あなたを好きな私は、もう売り切れました
私は、あなたのことが大好きで、大好きで。
だから、ずっと私はあなたのことをちゃんと見ていなかったのかもしれない。
答えは私の前に、ずっと前から転がっていたというのに。
「あれ?どうしたの?」
一緒に買い物に行く予定だった彼が、通話を終えたとたん着替えだす。
慌ただしく身支度を終え、スマホをポケットにしまいながら声を出す。
「友達が大変らしい、わりいけど、買い物は一人でお願いな」
「え?また?」
私の非難めいた言葉に、彼は一瞬で顔を顰め、ため息までつく。
「あのさぁ、ただの買い物だろ?それ、俺がつきあわなきゃいけないもんじゃないだろう?あいつは今、大変なんだよ。わかれよな、それぐらい」
そう言い捨てて、彼はあっという間に出かけていった。
今日は結婚を前にした同棲を始めるため、お互いが必要なものを選ぶ予定だった。
別に、私だけのための買い物ではない。
そう言い返そうにも、彼の姿はすでにない。
こんなことはこれで何度目だろう、と、こちらこそため息をつく。
彼は、いつだって、彼の親友を優先する、
私は会ったことはないが、近所で幼なじみで、今は親友、なのだそうだ。そして兄弟みたいなものだ、と。
どこかで聞いたような言いぶりに、それでも当初は文句を言っていた。
たまには私を優先して、と。
その度に、彼は大仰な仕草で、私をたしなめる。
友情をないがしろにするような女は、ろくな女じゃない、と。
それでも私は時折、苦言を呈してはいた。
それもすでに口先だけで、もうどれだけ言ってもこの人は変わらないのだろうな、というあきらめの気持ちで。
大好きな彼に嫌われたくない、というその思いを見透かされるかのように、彼は私をないがしろにする。
それは同棲を始めたあとも変わらなかった。
「はじめまして」
親友の正体を初めて知ったとき、私はようやく自分の心の中で彼に対する答えを出せた。
それは本当に一瞬のことで、彼のことが好きで好きでたまらなかった私の気持ちを冷めさせるには十分なことだった。
彼の両親と、妹さん夫婦、そして知らない女性。
その人は、当たり前のようにその空間にしっくりと馴染んでいた。なんなら妹さんともささやき合うように何かを言い合っていた。
腑に落ちないまま、それでも自己紹介をして、彼女が名乗った瞬間、それが彼の「親友」の名前だと気がついた。
彼には幼なじみとして続く親友がいる。
いつだって私より優先させていた親友、
最初はもちろん文句を言った、それでもそれをただのわがままだといなされ、いつだって聞いてはくれない彼に、いつのまにかあきらめていた。
だが、その親友が彼女だと言うことはまるで知らされていなかった。
血の気が引く、という瞬間はこういうことなのかもしれない。
おそらく顔色が変わったであろう私に気がついたのは、妹さんの旦那さんだけだった。いや、妹さんもちらりとこちらをみて、視線をおろすような仕草をした。
その意味は、もちろんいいものではないのだろう。
「女性、だったのですねぇ、親友さん」
私のとげを隠さない言葉に、少しむっとして、彼が答える。
「ああ、だから何?友達に性別なんて関係ないだろう」
「そう、そういう人、なんだ」
沈黙がおりる。
何かを言いたそうな妹の旦那さんと、何も考えないような顔をしてその隣を離れない親友。
その沈黙に耐えられなかったのか、彼の母親がぺらぺらと説明を始める。
いかに、彼女と彼が仲が良いのか、彼女がいい子なのか。
それを、結婚の挨拶にきた女性に対して説明していいものかどうかもわからないほど、彼女はこの家に馴染んでいる。
まるで、もうすでに家族の一員であるかのように。
「……。もうおいとまいたしますね」
ようやく絞り出した私の声は、ぎょっとする妹旦那さんと、こちらを睨みつける妹さん。そして何も考えてなさそうな彼の両親、そして少し怒っている彼を素通りしていくかのようだ。
きょとんと、本当に何が起こっているのかもわからないふりをしたかのような彼女の顔をちらりと眺め、立ち上がる。
「それでは」
立ち上がろうとしない彼を置いて、私は何も告げずにその空間を後にした。
「感じわりぃだろ」
「何が?」
同棲している私たちは、当然帰る場所は同じだ。
翌日荷造りをしている私のもとへ怒りを隠さない風情で帰ってきた彼は、開口一番非難を口にする。
「あの場所に、親友ちゃんが鎮座している方が感じ悪くない?」
「や、だから、あいつは友達だって言ってんだろ?いちいちうるせぇなぁ」
「その割には性別は言ってなかったよね?あなた」
いつだって、彼は親友のことを「彼女」だとは言わなかった。
幼なじみ、友達、親友、ご近所さん。
そこに彼女の性別を示すような情報は含まれていなかった。
そこまで徹底的に伏せておいて、まるきり悪気はない、はずはない。
そう考える私をまるで俗物であるかのように見下ろし、彼は怒りを維持している。
「だーかーらー、そうなるから嫌だったんじゃねーか、心狭いなあ」
「あたりまえでしょ?どこの世界に結婚の挨拶の場に親戚でもない他人を同席させる馬鹿がいるっていうの?」
「だって、友達だし、っていうかむしろ兄弟みたいなもんだし」
「そう、そういう価値観なんだ」
男女の友情、などという永遠にお互いがわかり合えない議論ですらない。
彼は彼女を兄弟のような人だと称する。
そして、おそらく彼女も彼をそういうのだろう、表面上は。
「私、そういうのわかりあえないからさ、もういいんじゃない?」
あまり自分の持ち物がない同棲の部屋をぐるりと見渡し、必要なものと未練のあるものだけを詰め込んだ。
「じゃ、そういうことで」
鍵を置き、大きめのスーツケースを引いて外へ出て行こうとする私に、ようやく慌てた顔をして彼が私の腕を乱暴に掴む。
「いたっ」
思わず叫んだ私の声に、彼はひるんでその手を離す。
すかさず一歩彼から離れ、一応彼の言葉を聞く体勢をとる。
「いや、だからさ」
「友達なんでしょ?いいんじゃない?そのままつきあえば」
色々含みのある物言いをする。
どう考えても彼女はただの友達だなんて思ってはいない。
男女の友情、幼なじみ、親友、その言葉で飾り立てているだけでは、あの場に入り込むはずはない。
「改めて荷物を引き取りにくるから、まあとりあえず、ね」
笑顔で去っていく私をおいかけもせず、彼は私を見送った。
それが、たぶん彼の答え、なのだと思う。
「なんで?」
私は見たくもない顔を見かけ、シンプルな言葉を発した。
その冷たい声音に、彼女はびくりと肩をゆらし、何かを言おうとして口を閉じる。
彼の、いや、自分の中ではすでに元カレの親友である彼女が私を待ち伏せしていた。
後ろから歩き去っていく同僚たちの視線がちらちらと刺さる。
あまりプライベートをさらさない私の何か面白そうな雰囲気を察して、彼ら彼女たちはおもしろそうな顔色を隠さない。
何も言わずに地蔵になった彼女を置いて、会釈だけをして通り過ぎようとした瞬間、彼女が膝をついてついでに土下座などというものをしてくれた。
ますます愉快そうな顔をする同僚たちが一瞬歩みを止める。
慌てて彼女を立たせ、引きずるようにして彼女を近くのコーヒーショップに連れ込むことに成功した。
適当に頼んだ品を間にはさみ、彼女はじっと黙りこくる。
「で、どういうわけなんですか?」
沈黙に耐えられずに私の方が先に口を開く。
「あの……」
そして彼女はまた沈黙する。
「ああ、あれと付き合うことにでもなった?」
あれからまだまだうるさい彼は、別れることに納得していないようだ。お互いの友人を介してつなぎをつけようと必死な様子だ。
もちろん、私の方の友達は完全に私の味方だし、彼の方は少しの勘違い野郎どもと、大多数の普通の人たちのあれこれで多少うるさい程度だ。
友情を誤解する女はだめだと、直情的に叱りつけてくるやつには、そのだめなやつに執着しなくてもよくない?と、言い返してから着信拒否している。それでも、まだ多少うるさい。
ふるふると首を横に振る彼女は、男女の友情だとか、親友同士、といういわゆる単純なイメージよりももっとずっと湿度が高い。
ねっとりとして、じっとりとして、彼をずっと掴んで放さないような。それは、私が女性だから感じる何かなのかもしれない。
彼にとっては弱々しくていつも困っている大事な幼なじみ、なのだろう。
「で?」
数度の問いかけで、彼女はようやく口をきく。
「あの、別れて、ほしくなくて」
「それ、あなたに関係ある?」
あると言えばあるが、ないと言えばない。
私は彼女がいるから別れるのではなくて、あくまで彼の優先順位のおかしさや、それをおかしいとも思わない感性が耐えられないだけだ。もはや彼女がいるとかいないとか、そういう問題ではない。
「あの、私たち本当に友達なんです、幼なじみで、それで」
決死の覚悟、という風情でもうすでに知り尽くしている情報を告げられた。
何度も何度も、彼は私に言った。
友達だと、幼なじみだと、それをどうこういうやつは本当の友達を知らない寂しいやつなのだ、と。
「うん、知ってる、で?」
「いや、でも」
切り返せば、彼女はあからさまに困った顔をした。
こういうところが頼りなさそうで、守ってあげたくなるのかもしれない。
「それ、あなたに関係ないよね?友達でしょ?ただの」
そして、彼女たちが言った通りに関係を認めた上での答えを返す。
彼と彼女は友達だ、そう、ただの友達だ。
彼の恋人だった私との関係にあれこれくちばしを突っ込める立場にはいない。
「ともだち……」
「でしょ?友達、で?それあなたに関係あるの?」
「でも、私のせいで」
悲愴な顔で言い募る彼女に思わず乾いた笑いがこぼれる。
彼女は虚をつかれたような顔をして、うつむく。
「まるで、あなたには、関係がないでしょ?あなた、ただの友達。友達でしょ?」
再びゆっくりと言葉を切りながら念を押す。我ながら意地が悪い、とは思うが、こういうタイプの人間はとても苦手だ。その苦手なタイプと親友な彼すら、もう下がらないだろうと思っていた好感度の底を抜けさせた。
「もう迷惑なんで、こないでくださいね。どれだけ頼まれてもよりを戻す気はないので」
私は言い捨てて立ち上がる。
「それ、おごったんだからもう煩わせないで」
安物のコーヒー一杯に恩を着せる。
うつむいて、でも泣いていない彼女はフルフルと揺れたまま動かなかった。
執拗に異動願いを出し、それをようやく受理された私は同棲場所とも私の地元とも、もちろん元カレの地元とも関係のない場所へとやってきた。
何かを聞きたそうにしていた周囲を散らし、未だに上から目線で説教をしてくる連中を撒き、晴れて新天地へと赴いた私の心は健やかに晴れていた。
あれだけ好きで、うじうじと悩み、そして彼に少し依存していた自分は捨ててきた。
あれから、彼らがどうなったかは知らない。
付き合っているのかもしれないし、いないのかもしれない。願わくば私のような存在を作ってほしくはない、なんて思わないでもない。
私は、もう一歩を踏み出した。
知らぬ土地の知らぬ空の下で。