闘神が見ているもの
夜。
闘神の私室。
石の壁に灯る炎が、静かに揺れていた。
闘神は窓の前に立っている。
赤く染まった空を見下ろしていた。
背後には――
人間の妻。
静かに立っている。
闘神は振り向かずに言った。
「……もう一度言う」
低く、淡々とした声。
「城の外には出るな」
妻はすぐに頭を下げる。
「かしこまりました」
闘神は続ける。
「城の門にも近づくな」
「はい」
「城壁にも近づくな」
「承知しました」
従順な返事だった。
以前のような反抗はない。
言葉遣いも丁寧。
闘神はゆっくり振り向いた。
妻を見下ろす。
「理解しているな」
妻は顔を上げた。
「はい」
そして、少しだけ首を傾ける。
「……ですが」
闘神の眉がわずかに動く。
妻は続けた。
「一つ、お聞きしてもよろしいでしょうか」
「許可はしていない」
いつもの答え。
だが妻は、静かに言った。
「申し訳ありません」
そして、闘神を見つめる。
その目は、真っ直ぐだった。
「ですが……」
一瞬、言葉を探すように沈黙する。
「あなたは」
少し迷ってから言った。
「……私を見ていません」
闘神の空気が、わずかに止まる。
妻は続けた。
「正確には」
静かな声。
「私を見ているのですが……」
視線を逸らさない。
「私ではない誰かを見ているようです」
闘神の瞳が、わずかに揺れた。
妻は続ける。
「まるで」
言葉を選びながら。
「……他の誰かを重ねているような」
その瞬間。
パシン――
乾いた音が部屋に響いた。
妻の顔が横に弾かれる。
闘神の手だった。
頬を叩いていた。
静寂。
炎の音だけが聞こえる。
妻の頬が赤くなっていた。
だが妻は怒らない。
ただ、少し驚いたように目を瞬かせた。
ゆっくり顔を戻す。
そして、頭を下げた。
「……申し訳ありません」
静かな声。
「余計なことを申し上げました」
闘神は何も言わない。
拳を握っている。
その表情は、いつものように冷たい。
だが、目だけが違った。
揺れていた。
ほんの一瞬。
闘神は背を向けた。
そして扉へ向かう。
妻が言う。
「お休みになりますか」
闘神は止まらない。
「……」
返事はない。
扉を開ける。
そして、そのまま部屋を出て行った。
重い扉が閉まる。
部屋には妻だけが残った。
妻はゆっくり頬に触れる。
少し赤い。
だが、痛みよりも。
妻は小さく呟いた。
「……やはり」
静かな声。
「私を見ているわけではないのですね」
炎が揺れる。
城の廊下。
闘神は歩き続けていた。
顔はいつものまま冷たい。
だが――
胸の奥だけが、揺れていた。




