祖母と私
私は複雑な産まれです。
自ら会社を立ち上げた祖父の長子である父と、一般的な家庭の祖父母の次女の母。
そんな両親のもとで生まれ、まだ私が母の胎内にいる時に離婚したそうです。
父の顔は写真でしか見たことがなく、名前も書類で見たことがあるだけで覚えておりません。
離婚のきっかけは父の浮気であり、現在はその方と再婚して子をもうけていると聞いておりますので腹違いの弟か妹がいるようです。
一方の母も離婚時相談に乗ってもらった相手と再婚しましたが、私が中学生の時相手がアルコール依存症となり家庭内暴力などが問題で離婚。
その際に2人父親の違う妹がおり、今でも交流を持っております。
そして私は母方の祖父母に育てられました。
本日2025年2月17日、午前10時32分に祖母が息を引き取り、心を落ち着けるにはと調べたところ文字にしてみるという方法があったためここに思い出と、後悔と、そして私のこれからについて語らせていただきたく筆を執りました。
先述の通り祖父母が私の育て親でしたが、享年85歳、現在私が34歳です。
51歳の歳の差というのは一般的な家庭から見ても随分と離れており、小学生の頃はそれを妙に気にしていた時期があります。
生みの親について知ったのは中学生の時の離婚騒動の際でした。
再婚相手は既に鬼籍ですので多くは語りませんが、友人としてはよい距離感でも親や夫としては問題のある人物だったのでしょう。
思春期に棒状の懐中電灯片手に話し合いの場に赴き、愛想笑いを浮かべながら怒鳴りつける祖父と再婚相手をなだめていたのを今でも鮮明に思い出します。
その頃の私は反抗期真っただ中であり、理由としましては望まぬ市立中学への入学が原因でした。
地元ではそこそこ名の知れたエスカレーター式の学校、本命は明治大学付属の学校でしたがそちらの受験は失敗したのを覚えております。
この時に劣等感と、そして自身の喪失があったのか、あるいはもとより勉学の才が無かったのか、人付き合いに苦手意識を持ち始めそれらしい顔を作るのには慣れていました。
エスカレーター式という事もあり幼稚園から高校まで続く学校であり、既にグループが完成した状態で外部生の私は肩身が狭く、同じように少ない外部生の友人たちと細々と過ごしておりました。
少々話が逸れますが、横のつながりというのはどのような年齢になっても重要だと考えております。
子供時代というのは特に顕著であり、テレビが禁止されていたりゲームが禁止されていたため同級生と話を合わせる事が出来なかったというのはよく聞く話でしょう。
結果として私もその例にもれず、ゲームの制限やテレビの視聴時間を細かく決められていたため話が合う相手は少数でした。
外部生のあつまりでは隠れてゲームを借りて遊んだり、古本屋で購入した漫画などを読みまわしていたのを覚えております。
そんな小さな繋がりでしたが、皆小学生の内から準備を進めていた内進生達と比べると勉学の面では劣っていました。
一年生の終わり、友人が2人転校することになりました。
片方は金銭面の事情。
私立というのはとてもお金がかかり、また通学も負担があったのでしょう。
彼とは転校後顔を合わせる事はありませんでした。
もう片方は成績の問題。
これは外部生の誰もが多かれ少なかれ抱えていましたが、その友人は後に再会を果たしますが今にして思えば思春期故の万能感と、身体的性格的なヒエラルキーから誰に対しても強気だったのを覚えております。
二年生になり輪が狭まり、その年の夏私と祖母は学校に呼び出しを受けました。
授業態度、そして成績の問題でした。
非常に悲しそうな、そして辛そうな引きつった祖母の表情とは裏腹に眠気を我慢していた私でしたが、帰宅後泣きそうな表情で「あなたは精神の病気かもしれない」と伝えられました。
当時は鬱病をはじめとした精神病の扱いが今よりも苛烈でした。
苛烈、という表現を使ったのは誤りではなく、まさしく腫れもの扱いといったものです。
今でこそどういう扱いをすればいいかというのは羞恥されつつあり、場合によってはマニュアルなどもあるのでしょう。
けれど平成初期から10年代半ばという頃は偏見も付きまとう物でした。
もう一つ偏見を持たれていたものがあり、それは「オタク」という存在でした。
今でも蔑称として使う方もいますが、当時は宮崎勤事件からオタクの風当たりが強かったのです。
学校という閉鎖環境であれば「オタク相手なら何をしても無罪」「オタクは犯罪者予備軍」などという風潮までありました。
当然、いじめ問題もありました。
祖母が私立入学をさせたのは地元の学校の評判を聞き、いじめに発展する可能性を危惧していたからです。
当時は片親というのも珍しかったというのもあるでしょう。
そのため様々な考えからのことだと、大人になってから気付きましたが、当時の私は劣等生のレッテルを貼られ、その環境を作った祖父母を恨むことすらありました。
こうして25歳、精神を病んで新卒で入社した会社を辞するまで、私の反抗期は10年を超える期間の物となりました。
こうして書くと私のバイアスが随分と入っていますが、幼心に祖母から叱られたことの多くを覚えております。
しかしその大半が私を思っての躾であり、それ以外は世代や思想から来る過ちを含んだ経験によるものだったのでしょう。
あまり好きな言葉ではありませんが、時代という物なのかもしれません。
戦争経験者であり、嫁入り後も自らを律する……というよりは聞く限り犠牲にしてきた祖母の価値観から信じるものを狭めてしまっていたのだと思います。
当たり前の家族、当たり前の成績、当たり前の人生。
そんな当たり前が、普通ではなくなっている昨今の情勢に祖父母は付いていけていなかったのでしょう。
事実私も執筆業に関しては「金を貰えていないのなら働いていないのと同じ」と、今現在をもってしても祖父に言われたところです。
それは事実でしょう。
しかし執筆料を頂いていても祖父は認めてくれることなく、印税を見せた時などは「男は外で働いてなんぼ」という言い方をされたこともあります。
これもテレワークが一般に普及した今では当たり前ではなくなったことですね。
普通や当たり前というのは「時代」が決める事であり、それは世間体と呼ばれる物でもあるのでしょう。
個人的な考えですが、この世間体は人間という社会における大多数という意味合いだったのかもしれません。
しかし近年ではそれも覆りつつある気がします。
思想の自由や表現の自由と言った言葉などが拡大解釈され、悪用されるようになり、個人でも相当数の人に意見を伝えて賛同を募る方法が生まれたために人間のありようが変化しているのかもしれません。
もしかしたら今後の時代に置いて「普通」という概念は言葉だけを残し、狭いコミュニティの中でのみ通用する物になるのかもしれないと考えている……という完全に脱線した話でした。
しかしてこの話をあえて残しているのは、やはり今SFという作品を好んで書いているからこそ私の知らない未来を空想しているからこそ考えるべきテーマでもあると思っているからです。
と、言った通りまず私の今後ですが、四十九日の忌中はしばしのお休みをいただこうと考えております。
本日の朝の出来事から今まで、ゆっくりとする時間があまりとれず、またもうすぐ三年という短い期間ですが介護の疲れもあったため流している涙がどのような物か理解できていないのです。
この涙の意味を理解しなければ、私は一生後悔したままになってしまう気がします。
ですがあくまでもお休みであり、忌中があければ活動の再開をさせていただく所存です。
格関係者の皆様にはご迷惑をおかけいたしますが、お仕事としていただいている分は継続させていただこうと考えておりますのでご容赦ください。
忌明けの際は新作なども投稿させていただければと考えております。