赤ん坊だってつらいよ ~異世界幼少期サバイバル~
午前3時。窓の外は漆黒に沈み、ビル風の唸りだけが微かに聞こえる。室内を支配するのは、サーバーの低い駆動音と、キーボードを叩く不協和音、そして、モニターの青白い光を虚ろに反射するだけの同僚たちの、時折、魂が抜け落ちるかのように漏れる深い溜め息だけだ。
俺――橘亮介、三十五歳、株式会社フューチャー・ブレイン・ソリューションズ、ソリューション事業部第3課課長代理(という名の雑用係兼トラブルシューター)は、もはや何度目かもわからないエナジードリンクの空き缶をゴミ箱に叩き込み、滲む視界でモニターを睨みつけていた。
『新規事業計画におけるKPI達成のための具体的施策と予算配分に関する報告書(Ver. 7.2 再々々々修正版)』
……ふざけるな。そもそも、この「新規事業」自体が、役員の思いつきで始まった見切り発車プロジェクトだろうが。KPI? 達成できるわけがない無謀な目標設定だ。それを現場に丸投げし、精神論と横文字だけで乗り切ろうとする無能経営陣。挙句、締め切り前日に「あ、ごめん、やっぱ方向性変えるわ。よろしく!」だ?
(「よろしく」じゃねぇんだよ……こちとら三徹目だぞ……。タクシー代は自腹、休日はもちろんサービス出勤、部下は次々と心を病んで辞めていく……。残ったのは、俺みたいな、辞める気力すら失った社畜だけか……)
隣の席では、後輩の佐藤が焦点の合わない目で虚空を見つめ、時折、呻き声と共にキーボードに額を押し付けている。もう限界なのだろう。だが、俺には彼を気遣う余裕も、ましてや手伝う余裕もない。自分のタスクだけで溺死寸前なのだ。胃はキリキリと痛み、カフェインと糖分で無理やり繋ぎ止めた意識は、いつ途切れてもおかしくなかった。
不意に、ズキン、と心臓が嫌な音を立てて軋んだ。一瞬、視界が暗くなる。
(……やばい、かもな……)
薄々感じてはいた。この生活が、いつまでも続くはずがないと。だが、責任感という名の呪いが、俺をこの椅子に縛り付けていた。俺が倒れたら、このクソみたいなプロジェクトは、残された数少ない部下たちに……。
(……いや、もう……どうでも……いいか……前世では、結局何も守れなかった……)
思考が、急速に白んでいく。まるで、電源を落とされた古いPCのように。ガクン、と首が前に傾ぎ、モニターに額がぶつかる鈍い衝撃。それが、橘亮介としての、最後の記憶だった。
◆
次に意識がゆっくりと覚醒した時、最初に感じたのは、経験したことのない種類の「不快感」だった。いや、不快というよりは、圧倒的な「違和感」だ。
まず、視界が定まらない。まるで度の合わない眼鏡をかけているかのように、世界がぼんやりと滲んで見える。次に、聴覚。何か柔らかく、穏やかな音が聞こえるが、それが何を意味するのか判別できない。まるで水の中にいるようだ。そして、嗅覚。消毒液のようなツンとした匂いと、甘く優しい、知らない花の香りが混じり合っている。
(なんだ……ここは……病院か……? あの後、倒れて……いや、病院の匂いとも違うような……それにこの身体の感覚は……)
手足を動かそうとして、改めて愕然とする。全く言うことを聞かない。金縛りとも違う、まるで分厚い粘土をまとっているかのような不自由さ。そして何より、短い。視界の端に、まるまるとした、自身のものであるはずの赤ん坊のような手が見えた。
(……冗談だろ……? これは、夢か? それとも、過労の果ての幻覚か? それにしては、この身体の感覚は妙にリアルすぎる……)
混乱と疑念が渦巻く。これが現実だとは到底思えない。だが、否定しようにも、自分の意志とは裏腹に、身体は赤ん坊そのものなのだ。思考が空転する中、不意に視界が明るくなり、巨大な顔が覗き込んできた。
「まあ、リョウスケ。お目覚めですか? 気分はいかが?」
透き通るような青い瞳。優しげに細められた目元。亜麻色の柔らかな髪が、ふわりと頬にかかる。見知らぬ、しかし息をのむほど美しい女性だった。年の頃は二十代後半だろうか。身にまとっているのは、生成り色のシンプルなドレスだが、仕立ての良さが素人目にもわかる。
彼女は、俺――混乱の極みにありながらも、自分が赤ん坊の姿をしているらしいと認めざるを得ない俺――を、驚くほど慣れた手つきで、そっと抱き上げた。ふわりと身体が浮き上がり、温かく柔らかな感触と、彼女の母性的な甘い香りに包まれた。抗いがたい安心感が全身に広がる。
(リョウスケ……俺の名前だよな? しかし、やはり状況が呑み込めない。この人は誰だ? 俺の母親、なのか? だとしたら、ここは……俺の家? 前世とは全く違う、穏やかで、優しい匂いだ…)
内心で問いを重ねるが、答えはない。口から漏れ出るのは「あぅ」「ぷぅ」という無意味な音だけだ。前世で必死に磨いたコミュニケーション能力は、この世界では何の役にも立たないらしい。無力感に打ちのめされる。
「おや、リョウスケが起きたのかい? エリザ」
不意に、別の声がした。母親らしき女性(エリザ、と呼ばれたか?)が振り向くと、そこには大柄な男が立っていた。無精髭に、あちこち煤や薬品で汚れたローブのようなものを羽織っている。年の頃は三十代後半。少し疲れた顔をしているが、その瞳だけは何かを探求するかのように、妙にギラギラと輝いていた。
「あなた。ええ、ちょうど起きたところですわ。今日は実験室に籠りきりでしたね、ゲオルグ」
(ゲオルグ……この男が父親か。実験室? やはり何か特殊なことをしている家のようだ。それにしても、あの目つき……前世にもいたな、こういう周りが見えなくなるタイプの人間は。プロジェクトを炎上させる才能だけはピカイチだったが……。まさかとは思うが、この父親も……?)
父親ゲオルグは、エリザの腕の中の俺を覗き込み、どこか満足げに頷いた。
「うむ。我がアルクマイヤー家の嫡男、リョウスケよ。お前には期待しているぞ。いずれは私と共に、錬金術の深淵、アルカヌムの叡智を探求するのだ!」
(アルクマイヤー……? 家の名前か。貴族か何かだろうか。アルカヌム……錬金術……? 聞き慣れない言葉だ。ファンタジー小説に出てきそうな単語だが、この世界では普通に使われているのか? 叡智の探求、ねぇ……なんとなく、嫌な予感がするな……)
「あなた、まだ赤ん坊にそんな難しい話を……。それより、少しは休んでくださいな。顔色が悪いですわよ。それに、また材料費が…」
エリザが心配そうに言いかけたが、ゲオルグはそれを遮るように声を張った。
「心配ないさ、エリザ! 偉大な発見の前には多少の犠牲はつきものだ! アルカヌムの叡智を前にすれば、金など後からいくらでもついてくるわ! それに、この子の瞳を見ろ。幼いながらも、知性の輝きが宿っているとは思わんかね? きっと私を超える存在になるぞ!」
(……聞く耳なしか。典型的なヤバいタイプだ。知性の輝き、ね。単に前世の記憶が残っているだけなんだが……。というか、その偉大な発見とやらに、家のリソースを全力投入したりしてないだろうな? 頼むから、堅実な経営をしていてくれ……!)
ゲオルグは、なおも何か語りたげだったが、エリザに促され、「むぅ、仕方ない。リョウスケよ、父の偉業を楽しみにしておれ!」と一方的に言い残して工房らしき方向へ戻っていった。その後ろ姿からは、地に足がついているとは到底思えない、危うい空気が漂っていた。残されたエリザは、困ったように、しかしどこか諦めたように微笑むだけだった。
(……どうにも、あの父親からはフラグの匂いしかしない。そして母親も、優しそうだが少し押しが弱すぎる。このアルクマイヤー家、本当に大丈夫なのか……? いや、まだ何もわからん。決めつけるのは早い。情報収集だ。まずは、この状況が夢や幻覚でないことを確かめないと……)
俺の決意を裏付けるかのように、腹の底から強烈な空腹感が湧き上がってきた。エリザは心得たように「あらあら、お腹が空きましたね。ミルクの時間にしましょう」と微笑み、俺を抱いて居間へと移動する。
そして、ソファに腰掛け、あの――精神年齢三十五歳の俺にとって、言葉にできない屈辱と本能との戦いを強いる儀式――が始まった。
ドレスの胸元が寛げられ、豊かな乳房が現れる。その光景に、前世の常識が警鐘を鳴らす。「見るな! 目を逸らせ!」と理性が叫ぶ。だが、空腹という絶対的な本能が、俺の意志を容易く捻じ伏せる。
(くそっ……! 生理現象だ! 生きるためのエネルギー補給だ! これは仕事だ! そう、現状把握という重要なミッションなんだ!)
意味不明な自己暗示も虚しく、俺の口は母親の乳首を求め、吸い付いていた。温かく甘い液体が流れ込み、空腹が満たされていく。母親の柔らかな肌、優しい匂い、規則的な心音……。ああ、ダメだ。抗えない。前世で溜め込んだストレスや疲労が、この温もりの中に溶けていくようだ。屈辱と、抗いがたい心地よさ。相反する感情に引き裂かれながら、俺はただひたすらに乳を吸い続けた。
(……これが、現実……。俺は、橘亮介ではなく、リョウスケ・フォン・アルクマイヤーという赤ん坊として、この異世界で生きていかなくてはならない……。しかも、なにやら前途多難そうな家庭環境で……。前世で守れなかったものを、今度こそ…この手で……)
満腹感と共に訪れた強烈な眠気の中、俺はぐったりとしながらも、心の奥底で固く誓った。
(……絶対に、生き抜いてやる。そして、この身体が自由になったら、徹底的に情報を集め、分析し、この家の問題を解決する。父親の研究も含めてな…!)
まあ、その「底力」とやらを存分に発揮できる日が来るのは、この無力で屈辱的な赤ん坊時代を乗り越えた、ずっと先の話になるのだが。
リョウスケ・フォン・アルクマイヤーとしての、波乱と胃痛に満ちた異世界でのセカンドライフは、こうして、ある意味で最悪の、そして最高に間抜けな形で幕を開けたのだった。