赤ん坊だってつらいよ 2~異世界幼少期サバイバル~
それからの日々は、ひたすら「無力」との戦いだった。
精神は三十路を越えた元中間管理職だというのに、身体は生まれたての赤ん坊。腹が減れば泣き、眠くなれば寝る。排泄すら自分の意志ではどうにもならず、その度に母親エリザや、時折世話をしてくれる年配の使用人マーサの手を煩わせる。プライドも尊厳もあったものではない。最初のうちは抵抗を試みたものの、赤ん坊の身体に宿る本能はあまりに強力で、結局はされるがまま。俺は早々に、無駄な抵抗は諦め、エネルギーの温存と情報収集に徹することにした。これも一種の適応、いや、戦略的撤退だ。
幸い、視力や聴力は急速に発達していった。ぼんやりとしていた世界は徐々に輪郭を結び、エリザやゲオルグが話す言葉も、最初は意味不明な音の羅列だったものが、繰り返されるうちに単語として認識できるようになってきた。「リョウスケ」「エリザ」「ゲオルグ」「アルクマイヤー」「ミルク」「お風呂」……生活に密着した言葉から順に、意味と音が結びついていく。
(これが赤ん坊の脳の柔軟性というやつか? 前世で培った言語構造の理解と組み合わさって、驚異的なシナジーを生んでいるのかもしれない。だが、それにしても…この習得速度は異常だ。まるで…最初からこの世界の言葉を知っていたかのようにすら感じる。いや、考えすぎか…? とにかく、この能力は最大限に活用すべきだな)
体感時間で半年も過ぎた頃だろうか、俺は寝返りをマスターした。これは地味だが大きな進歩だ。見える景色が変わり、わずかながら自分の意志で体勢を変えられる。エリザは「まあ、リョウスケは成長が早いのね!」と手放しで喜んでいたが、俺からすれば「遅すぎる!」の一言だ。前世なら、半年あれば新規プロジェクトの一つや二つ、立ち上げて軌道に乗せる(そして炎上させる)くらいの期間だぞ。
そして、ハイハイの獲得。これは革命だった。
ついに、俺は自分の意志で移動できるようになったのだ! ローアングルからの屈辱的な視界は変わらないが、行動範囲は格段に広がった。俺は早速、このアルクマイヤー家の情報収集、特に財政状況と父親の研究内容を探るべく、ハイハイによる家宅捜索を開始した。
目標は書斎、あるいは父親ゲオルグの工房。帳簿や研究資料がある可能性が高い。しかし、ミッションは困難を極めた。まず、移動速度が絶望的に遅い。そして、最大の障害は母親エリザの存在だ。彼女は常に俺の行動に気を配っており、危険な場所(書斎の重い引き出しや、父親の工房)に近づこうとすると、即座に「こらっ、リョウスケ、だめですよ!」と捕獲されてしまう。まるで監視付きの独房だ。
それでも、ハイハイ探検で得られた情報は少なくない。この屋敷は、やはり古い。だが、使われている建材や装飾には、素人目にも質の良さがうかがえる。つまり、かつては裕福で、それなりの地位にあった貴族の家なのだろう。しかし、今は明らかに手入れが行き届いていない。廊下の隅には埃が溜まり、壁にかけられたタペストリーは色褪せ、庭の草木も伸び放題に近い。(やはり維持管理費を捻出できていないのか…? だとしたら、これは教科書通りの没落貴族のパターンだが…)。食卓に並ぶ料理も、気のせいか日に日に質素になっている気がする。
(やはりか……。問題は、どの程度の没落具合か、そして借金の有無だな……。あの父親の様子からすると、後者の可能性は極めて高いと見るべきか……)
ため息をつきたいが、赤ん坊の肺活量ではそれもままならない。
父親ゲオルグの工房からは、相変わらず奇妙な音や匂いが漏れ聞こえてくる。時折、エリザの目を盗んで扉の隙間から中を覗き見ると、そこはカオスの一言だった。床には用途不明の金属片やガラスの破片が散らばり、壁際には怪しげな液体が入ったフラスコや、読みかけの古文書らしきものが山積みになっている。中央には、複雑な魔法陣のようなものが描かれた大きな石の台座。これが錬金術の釜か何かだろうか。
工房の隅には、用途不明の黒曜石のような石板が立てかけてあり、表面には微かに幾何学的な模様が刻まれているようだった。危険を察知したのか、すぐにエリザに見つかり捕獲されてしまったが、あの模様…どこかで見たような…いや、気のせいか? とにかく、整理整頓という概念が存在しない空間だ。
(あんな環境で研究してたら、そりゃ事故も起こるだろう……。というか、あの散らばってる金属片、もしかして高価な素材だったりしないだろうな? 無駄遣いのレベルが知れる……。それにあの石板…気になるな)
さらに一年ほどが過ぎ、俺はつたないながらも自分の足で立ち、歩き始めた。視界が一気に高くなり、世界が立体的に感じられる。これは感動的ですらあった。ようやく、人としてのスタートラインに立てたような気分だ。
言葉の理解もさらに進み、エリザやゲオルグが話している内容の多くは把握できるようになった。「パン」「お肉」「お野菜」といった食べ物の名前、「剣」「盾」「魔法」といった物騒な単語、そして「ギルド」「王都」「税金」といった社会的な言葉も、断片的ながら耳にするようになった。
発音も、単語レベルならかなり明瞭になってきた。「まま」「ぱぱ」はもちろん、「ありがと」「ちょうだい」といった簡単な要求も伝えられる。
「まあ、リョウスケは本当にお利口さんね! もうこんなにお話ができるなんて!」
エリザは俺の成長を心から喜んでくれている。その笑顔を見ると、こちらも少しだけ救われる気がした。
一方、ゲオルグは相変わらずだ。
「うむ、言葉の発達も早いな! さすがは我が息子! よし、リョウスケ、『アルカヌム文明』と言ってみなさい!」
(だから、まだ無理だって言ってるだろうが! それに、そのアルカヌムとやらが、どうもこの家の問題の根源のような気がしてならないんだが……!)
父親の工房に入れてもらう機会も増えたが、それは主に「神童リョウスケ」の才能(と彼が信じ込んでいるもの)を観察するためらしい。ゲオルグは、子供向けの簡単な錬金術――手のひらで小さな光を生み出したり、水の色を変えたり、金属片を温めたり――を実演して見せ、俺の反応を窺ってくる。
俺は内心で分析する。
(ふむ、発光現象は燐光か? いや、待て…供給源不明のエネルギーで輝き続けている? 科学法則を無視したエネルギー変換効率だ。これは異常だ。こっちは呈色変化…に見えるが、触媒なしでこの反応速度と持続性はおかしい。明らかに未知の原理…あるいは触媒が作用している。ジュール熱…にしては、温度上昇の仕方が局所的すぎる。これが、この世界の『錬金術』か…! 前世の科学とは根本的に異なる法則が働いている…!)
分析しつつも、表面上は「おー」「ぱちぱち」と、幼児らしい(と思われる)反応を返す。するとゲオルグは、「おお! 理解しているのか、リョウスケ! やはりお前には錬金術の才能がある!」と大喜びするのだ。
(頼むから、その過剰な期待をやめてくれ……。俺はただ、この世界の法則を、前世の知識と比較して理解しようとしているだけなんだ……。だが、この法則を理解できれば、あるいは…)
それでも、間近で見る錬金術は興味深かった。それは明らかに、前世の科学とは異なる法則に基づいている。だが、同時にどこか似ている部分もあるように感じられた。もし、この世界の法則を深く理解できれば、それは強力な武器になるかもしれない。生き抜くための、そして、この家を立て直すための。
エリザは相変わらず、俺に貴族としての立ち居振る舞いを教え込もうとする。テーブルマナー、挨拶の仕方、簡単なダンスのステップ……。
「リョウスケ、スプーンはそう持つのではありません。アルクマイヤー家の名に恥じぬよう、立派な紳士にならなくては」
(紳士ねぇ……それより今は、生き残るためのサバイバル術の方が重要だと思うんだが……。まあ、貴族社会の知識も、いずれ情報収集や交渉で役立つかもしれん。無駄ではない……はずだ。それに、エリザ母さんが少しでも安心するなら…)
エリザの教えは、どこか現実離れしているように感じられたが、彼女なりに俺の将来を案じてくれているのだろう。その気持ちだけは、素直に受け止めることにした。
こうして、俺は異世界で二度目の幼児期を過ごしていった。周囲からは「神童」と持て囃されながらも、内心では常に家の財政状況と、この世界の未知の法則、そして自分の無力さに頭を悩ませる日々。
体感時間でおよそ三年。ようやく自分の足でしっかりと歩き、簡単な言葉で意思疎通ができるようになった。書斎らしき部屋の扉の隙間から、読めない文字で書かれた古文書が垣間見えたこともあった。アルクマイヤー家の抱える問題の核心――父親の盲信的な研究熱、逼迫しているであろう家計、そして謎の『アルカヌム』――には、まだ触れることすらできていない。
(今は雌伏の時だ。知識を蓄え、身体を鍛え、そして情報を集める。来るべき日に備えて、俺はこの異世界で、アルクマイヤー家のリョウスケとして、生き抜いてみせる……! 前世とは違う結末を、必ず…!)
焦燥感を胸に秘めながら、俺は窓の外に広がる、見慣れないがどこか懐かしいような森に目を向けた。あの森の向こうには、何があるのだろうか。この世界の広がりを、この足で確かめられる日は、いつ来るのだろうか。
リョウスケ・フォン・アルクマイヤー、およそ三歳(精神年齢三十八歳)。彼の本当の意味での異世界生活は、まだ始まったばかりと言ってもよかった。