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私の生い立ち

 先のページで書かせていただきましたが、私は母方の祖父母に育てられました。

 時に厳しく、時に優しく、時に理不尽にと言った家族でした。


 幼い頃に曾祖父を亡くし、それが初めての別れだったという覚えがあります。

 次の別れは父方の祖父と、叔母に当たる人だったかと記憶しております。

 高校生の頃でしたか、父方の実家に遊びに行った際に普段いたはずの二人がおらず、鬼籍に入ったと聞いた時です。

 幼心、そして聞き知らされていなかった死別という事からどこか遠くの出来事だったように感じていました。

 いえ、今もどういうものかわかっていないと思います。

 とても良くしていただいたと記憶しているのに、最期を看取ることができなかったからか実感のないまま今に至ります。


 そして三度目の離別は曾祖母でした。

 90歳を超える大往生、しかし私の中で彼女の記憶は小学生の時から途切れています。


 アルツハイマー型認知症、当時は痴呆などと言われていましたが、私の顔を見て別の人物の名前をあげたことにショックを受けてしまい、曾祖母のお見舞いに行くことを拒んだからでした。


 その訃報を聞いたのは大学の帰り道、曾祖母が亡くなったから葬儀の準備を進めなければいけないという話を聞き、帰宅すると祖父母と叔母と母がそれぞれ納戸や押し入れから喪服を取り出していました。

 今も住んでいる生家ですが、家を出た叔母や母にとっては実家です。

 徒歩圏内にあるとはいえ仕事が忙しい時期だったにもかかわらず夕方の早い時間に家にいたと記憶しています。


 そして棺の中で眠る曾祖母を見た際、私は「誰だろう」と思ってしまうほどでした。

 我ながら薄情だとは思いますが、小学生の頃に見た曾祖母とはまるで別人のようだったのです。

 こうして身内の死別全てが、私には実感がないままこの歳になりました。


 幼い頃は仏間で曾祖父と曾祖母がお茶を飲んでいたり、ご飯を食べているところに並んで笑っていた記憶があります。

 風呂上りに2人がいる炬燵に潜り込んでみたり、一人遊びで炬燵の中に隠れて蹴られたりという思いでもあったにもかかわらず、どこか遠い場所での出来事のようでした。

 父方の祖父から買ってもらったゲームなどは学友との会話で随分と助けていただいた覚えがありました。

 叔母達と共に行った、初めてのゲームセンターでクレーンゲームで取ったスヌーピーのぬいぐるみを貰ったのも覚えています。

 今でも部屋に飾ってありますが、埃で随分汚れてしまいました。

 ぬいぐるみの洗濯というのを悪魔のVtuber様から学んだので落ち着いたころに頼もうかなという思いもあります。


 閑話休題、人の死に触れておきながら、その後も何度か親戚の葬儀に参列したにもかかわらず私は身内の死という物を想像できていませんでした。

 恥ずかしい限りですが、死別という物を重く受け止める覚悟がなく、そして知りたくなかったのかもしれません。


 今日という普通、平穏、当たり前が続くと信じていたのでしょう。

 ありえないと、先にも書いた通りだというのに、祖父母にもご高説たれてみたりしたというのに、自分が一番理解していなかったのです。


 前置きが長くなりましたが、私が初めて物心ついたのは今の家に改築する前の、古い家でした。

 エアコンなどは付いておらず、給油式のストーブで部屋を暖めて、古めかしい長廊下に和室、ふすまを開けた先に仏間という間取りの家の一角を与えられていました。

 幼稚園児の頃に家の建て替えを行い、二軒隣にあるアパートで数カ月川の字で寝ていたのを覚えております。


 朝起きれば祖父は仏頂面でコーヒーと朝食を口にしながら新聞を読み、祖母は流し台で洗い物をする。

 それを見ながら私もご飯を食べて、朝の教育番組を見ながら幼稚園に向かう準備をするというのが当時の「普通」でした。


 覚えているのは祖父母への呼び方の変化です。

 改築前の家で、祖父母は一室しかない二階で寝起きしていました。

 ベッドとテレビが置いてあったことだけしか記憶しておらず、その部屋に行くことも少ない、階段が急で転げ落ちたこと数度という記憶しかない場所。

 そこで化粧をしている祖母を階下から呼ぶ私。

 当時は「ばあば」と呼んでいましたが、50代だった祖母はその呼び方が嫌だったのでしょうか。

 あるいは事ある毎に呼ばれるというストレスに嫌気がさしていたのでしょうか。

 何度も呼ぶと怒られるというのを子供ながらに理解して、恐れていました。


 そしてそんな古い家だからこそ、たどれば歴史がある物です。

 母方の祖父の家系は既に縁が亡くなっており、曾祖父も直に血が繋がっているのかどうかも今になっては定かではありません。

 ルーツ探しの旅などもしていましたので、何かそちらも事情があるのでしょう。

 当人は「源氏の末裔」などと言っていますが、どこまで真実かはわかりません。


 一方の祖母は養鶏所の娘であり、その実家は今の地主だそうです。

 ここでも横のつながりの話になりますが、私は顔見世として親族との話し合いの場や冠婚葬祭、その他にも何かの行事には大抵参列していました。


 その際親族の誰かが祖母を名前で呼びました。


 呼び方の変化はその時だったのでしょう。

 「ばあば」から名前呼びに変わえたのは、幼心に「こうしたらどうなるんだろう」という思いからでした。

 今でもその時の声は鮮明に覚えています。


「あら嬉しい、これからもそう呼んで?」


 弾んだ声の祖母は、その後いつものように化粧をしてニコニコしながら私の手を取り幼稚園バスのお迎え場まで連れて行きました。


 次の変化は私が6歳、小学生になった時です。

 叔母が第一子、私の従姉妹を出産しました。


 この時から私は名前で呼ばれる回数が減り、代わりにお兄ちゃんと言われるようになりました。

 祖父は今も昔も変わらず私を愛称で呼びますが、祖母は愛称半分お兄ちゃん半分と言った感じでした。


 最初は「僕はお兄ちゃんになったんだ!」と張り切っていました。

 しかし子供というのは飽きるのも早い物。

 当時、初めて買ってもらったゲームボーイポケットとポケットモンスター赤に夢中になり従姉妹のお世話係からは遠のいたと思います。

 それでもおむつの交換や、哺乳瓶や粉ミルクの扱いなんかは手伝っていました。

 これはなんとなく、そうした方がいいという空気を感じ取っていたのかもしれません。


 その3年後、母が再婚後長女を産みました。

 さらに3年後には次女、こうして小学生でありながら育児の手伝いをしていたのは、まぁ今でこそ表だって言えませんが従姉妹や妹のおむつを替えたんだという妙な親戚心を芽生えさせたのでしょう。

 ついでに詳しく記述していませんでしたが、私と直にかかわりのある親族は母と叔母と祖母、そして従姉妹と妹2人と多感な時期に異性に対して随分と価値観を変えられたと思います。

 正直、今でもアニメなどにおける妹萌えというのがわからないので……というか女性という物がよくわからないです。


 女主人公書いておいておい! と思うかもしれませんが、わからないからこそ空想で作り出す事ができているようなものです。

 むしろよくわかる、男を書くと途端にチープになるので……ある意味では私の描く女性キャラクターというのは完全な空想であり、理想でもあると思ってください。

 妙に童貞臭い言動をする女性キャラというのも、私の知っている女性像からかけ離れた物です。


 このように身内関係から異性同性と言った概念がバグってしまった私は、結局のところ先のページのように中学生で反抗期に入ってから悪化しました。

 まずは従姉妹との価値観の相違、それに伴う喧嘩、「お兄ちゃん」だからという理由で叱られる等等。

 理由はあったとはいえ随分迷惑をかけた物だと今になって思います。


 詳しく書けば炎上どころか私自身にエンチャントファイヤーしそうなので割愛させていただきますが、とにかく家族仲は私が乱していたと思います。

 学校での孤立も前のページでは「グループができていたから」と記述しましたが、私の立ち振る舞いも問題だったのは間違いないでしょう。

 男女問わず、というよりは分け隔てなく……というとまた随分耳障りがいい言葉で、実際の所は性別とか関係ないというような態度を、悪い意味でしていたと思います。


 結果、私は女性に対する苦手意識が強く、かといって男性は別の意味で恐ろしいと思っているため人付き合いの際は必ず一呼吸おいてから、地震にキャラクターをかぶせるようにして来ました。

 もちろんそれで失敗もしてきましたし、これからもしていくでしょう。


 思春期にSNSがモバゲーやグリーといった比較的閉鎖的な物しかなかったことに感謝しかありません。

 Twitterがあれば間違いなく炎上、さもなくば黒歴史としてネットタトゥーを残していたと思います。


 いや、まぁ当時書いた小説が未だにネットの海を漂っているので……とある小説投稿サイトには名残がありますがログインパスも、IDも忘れたのでどうにもできません。


 さて、今でこそ私立入学の件は恨んでいなと言った旨の事を書きましたが、今こうして文筆業に至るまでの経緯も関係しています。

 高校と大学受験の際に出会った塾講師の先生が、私をこの世界に導いてくれました。

 あるいはオタク扱いされていた浅いアニメ好きな男児を、沼に引きずり込んだといってもいい人物。

 恩師です、恩師ですけど……価値観を大きく変えてきた人ですね。


 風の聖痕、フルメタルパニック。

 ドラゴンエイジという雑誌で掲載されていましたが、当時はどちらも連載中でした。

 これらを見てライトノベルという物に興味を持ち、そのままダブルブリッドなども進められてずぶずぶとそちらの沼に入っていった私が自ら筆を執るようになったのも中学生の中頃。

 高校生まではノートの端っこにプロットとも言えない、設定を書き連ねただけの状態の何かをのせていました。


 そして恋空などの、当時は色々な意味で社会現象になった作品が表に出るようになりネット小説に触れ、連載を始めました。


 もともと小説には興味があったのですが、ライト文芸に手を出したのはこのころです。


 そして最初に小説家を目指した理由も、やはり祖母でした。


 祖父母共に本好きであり、寝る前はいつも昔話や童話を聞きながらという生活だった私。

 一人遊びも限界があり、かといって習い事などで遊びに行く時間も決まっていなかった私に一冊の本をくれたのです。


 夢水清志郎事件ノートシリーズ、今でも当時のまま本棚にありますがこの本の主人公は文芸部に所属して小説家になりたいと考える女の子でした。

 そして金曜ロードショーでみた「耳をすませば」

 このコンボで私は文筆に興味を持ちました。

 うん、400字詰め原稿用紙にバロンを出した小説書いたのが処女作だったかな……。


 こうして思い出していくと私の根は家族に由来するところが多いのでしょう。

 他責ではなく、これだけの物を用意してくれたのに歪んでしまった自戒としての意味ですが。


 また話が逸れたので戻しますが、高校生になって私はとあるゲームにはまりました。

 モンスターハンターです。

 そろそろ新作発売ですねぇ。

 今さっき話してたのですが、火葬場がいっぱいで最短で25日だけどスケジュールがぎっしりとの事で……。

 じゃなくて、このゲームが中学時代の友人とのつながりを取り戻し、そして十年来になる親友との出会いのきっかけをくれました。


 うん、ぶっちゃけお店には悪い事をしたと思っていますが、PSP持ち込んでマクドナルドで半日くらい、ハンバーガーと100円のドリンクで居座ってました。

 中学の友達とはその後疎遠になってしまいましたが、親友との橋渡しをしてくれたという事もあり感謝してます。

 大人になってからFacebook見たら彼はバレーか運動のインストラクターになったようですが、連絡は取れてません。

 というか同窓会とかやってないんだ。

 やってたとしても知らないんだ。

 私、大学生の時バイトしてたバーベキュー場で中学の同級生たちに再開したけど、向こうは客で私はバイトだったんだ。

 連絡なしの同窓会かなんかだったみたいなんだ。

 でもそんなに仲が良かったわけじゃないし、その頃は卒業アルバムにも連絡先が載らなくなってたので致し方なし……。


 高校の方はメール主体からline主体の転換期、ガラケーからスマホへの移行が始まるまえだったのでね……うん。


 まーた話が逸れたけど、その親友は看護師になり、今では別の仕事をしているものの看護師時代の知識を頼りに昨晩も相談に乗ってくれてました。

 ……十年来と言ったけど人生の半分くらいその人と仲良くしてるな。

 今じゃオンラインが当たり前ですが、昔はゲームセンターなどで一緒に遊んだり、どちらかの家でゲームしたりと暇さえあれば顔を合わせて、ふらりと半年やら一年連絡途絶えても「ラーメン食いに行こうぜ!」とどちらかが誘って「そういや久しぶりだね」くらいな感覚な事もありました。


 そんな彼との出会いから、私は昔の恨みはすっぱり忘れて笑い話に昇華できていたのですが、祖母は当時の洗濯を悔いていたらしく。


「もうその頃の話はしないで」


 と言っていました。

 本人も「若かったの、だから私の恥とか外聞も気にしてたの」などという事も話していましたね。


 結局キャラを作ってから人前に出るという習慣は私の根底に根付いてしまったため、今でもその癖はなおっていないどころか悪化していますが、これも処世術の中じゃ当たり前の事だと割り切っております。

 ただ34歳と書いて、これまた自分がおっさんになったんだなと自覚して、キャラクターのアップデートをしなければと頭を抱えておりますが……こうして文字にしてみると少しずつ気分が落ち着いてきた気がしますね。


 振り返ってばかりだったのが、少しだけど先を見る事が出来ている気がします。


 あとは特筆することもなく、大学では単位が不味い状況になったりとか、就職難の時期で祖父の伝手で入社したはいいけど一年もたたないうちに地方に飛ばされて片道二時間半の通勤先から栃木まで運転して片道更に2時間半、合計10時間の移動時間なんて時期もあったなと。

 会社そのものもブラックに片足突っ込んでたなと。

 なんなら当時の社長が亡くなって、先日先輩に焼肉ご馳走になって、新しい社長が私より年下と知ったりと言った出来事も……。

 手取り12万でパワハラモンスター2人の同時狩猟は無理です……。


 まだ反抗期と言いますか、折り合いが悪かった頃なので休職から退職まで随分と揉めたりしましたが、当時患った不眠症と片頭痛は今もついて回っております。

 けれどそれも悪い事ではなく、祖母の病状悪化に伴い発生した不眠症の際に薬の提案などができたのでよかったかもしれません。


 そして今までの約9年、売れないフリーライターとしてここに想いを書き記しております。

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