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神童(仮)の憂鬱 ~錬金術と家計簿の間で~

異世界での二度目の幼児期は、驚くほどの速度で過ぎ去っていった。自分の足で自由に歩き回り、簡単な言葉で意思疎通ができるようになったリョウスケ(俺)は、生存戦略のため、貪るように知識を吸収し始めた。その姿は、周囲には純粋な知識欲の表れと映っただろうが、俺にとっては必死の情報収集に他ならなかった。主な活動場所は、アルクマイヤー家の埃っぽい書斎だ。


幸い、この家には父親ゲオルグが集めた(あるいは先祖が残した)錬金術関連の古文書や、歴史書、植物・鉱物図鑑などが豊富にあった。俺はまず、この世界の文字の読み書きを習得することから始めた。母親エリザは、俺が熱心に書物に興味を示すのを喜び、「まあ、リョウスケは勉学がお好きなのね。感心だわ」と言いながら、基礎的な文字や文法を丁寧に教えてくれた。赤ん坊の頃に掴んでいた言語の基礎、前世での学習経験、そしてエリザの献身的な指導のおかげで、読み書きの習得は比較的スムーズに進んだ。


三年も経つ頃には、俺は子供向けの絵本どころか、書斎にある錬金術の基礎理論や歴史に関する専門書の一部すら読みこなせるようになっていた。こうなると、情報収集の質と速度が格段に上がる。家の歴史、断片的ながら領地の状況、錬金術の体系、そして何より――書斎の奥、鍵のかかった引き出しの中から偶然見つけ出した帳簿らしき古びた書類の束。その壊滅的な内容を(部分的ながら)把握することができたのだ。


(……やはり、借金まみれか。貴族としての体面を保つための支出、父上の湯水のような研究費、そして度重なる研究失敗による損失補填……。収入源は、不安定極まりない父上の研究成果(近年は成功より失敗が多い)と、痩せた土地からのわずかな税収のみ。これは……計画的財政破綻コースどころか、既に破綻寸前じゃないか……!)


帳簿の断片を前に、俺は深いため息をついた。もはや幼児とは呼べない、七、八歳ほどの少年の姿になっていたが、心労だけは前世の三十代中間管理職時代を軽く超えている自信があった。窓の外では、この領地の農夫たちが、痩せた土地を懸命に耕している姿が見える。彼らの苦労が、この家の浪費によって踏みにじられているように感じ、胃がキリリと痛んだ。


言語能力が向上し、より複雑な会話が可能になってくると、前世のビジネス思考が不意に口をついて出る悪癖が顔を出し始めた。ゲオルグが自慢げに新しい錬金術の成果――壁に当てると一定時間、周辺の埃を吸着するという奇妙なゲル――を見せてきた時、俺はつい言ってしまったのだ。


「父上、それは素晴らしい発想ですが、実用化にあたっての製造コストと量産体制、市場における競合製品(…って、あるのか?)との差別化、そして何よりターゲット顧客層へのマーケティング戦略はどのようにお考えで?」


「……?? こ、こすと? りょ、りょうさんたいせい……? まーけてぃんぐ……? りょ、リョウスケ、それは一体どこの国の言葉だね? もしかして古代アルカヌム語の一部か!?」


目を白黒させる父親に、俺は慌てて「ええっと、つまり、これ、どうやって作って、誰に売るのかなって……お金になるかなってことです!」と子供らしい(?)言葉に言い換えた。いかんいかん、油断するとすぐに地が出る。この父親相手にKPIやROIなんて言った日には、異世界の彼方へ吹っ飛ばされかねない。


父親ゲオルグは、俺が錬金術の基礎理論を次々と理解し、時には大人顔負けの質問や提案――それも前世の知識に基づいた、この世界では斬新な視点からの――をすることに、もはや疑いようもなく「神童」と信じ込んでいた。


「すごいぞリョウスケ! この若さで『等価交換の原則における触媒作用の最適化』について議論できるとは! やはりアルクマイヤーの血は濃いな! お前はアルカヌムの再来かもしれん!」


(だから勘違いだって……。効率化の話をしただけだろ……。アルカヌムって、あの古代文明のことか? 父上、そっち系の研究にも本格的に手を出してるのか……書斎の奥にあった読めない文字の石板もそれか? ますますヤバい匂いがする)


俺はゲオルグから本格的に錬金術の手ほどきを受け始めた。それは、書物だけでは得られない、実践を伴うものだった。素材の精密な計量、複雑怪奇な錬成陣の描画、そして最も重要な「魔力」の制御。魔力とは、この世界のあらゆる場所に存在する根源的なエネルギーであり、錬金術師はこれを自身の精神力で汲み上げ、指向性を持たせ、術式という名のプログラムに従って物質やエネルギーに変換するのだという。


最初は魔力の制御に苦労した。指先に意識を集中させ、体内の微かな熱源を探る。それを糸のように引き出し、術式に流し込もうとするのだが、少しでも気を抜くと霧散し、力を込めすぎれば暴発してフラスコが派手に砕け散った。(くそっ、まるで神経を剥き出しにして流れを読むようだ…! デリケートすぎる…!)失敗の度に、焦げ臭い匂いと、薬品の刺激臭、そして父の呆れた(しかしどこか楽しげな)視線が突き刺さった。


「はっはっは、リョウスケよ、錬金術は試行錯誤の連続だ! 失敗こそ成功の母というではないか!」…いや、その失敗で高価な素材が無駄になってるんですが、父上。


それでも、持ち前の集中力と分析力――前世で培った問題解決能力がここで活きるとは皮肉だ――そして、自分でも驚くほどの人並み以上の魔力への適性のおかげで、俺は驚くほどの速さで基礎技術を習得していった。


エリザが俺の魔力操作を見て、「まあ、リョウスケ。あなたを見ていると、曽祖父様のことを思い出しますわ。あの方も若い頃から並外れた魔力をお持ちだったと、父からよく聞かされましたもの」と懐かしそうに目を細めたことで、この適性が単なる偶然や転生特典だけではない、血筋に由来する可能性を知った。


特に面白かったのは、実用的な魔道具――生活を便利にする小さな道具――の作成だった。ゲオルグの教える基本設計は、悪く言えば古臭く、非効率な部分が多い。俺は前世の知識(主に電気工学や物理学、化学の基礎)を応用し、回路設計の最適化や素材の代替案などを提案した。


「父上、この『灯火石』の魔力回路、並列接続にした方が魔力消費の安定性と持続時間が向上するのでは? それと、この魔力増幅に使っている高価な触媒、もっと安価な銅系の合金でも代用できる計算ですが。ほら、この配合比率なら…」


「むむむ……なんと! リョウスケ、お前の発想は常に私の想像の斜め上を行く! この回路図…シンプルだが美しい! よし、試してみよう!」


ゲオルグは最初は半信半疑だったが、俺の設計図通りに試作すると、その効果は歴然だった。改良版の灯火石は、従来の物より三割以上明るく、倍近く長持ちし、しかも製造コストを大幅に削減できたのだ。


(よし! これだ! こうやって具体的な実利を示し続ければ、父上も少しはコスト意識を持ってくれるかもしれない! これを足がかりに、工房の経営改善を……そして、この技術を他に転用すれば、安定収入に繋がるかもしれない!)

淡い期待を抱き、今後の事業計画(と呼ぶにはおこがましいが)を練り始めた俺に、ゲオルグは満面の笑みで、そして瞳を爛々と輝かせて言った。


「素晴らしいぞリョウスケ! この低コスト高効率化技術! まさにブレイクスルーだ! この効率的な魔力循環の応用だ! ゴーレムの自己修復回路には安定した魔力供給が不可欠だからな! これを応用すれば、長年頓挫していた『完全自律型ゴーレム自動修復機能』の研究も一気に進むぞ! おお、そうだ、そのためにはあの古代遺跡から出土した『オリハルコン系自己修復金属のサンプル』が必要になるな! 少々値が張るが、この研究のためだ、エリザに言ってなんとか資金を捻出してもらおう!」

(…………)


俺は無言で天を仰いだ。ダメだこの親父、早くなんとかしないと。コスト削減に成功した分、別のさらに高額で非現実的な研究に突っ込む気満々だ。オリハルコン系? 古代遺跡? 聞くだけで予算が天文学的数字になりそうな単語がポンポン出てくる。この親父の頭の中では、家の財政状況など、アルカヌムの輝きに比べれば塵芥に等しいらしい。


「神童リョウスケ」の噂は、もはやアルクマイヤー家の領地内だけにとどまらず、近隣の貴族や、王都の錬金術師ギルド本部にまで届き始めていた。エリザはそれを心から誇らしげに語り、「リョウスケ、あなたの才能は素晴らしい宝です。この前の伯爵家のお茶会でも、あなたの噂でもちきりでしたのよ。今度、あなたも一緒にいかが? きっと皆さま、あなたに会いたがっていますわ」と、俺を様々な貴族の会合に連れて行きたがった。


俺は適当な理由をつけて断り続けた。(社交界など、今は何のメリットもない。むしろ、貴族としての体面を保つための無駄な出費が増えるだけだ。母上は、俺をダシにして有力者とのコネを作り、家の状況を少しでも改善したいのかもしれないが…だとしても、今の俺には荷が重すぎる)エリザの期待に応えたい気持ちと、現実的な問題への焦りが、俺の中でせめぎ合った。


領地の運営状況も、帳簿だけでなく、実際に歩いてみることで少しずつ把握できてきた。アルクマイヤー家の領地は、痩せた岩がちな土地が多く、これといった特産品もない、典型的な貧乏領地だった。わずかな農地から上がる税収は微々たるもので、領民たちの生活も決して豊かではない。泥にまみれて働く彼らの顔には疲労の色が濃く、時折、領主への不満や諦めの声が囁かれているのを耳にした。


彼らは、俺の「神童」ぶりに一縷の望みを託し、「リョウスケ様が領主になられれば、我々の暮らしも少しはマシになるだろう」「あのお方は、ゲオルグ様とは違うようだ」と噂し合っている。その期待が、まるで鉛のように重く俺の肩にのしかかる。


(期待するのは勝手だが、俺は魔法使いじゃないんだぞ……。いや、この世界では錬金術師だが……。とにかく、打ち出の小槌を持っているわけじゃないんだ。地道な改善と、安定した収入源の確保、そして何より、あの父親の暴走を止めなければ、何も始まらない……!)


周囲からの過剰な期待と、自分の内なる現実(中身は疲れた三十路過ぎの元社畜、家の財政は火の車、背負うものが重すぎる)とのギャップ。それは、十歳を過ぎた頃の俺にとって、無視できないほどの精神的ストレスとなっていた。


時折、全てを放り出してどこか遠くへ逃げ出したくなる衝動に駆られる。だが、エリザの心労が滲む優しい笑顔や、領民たちの切実な眼差し、そして何より、この異世界で「リョウスケ・フォン・アルクマイヤー」として生きていくしかないという冷厳な現実が、俺を踏みとどまらせていた。

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