では、静かに安堵していた。
あの日、花園で見た。
小さな微笑み。
それだけで十分だった。
失われたものは戻らない。
だが、
それでも彼女が前を向き始めている。
それだけでよかった。
⸻
その夜。
妻は久しぶりに闘神の部屋へ向かっていた。
給仕をするためでもあるが。
それ以上に――
自分から行こうと思ったのは、久しぶりだった。
廊下を静かに歩く。
城の灯りが揺れている。
妻は思う。
闘神は今日も戦から戻っている。
少し疲れているように見えた。
だから。
「お茶でもお出ししましょう」
そんなことを考えていた。
部屋の近くまで来たとき。
角の向こうから、声が聞こえた。
神兵たちだった。
「本当なのか?」
「聞いたぞ」
妻は足を止める。
兵たちは気づいていない。
話は続いていた。
「闘神様が人間を妻にした理由」
妻の心が、わずかに動く。
兵が言う。
「昔、愛していた神がいたらしい」
別の兵が答える。
「ああ」
「時の神だろう」
妻の呼吸が止まる。
兵は続けた。
「すごい力を持つ神だったらしいな」
「神々が恐れて消そうとしたとか」
「それで時の神自らが転生したって話だ」
妻の指が、ゆっくり震える。
兵は笑うように言った。
「その生まれ変わりが、今の奥方様らしい」
もう一人が言う。
「だから連れてきたんだろ」
「人間なのに妻にした理由、それしかない」
「つまり」
少し声を落として。
「闘神様が愛してるのは」
「奥方様じゃない」
「時の神だ」
妻の足元が、ぐらりと揺れた。
兵たちはまだ話している。
「まあ、奥方様も大変だな」
「ただの人間なのに」
「神の代わりにされてるんだから」
笑い声が遠くで響く。
だが妻には、もう何も聞こえていなかった。
⸻
廊下に一人。
妻は立ち尽くしていた。
頭の中が真っ白だった。
思い出す。
闘神の目。
時々、自分を見ていないような目。
あの時、自分が言った言葉。
「私ではない誰かを見ているようです」
あれは間違っていなかった。
妻の胸の奥で、何かが静かに崩れていく。
「……そうだったんですね」
小さく呟く。
闘神が優しかった理由。
城に置いた理由。
妻にした理由。
全部。
自分ではなかった。
自分はただ。
別の女性の影。
生まれ変わり。
代わり。
それだけ。
妻の胸が締めつけられる。
「……私を」
声が震える。
「見ていたわけでは……」
涙が溢れる。
止まらない。
それでも声を出さない。
ただ静かに、
その場で涙を流した。
久しぶりに胸の奥が、
また深く崩れていった。




