若き当主の茨道 ~相続したのは借金と絶望でした~
母親エリザの悲痛な声が、静かな屋敷の廊下に響いた。
俺は息を呑み、彼女と共に父ゲオルグが倒れたという工房へと急いだ。
扉を開けると、ツンとした薬品の刺激臭と、微かな焦げ臭さ、そして魔力が激しく乱れた後のような奇妙な静電気が肌を刺した。
床には砕けたガラス片が光を鈍く反射し、壁の一部が黒く煤けているだけでなく、まるで空間ごと抉られたかのような、異様な傷跡を残していた。
そして、工房の中央、複雑な錬成陣が描かれた石の台座のそばで、父ゲオルグは倒れていた。
傍らには、以前は鈍い光を放っていたはずの黒曜石のような石板――父が執心していた古代遺物だろう――が、今は表面に刻まれていたはずの複雑な紋様がほとんど消えかかり、深い亀裂が入って、ただの石くれのように転がっている。
「あなた! しっかりなさってください!」
エリザがゲオルグの身体を揺さぶるが、反応はない。顔色は土気色で、呼吸も浅く、不規則だ。
すぐに駆けつけた年配の医師(この領地では唯一の医者らしい)が診察を始めたが、その表情はすぐに険しくなり、力なく首を横に振るばかりだった。
(……やはり、事故か。あの石板が原因か、あるいは別の研究か……壁の傷、この異常な魔力の残滓…通常の錬金術の失敗じゃない。父上、あなたは一体、何に手を出していたんだ……)
俺は、散乱した工房の惨状と、力なく横たわる父親の姿を、ただ呆然と見つめることしかできなかった。
前世での過労死の記憶が不快なほど鮮明にフラッシュバックし、言いようのない虚無感と無力感が胸を満たす。
結局、この世界でも、俺は大切なもの(たとえ問題だらけの父親だったとしても)を守れないのか、と。
医師の懸命な治療もむなしく、父ゲオルグはその三日後、一度も意識を取り戻すことなく息を引き取った。
死因は、公式には「長年の研究による過労と、それに伴う心臓発作」とされた。
工房での事故については、アルクマイヤー家の体面と、おそらくは研究内容の秘匿のため、伏せられた形だ。
だが、俺にはわかっていた。父は、自らが追い求めた錬金術の深淵――アルカヌムの叡智――に、その身を捧げすぎたのだ。その代償が、これだったのだろう。
葬儀は、アルクマイヤー家の菩提寺である古い教会で、粛々と執り行われた。
参列者は、数えるほどしかいない領民の代表と、遠縁にあたる数名の貴族、そして、父の研究成果――あるいはその負債――を値踏みするかのような、計算高い目を光らせる錬金術師ギルドの役人だけだった。
かつては名門とされたアルクマイヤー家の、寂しい末路を象徴するような光景だった。
エリザは気丈に振る舞っていたが、その目元は赤く腫れ、時折、押さえきれない嗚咽を漏らしていた。
俺は、まだ十五歳という若さで喪主を務め、慣れない貴族の作法に従って、淡々と弔問客に応対した。心の中は、父への複雑な感情と、これから直面するであろう現実への重圧で、鉛のように重かった。
葬儀が終わり、慌ただしい日々が少しだけ落ち着きを取り戻した頃、俺は書斎で、アルクマイヤー家の顧問弁護士であるハミルトンと向き合っていた。
先代からの付き合いだという、実直そうな、しかし少し疲れた表情の老齢の法律家だ。
目の前には、相続に関する書類の山。そして、その中に、一際分厚く、禍々しいオーラを放つ束があった。借金の証文の束だ。
「……リョウスケ様。お父上のゲオルグ様のこと、誠にご愁傷様です。まだお若いあなたに、このような話をするのは心苦しいのですが……」
ハミルトン弁護士は、同情的な眼差しで、しかし事務的に切り出した。
「アルクマイヤー家の、現在の負債状況について、ご説明しなければなりません」
そして、語られた内容は、俺の想像を遥かに超えて、絶望的という言葉すら生ぬるいものだった。
父ゲオルグは、その生涯をかけた古代遺物研究――特にアルカヌム文明の研究のために、複数の金融機関や商人から、莫大な額の借金をしていた。
担保は、この屋敷と、もはや名ばかりとなった領地全土、そしてアルクマイヤー家に伝わる(今は価値が暴落している)数少ない家宝。
返済は長期間滞っており、利子は雪だるま式に膨れ上がっていた。
「…特に悪名高い高利貸し『ゴルドマン商会』からの借入額は総負債の半分以上を占めており、その年利は…正直申し上げて法外です。複利で計算され、もはや元金の数倍に膨れ上がっております」
弁護士は続けた。
「返済期限は、他の債権者への支払いも含め、実質的にあと半年もありません。彼らは容赦しませんぞ。返済が一日でも滞れば、この屋敷も領地も、文字通り骨の髄までしゃぶり尽くされることになるでしょう。ゴルドマン商会は、そういう連中です」
ハミルトン弁護士の淡々とした説明が、俺の頭の中で現実味を帯びていく。
(年利…法外だと? 半年で…この額を…? ふざけるな…! まるでヤクザじゃないか…! 無理だ、どう考えても普通の手段では…!)
帳簿の断片から予想はしていた。だが、目の前に突きつけられた具体的な数字と非情な現実は、俺のなけなしの希望すら打ち砕き、内臓が凍りつくような感覚をもたらした。
「……相続、放棄、は……?」
かろうじて、それだけを口にするのが精一杯だった。声が震えているのが自分でも分かった。
「可能ではあります。しかし、その場合、この屋敷も領地も、家財道具の一つに至るまで、全て債権者に差し押さえられることになります。エリザ様と共に、あなたは文字通り着の身着のまま放り出され、路頭に迷うことになるでしょう。貴族としての地位も名誉も、全て失われます」
弁護士の言葉は、冷徹な宣告だった。
(路頭に迷う……か。エリザ母上を、そんな目に遭わせるわけにはいかない。それに、領民たちは……? 俺を信じると言っていた彼らを、見捨てるのか? いや、それ以前に、俺自身が……このまま全てを投げ出して、また逃げるのか? 前世と同じように……?)
脳裏に、フューチャー・ブレイン・ソリューションズでの日々が蘇る。理不尽な要求、終わらない残業、心を病んでいく仲間たち。俺は、何も変えられなかった。何も守れなかった。そして、責任から逃げるように死んだ。
今度こそ、違う結末を迎えたいのではなかったのか?
この異世界で、自分の力で何かを成し遂げたい、守りたいと願ったのではなかったのか?
(……だが、どうやって? この借金、この状況で、俺に何ができる? 錬金術の知識も、まだ基礎をかじった程度だ。経営の経験はあるが、それは前世の、しかも全く異なる社会での話。この世界で通用する保証はない……)
葛藤が、嵐のように胸中で吹き荒れる。窓の外では、まるで俺の心を映すかのように、冷たい雨が降りしきり、窓ガラスを叩いていた。
その時だった。書斎の扉が遠慮なくノックされ、返事をする間もなく、ゴルドマン商会の担当者――ファルケンと名乗っていたか――が、傘から滴る雨水を絨毯に落とすのも気にせず入ってきた。
蛇のように冷たい目つきの中年男だ。以前、父が生きていた頃にも何度か顔を見たことがある。取り立てに来ては、父に罵声を浴びせていた姿を思い出す。
「これはこれは、アルクマイヤー“卿”。この度はお悔やみ申し上げます。……さて、感傷に浸る時間は終わりですかな? 相続の件、どうなさるおつもりか、そろそろ我々にもお聞かせ願いたい」
男は、隠そうともしない嘲りと侮蔑を含んだ声で言った。その瞳は、まるで値踏みするように俺を見ている。若く、経験のない新当主。彼らにとっては、容易く食い物にできる、ただの獲物なのだろう。
その侮蔑に満ちた視線が、俺の中で燻っていた何かに火をつけた。怒り、反骨心、そして、ここで折れるわけにはいかないという意地。
(……舐めるなよ、クソが)
そうだ、俺はもう、前世の無力な社畜じゃない。
たとえ状況が絶望的でも、知識も、経験も、そして何より、守りたいものが、ここにはある。
この家を、母上を、そして、まだ見ぬアルクマイヤー家の未来を。
俺は、顔を上げた。目の下の隈は深くなっているだろう。表情も硬いかもしれない。だが、瞳の奥に、確かな意志の光を灯して。
「……相続します。アルクマイヤー家の家督も、名誉も、そして負債も、全て私が引き継ぎます」
きっぱりと言い放つと、ファルケンは一瞬驚いたような顔をしたが、すぐに唇を歪め、醜い笑みを浮かべた。
「ほう……それは威勢がいい。若さゆえの蛮勇か、それとも何か勝算でも? まあ、どちらでもよろしい。せいぜい足掻くことだな」
彼は続けた。
「ただし、返済計画は一月以内に提出していただく。もし滞るようなら……あるいは、我々を欺こうなどと考えたなら……どうなるか、お分かりですかな? お母上共々、この領地から塵一つ残さず消えていただくことになる」
露骨な脅し文句を残し、男は満足そうに、そして侮るような視線をもう一度俺に投げかけてから去っていった。
扉が閉まると、重い沈黙が書斎を支配した。
ハミルトン弁護士は、心配そうに俺を見た。
「リョウスケ様、本当に……よろしいのですか? あの額を、半年で…常識的に考えて不可能ですぞ」
「ええ。覚悟は決めました」
俺は頷いた。覚悟は、決めた。だが、具体的な計画は何もない。まさに、無謀な決断だ。
一瞬、その重圧に膝が震えそうになったが、奥歯を噛み締めて耐える。
「ハミルトンさん、ありがとうございます。当面、法的な手続きをお願いします。返済計画については…少し時間をください」
「…わかりました。何か私に出来ることがあれば、いつでもご相談ください。微力ながらお力になりましょう。ただし、ゴルドマン商会にはくれぐれもご注意を」
弁護士はそう言い残し、重い足取りで書斎を後にした。
一人になると、どっと疲労感が押し寄せてきた。
怒りと悔しさで、近くにあったインク壺を壁に投げつけたい衝動に駆られたが、かろうじて抑え込む。
(落ち着け…感情的になるな。まずは現状把握だ)
書斎を出ると、廊下でエリザが不安そうな顔で待っていた。
「リョウスケ……話は、聞きました。あなたが、全てを……」
「はい、母上。俺がアルクマイヤー家を継ぎます」
「まあ……! リョウスケ……本当に、あなたが……?」
エリザは目を見開いた。
「ごめんなさい、母が不甲斐ないばかりに、あなたにこんな重荷を……でも、あなたなら…きっと、ゲオルグ様の遺した研究を…アルクマイヤー家の誇りを守ってくれると信じていますわ…!」
エリザは涙ながらに俺の手を握りしめた。その言葉には、息子への心配と期待、そして、どこか現実から目を背けたいような、夫への変わらぬ(そして少しズレた)信頼が入り混じっていた。
(…母上には、まだ本当の危機は伝わっていないのかもしれない。いや、伝えない方がいいか…今は)
「ええ、母上。ご心配なく。俺が必ず、なんとかしますから」
根拠のない言葉だったが、そう言ってエリザを安心させるしかなかった。
エリザと別れ、俺はまっすぐ父が最後まで籠っていた工房へと向かった。
扉を開けると、父の残り香のように、薬品と埃、そして微かな魔力の残滓が混じった独特の匂いが鼻をついた。
足元には砕けたガラス片がまだ残っており、壁の異様な傷跡が事故の激しさを物語る。静寂の中、時折、棚の古文書が崩れる乾いた音が響いた。
ここが、俺の新たな戦場であり、そして唯一の希望が眠る場所だ。
(アルクマイヤー家再建計画…か。言葉にするのは簡単だが、武器は絶望的な負債と未知の錬金術、そして前世の知識だけ。あまりにも無謀な賭けだ…だが、やるしかない)
俺は、散乱した研究ノートの束を手に取った。
父の独特の癖字で、様々な数式や錬成陣、そして走り書きのメモが記されている。
ページをめくっていくと、最後のページに近い部分に、事故直前に書かれたと思われる記述を見つけた。
『…黒曜石板、起動シーケンス確認…制御プロトコル応答せず…警告! 膨大なエネルギー逆流…空間座標不安定…歪曲発生…!? 等価交換の法則を超えた現象…? ならば、代償は……私の…』
そこで記述は途切れていた。
その下には、見たこともない複雑な、しかしどこか美しさすら感じる幾何学的な紋様――新たな術式だろうか――が描きかけられていた。
(…やはり、石板の制御失敗か。空間歪曲…? 等価交換を超える…? 父上は、とんでもない領域に足を踏み入れていたらしい。そして、この描きかけの術式は…? これが完成すれば、あるいは…)
ほんのわずかな、しかし確かな希望の欠片を見つけたような気がした。絶望的な状況は変わらない。だが、ゼロではない。
俺は、工房の真ん中に立ち、もう一度、深く息を吸い込んだ。
(さて、どこから手を付けるか……)
(まずは、このカオスな工房の徹底的な整理と清掃だ。それから、父上の研究ノートの完全解読。この描きかけの術式も含めてな。そして、当面の資金繰り…何か短期的に金になる錬金術はなかったか? 改良した灯火石の量産、あるいは…いや、もっと確実なものがいる)
思考を巡らせ、やるべきことをリストアップしていく。道は険しく、長い。
だが、もう迷いはなかった。
リョウスケ・フォン・アルクマイヤー、十五歳(精神年齢はとっくに定年超えの気分だ)。
彼の孤独で無謀な戦いが、今、この埃っぽい工房で、静かに、しかし確かに始まろうとしていた。