祖母の病気と介護と家族
長々と自語りをしてきましたが、祖母と病気について語らせていただきます。
彼女は病気知らずの人物であり、病気が発覚して入院するまで。
当時83歳でしたでしょうか。
それまでの間に入院したのは20代の盲腸が最後で、以降は数年に一度風邪をひくかどうかといった健康な人でした。
食が細く、水分もあまりとらないけれど血液検査の結果は良好という健康な人物でした。
だからこそ、病気の発覚が遅れたとも言います。
病名は「レビー小体型認知症」
脳の一部であるレビー小体という部位の変形により脳神経に影響を与え、不眠や鬱、パーキンソン症状や物忘れ、幻覚や幻聴にせん妄といった症状を引き起こす病気です。
一般的には男性の方が多いなんて話も聞きましたが、余命は5年前後で進行が早いのが特徴との事。
病は気からと言いますが、病慣れしていなかった事もあり、病魔に倒れたことで見る見るやつれていき、見かねてリハビリ入院をして一時期だいぶ良くなっていました。
その退院直前、私が新型コロナウィルスに感染して隔離され、帰宅できずにショートステイにて介護施設に入ったのですが「介護施設はもう嫌!」と叫ぶ程度には元気でした。
帰宅後は洗濯物を干したりと、病気になる前と同じように生活しつつ、疲れたら横になるという生活を送っていたのです。
しばらくは私服とパジャマを着替えたりもしていましたが、一年もするとずっとパジャマで過ごして、訪問看護やリハビリの際に着替える程度になっていました。
2023年の終わりから2024年の頭の話ですね。
初詣なども行かず、私一人で歩いて行ったのを覚えております。
それまでの年は祖父母と共に来るまで近場の大きな神社にお参りして、お札などを貰っていたのですが、それも取りやめとなりました。
最初病気の症状が出た際は熱中症かなと言った様子でしたが、数日様態が悪く近場のクリニック、続けて行きつけの病院、そこからの紹介で地元で有数の大きな病院と変わり何度も精密検査を受けた結果判明しました。
実を言いますと本日2025年2月17日はその病院に行く予定があったのですが、三日ほど前から続いていた誤嚥性肺炎によって御断りの電話を……というところで意識が無くなり、そのまま息を引き取る事となりました。
朝の10時20分頃、最近はおむつで用をたしていたのにトイレに行くといい、部屋に置いていたポータブルトイレに座らせてくれというので立ち上がろうとして、しかし歩くことができず座りなおして私が抱きかかえて移動させて、そして便座にズボンをはいたまま腰かけたところで瞼が降りて反応が鈍りました。
声をかけても返答がないため、ベッドに戻して半開きの眼を見ながら「瞬きをして」「手を握って」と声をかけながら訪問診療の先生に電話をかけたり、妹や叔母に電話をかけたり、救急車を呼んだりしたのですが、「ハッハッ」という呼吸だけが続いていました。
そして救急隊の方々が心電図などを見ながら、私に「亡くなる直前の呼吸の仕方です」と告げてきて、そこからは本を読んでいるような。
そんな記憶の仕方をしています。
記憶というよりも記録でしょうか。
茫然として、遺体を見て触れて、まだ温かいと思って、部屋に戻って休めと家族に言われコーヒーを飲みながらスマホを見ては消して、先生に臨終と伝えられた時は「そうかぁ……」くらいにしか思っていなかったのに時間をおいてから涙があふれて、顔を抑えなければ表情がどうなってしまっているのかわからないくらいに崩れ、涙も鼻水もとまらず、声を殺してしばらく泣き続けました。
着替えは叔母や病院のスタッフさんがやってくれて、化粧は下の妹が施してくれたのです。
私には彼女たちに珈琲を淹れて、妹にはせめてゆっくりできるよう一緒に煙草を吸おうと話をするくらいしかできませんでした。
今でも、私の中で「ナースコールが鳴るんじゃないか」という思いがあり、昨晩も祖母の部屋で寝ていたため寝不足なはずなのに身体も頭も冴えわたっている、不思議な感覚です。
叔母は「最後はお兄ちゃんに抱えられて眠ったんだね」「安らかな表情、やっと眠れたんだよ」と言ってくれました。
コロナに感染して誤嚥性肺炎を起こしてからの祖母には会えていなかった、看護師さんやお医者さんから覚悟してほしいと言われてからも会いに来ることのできなかった叔母の心境は私にははかり知れません。
いえ、実をいうとこっそり顔を見に来たのですが、痰の吸引や点滴などで疲れ果てて眠った祖母の寝顔しか見ていない叔母は「また会えると思っていたのに」「また会いたかった、話がしたかった」とこぼしていました。
祖父は臨終の知らせを先生から伝えられ、着替えさせられた後に祖母の胸に手を置き、何度か押すような仕草をして「心臓マッサージしても、意味ないんですよね」なんて言ったりしていました。
今朝になって「メイバランスが飲みたい」と言った旨の意思を伝えられ、吸口で小量とはいえ口に含んで飲んで、なんなら吸口を持つ私の手を掴んで動かしていたりしていたにも拘らずその数十分後に息を引き取った祖母。
メイバランスと必死に書こうとした紙を、祖父に「これ読める?」と聞いてみたところ「読めねえよ。読みたくもねえ」と、あの人なりに悲しんでいるんだろうなと思い、そして祖母に支えられていた人だからこそ今後が不安になるなという次第。
従姉妹はコロナに感染したのか、発熱により最期を見る事も出来なかった。
上の妹は頑固で恥ずかしがり屋だからこそ、話し相手にもなってやれなかった。
下の妹は一緒に煙草を吸いながら昔話をすると、笑ったり泣いたりと表情の変化が激しかった。
母は淡々と手続きを進めていた。
叔母はひとしきり泣いたら手続きのために奔走して、私には「今は寝ろ、休め」と言ってきた。
結局、本当に最期を看取ることができたのは私と救急隊の皆さんと、先生だけでした。
死亡判定の際には叔母と祖父は間に合いましたが、どことなく本人は死ぬ準備を終えたんじゃないかと思わせる行動がいくつか。
Amazonで購入したナースコールが二台ありますが、その両方を祖母の寝室に設置して隣で誰かが寝るようにして、いざという時はそのコールができるようにしていた事。
保湿ローションやOS1といった消耗品の大半を使い終えたこと。
昨晩から今朝にかけて、私の手のひらを指で引っかいたり擦ったりしていた事。
ここしばらくトイレなど気にしていなかったのに、最後にトイレに行きたいと言った事。
なにか、やはり何かあったのでは。
もっとできる事があったのではと思わずにはいられません。
一度ここで筆をおかせていただきますが、一度お休みをいただいてしばらくしてから復帰させていただきます。
まだ思い出は沢山ありますが、これ以上は心の整理が追い付いていないため一度終わりとさせてください。
乱文となってしまい、申し訳ありません。
これから時間をかけて、祖母を弔い涙の意味を理解できるよう努めたいと思います。
2025年2月17日16時54分