【12月25日電子書籍配信】この婚約はきっとうまくいかない
【12月25日コミックシーモア先行配信】
「この婚約はきっとうまくいかない 可憐な辺境伯令嬢は、宰相令息が恋に落ちるぐらい、つよつよ最強です。」(リブラノベル)
5万字ほど加筆しています。コミックシーモア限定SSあり。
エドナ・ワインバークは大変可憐な令嬢であった。
見た目の話である。身長は小柄というわけではなく平均だが、ふわふわした金髪にピンクがかった色の目。ぽやんとした印象を与える令嬢である。
ワインバーク辺境伯の娘で、筋肉ダルマやクマやゴリラのような父・兄・騎士たちに囲まれているから可憐なのではない。辺境伯夫人に似て、王都に出ても評判を呼ぶほどの大変可憐な令嬢であった。
ピアノを持ち上げたり、ちょうどいい岩があれば押したりどかしたりすることを除けば。
外見だけは、エドナは母である辺境伯夫人に似た。
しかし筋力や脳みそ・その他は辺境伯譲りであった。つまり、外見だけは可憐な美少女がピアノや岩を持ち上げているのである。初見ではシュールを通り越してホラーである。可憐な美少女の皮を被った怪物に見えるらしい。
そんなワインバーク辺境伯家唯一の娘、しかも末っ子であるエドナのことを父を始め兄たちは溺愛した。
他家に嫁に出す気など毛頭なかった。溺愛が過ぎて「俺たちより弱い男に娘(妹)はやらん」と婚約者を決めていなかった。
まさかそれが仇になる日が来るとは。
こんなことになるなら適当な相手を脅して婚約者を決めておくんだった。気に食わなかったら途中で殺せば良かったのだし。後悔してももう遅い。
その日、王命が下った。
周辺国から漂う小競り合いの香り。戦争に発展するかもしれない香りだ。
周辺国がそんな状況なのに、国内で喧嘩をしている場合ではない。
つまり、世界情勢がやばいから一応国内は仲良くしよーぜということである。
第一王子と筆頭公爵家の令嬢の婚約がつい最近解消されたせいもあるので、王家としてはどうにか恰好をつける必要があった。
そして国であまりにも有名な仲の悪い両家の婚約が整ったわけである。
武力こそがすべてのワインバーク辺境伯家のエドナと、知略こそがすべてのアルストリア侯爵家の嫡男イゴールとの婚約である。イゴールの父であるアルストリア侯爵は宰相で、辺境伯と大変仲が悪いことで有名だった。
アルストリア侯爵家には先代の時に王女が降嫁しており、王家としても第一王子の代わりとまではいわないが格好がつく婚約であった。
辺境伯と兄たちは猛抗議したものの、ご立派な建前に自慢の筋肉と剣術はなすすべもなかった。辺境伯は国王とは旧知の仲である、そんな国王に頭を下げられたようなものだったし、仲が悪い代表の貴族たちが仲良くするには婚約・結婚が一番いいのだ。
ちなみに、辺境伯夫人はこの婚約には賛成だった。こうでもしないと娘の婚約が永遠に決まらない気がしていたからだ。
エドナ本人はあまり深く考えていなかった。深く考えて悩みすぎてドツボに嵌まる、そんなことは皆無な女の子である。
「あら、私に婚約者ができたのですね~」
くらいのものだった。
さて、王命による婚約のため辺境から王都へと出て来たエドナ。
話はここから始まる。これは王命によって整った婚約の当事者たちのお話。
エドナはすでに母から言い含められていた。
王都ではちょうどいいサイズの岩やら馬やらがあっても持ち上げてはいけないと。
辺境伯領ではそんなことをしても「お嬢、最高にカッコイイです!」「そのサイズを持ち上げられるなんて痺れます!」「ここに置いていただけると助かります!」「俺、これだけ持てるようになりました! お嬢的には俺はどうっすか!」などと称賛しか浴びなかったのだが。
魔物が暴れて騎士たちが出撃し、そのあとの復興を手伝うのはエドナのルーティンワークだったのだ。
しかし王都に魔物が出ることは稀であるし、戦闘狂のごとく暴れまくる父や兄たちもいない。何なら山から転がって来たようなちょうどいい岩とかもない。
「普通の令嬢は岩を持ち上げることはできません。あなたの可憐な見た目でそんなことをしてしまうと、男性方はびっくりしてあなたに失望するでしょう」
母の言葉にエドナは「それが王都というものなのか」と殊勝に頷いた。
「お母様、イゴール様にはすでに嫌われているようなのですが」
顔合わせを終えて王都のタウンハウスに帰りながら、エドナは付いてきた母を見た。
顔合わせ中、婚約者となったイゴールが口に出した言葉は「あぁ」とか「よろしく」といった片手で足りるくらいのものだ。彼は目つきが悪く、こちらを睨んでいるようにも見えた。宰相のメガネの奥の目つきもそれはそれは鋭かったのだが。
「旦那様と宰相様の仲が悪いのだから、最初からニコニコと友好的になるはずがないわ。でも、王命なのだから賢い宰相様だって分かっていらっしゃるわよ。すぐに仲良くなるのは難しくても時間をかければ大丈夫よ」
イゴール・アルストリアは細身で、黒髪緑目の理知的な雰囲気の令息だった。
父や兄たちが見れば「骸骨」「ヘナチョコ野郎」「頭でっかち」などと好き勝手言いそうな体格であった。確かに辺境伯領にはあのような細身な男性は珍しい。
「エドナはどうだったの? イゴール様に会って」
「そうですね、目つきは鋭いですがこの前現れた獰猛なクマさんに似ていましたし、威圧感があって可愛いと思います。宰相様のご子息ですから立ち振る舞いに隙がなくて良いですし、筋肉はお父様やお兄様たちのようにはありませんが宰相様も細身でしたから遺伝でしょう。遺伝なら仕方ないです。辺境伯領では見たことがないタイプの方で面白いです」
「生理的に嫌だった?」
「特にそんなことはないです」
ややズレた回答であることにエドナは気付いていない。
辺境伯夫人は頷いて問題ないと判断した。
頭の良い宰相のことだ。宰相だって心が追いつかないだけで分かっているのだ。ワインバーク辺境伯は国防の要。溺愛する娘に変なことをしようものならば、他国と戦争以前に王都が文字通り焼け野原になる。
「あの態度が続くなら脅しておかないといけませんけれども」
辺境伯夫人は不敵に笑った。嫁いだ身であってもやはり彼女もすでに辺境伯領の考えに染まっているのだ。
宰相であるアルストリア侯爵は「なんでうちがあんな筋肉ダルマと縁を持たねばならんのだ。バカが移る」と女々しく煩いのだが、宰相夫人であるアルストリア侯爵夫人の陥落は早かった。
何せ、自分には可愛くない二人の息子しかいないのである。
嫡男は超絶無愛想、もう片方は夫に似てやたらと賢く弁も立って口答えが多く、さらに好きな研究をしに家を飛び出してしまった。
そんな中現れたのが、王都でもなかなか見かけない可憐な美少女である。テンションが上がってしまっても無理はない。ムサい息子より可憐な美少女が正義である。
夫が辺境伯と「この筋肉野郎。また魔物が出て派手に暴れて復興に金がかかるんだよ。てめーの領地だけでどんだけ金出させるんだ」「うるせぇ神経質メガネ。そんな小さいこと気にして戦ってられねーんだよ、さっさと金寄越せや」とやり合っているだけであって、夫人としては辺境伯に思う所はない。
交流のために晩餐に招待した目の前のエドナ・ワインバークは、辺境の田舎者という差別意識を抜いても大変に可愛かった。辺境伯夫人は辺境から遠い王都に出て来てやることがあるらしく、今日はエドナ一人である。
侯爵夫人は遠慮なく、目の前の可憐な少女をじっとりと見た。ムサい息子を見たって何も楽しくない。
「お花がお肉の上に飾ってあります!」
エドナは肉の上にある花の形にカットされた野菜や、やたらくるんくるんした形になった人参や食用花を見て感嘆の声を上げる。
そう、これこれ。この素直な反応が欲しい。息子のようにつーんとして口に入れられたら悲しい。せっかく頑張って料理人に指示を出したのだから。
「ワインバーク辺境伯領ではこういった料理は珍しいかしら」
こういう時に超絶無愛想なイゴールは朗らか会話要員として全く使い物にならないため、侯爵夫人は微笑んでエドナに話を振った。内心では「うちの息子、気の利いた会話もできないなんて!」と憤慨している。
「はい。魔物が出るとどうしても土を踏みならしてしまうので、花や草はなかなか生えなくて」
「魔物の被害は多いの?」
「毎月のようにありますが、そこまで酷くはありません。スタンピードの時が一番酷くて」
こんなに可憐な少女が花を愛でられないなんて。
侯爵夫人は普通に心の中で泣いた。
実は辺境伯領にも花は咲く。小さいウサギサイズの魔物をバクっといくような花だったり、毒をブシャアと撒き散らす花だったり、生態系が独特なのだ。もちろん、それらは悲しいかな愛でるような花ではない。
侯爵夫人が心の中で勝手にエドナに対して庇護欲を掻き立てられている最中、秘書の一人が慌てたように晩餐の席にやって来た。どうやら緊急の要件のようだ。
宰相は仕事で不在のため、嫡男イゴールが「失礼」とすぐに立ち上がって隅で書類を見て対応している。
「ここだ」
「あぁ! ここだったのですね!」
「それと……ここも」
「何故気付かなかったのでしょうか! すぐに対応します」
イゴールは真剣に書類を睨むと、二か所を示す。それに対して秘書の男性は大きく頷いてすぐに書類を持って出て行った。
エドナはイゴールの姿に衝撃を受けた。
書類を真剣に読み込む姿がカッコよかったのである。
なにせ父と兄たちは書類仕事が苦手だ。「あっはっは。よく分からん!」と見て五秒でその書類は宙を舞うのだ。つまり、エドナにとって書類は大体積んであるか宙を舞うものであった。
母の集めた有能な秘書たちは「旦那様にはこの石よりも薄いものを渡すな」と5センチの石を手に言い合っている。
束で置いておくといいのだが、読むときは数枚単位だ。宙を舞う前に破けたり、宙を舞う際にどこかにいったりする。辺境伯領では書類とはそういうものであった。
エドナがキラキラした目でイゴールを見ているのに気付いた侯爵夫人は、なぜかため息をついた。「うちの夫はいつまで隠しておく気かしら」という呟きは誰にも届かなかった。
それから数日後、イゴールとエドナは歌劇を見に行った。
イゴールは歌劇になど興味の欠片もないのだが、晩餐の際に侯爵夫人に背中と尻を叩かれてエドナを誘った形になっている。形だけだ。実質、侯爵夫人の強制的な会話の誘導により歌劇を二人で見に行くことになったのだ。
エドナは歌劇を鑑賞するのは初めてである。
心躍るのだが、如何せん辺境伯の娘。いくら外見が可憐でもじっと座っているのは苦手だった。しかも照明は暗い。
辺境伯領では魔物の咆哮が響いても皆慣れてビクビクなどしないのだ。つまり、エドナにとって悲恋だろうが愛を熱烈に求める歌だろうが子守歌に過ぎなかった。
開始十分も経たないうちに、エドナは夢の世界に無事旅立った。
イゴールだって歌劇には興味がなかった。そして連れて来た王命での婚約者である令嬢はすでにくぅくぅと寝息を立てている。
イゴールとしてはクマのような筋肉ダルマの女性が来るだろうと身構えていたのに、やってきたのは妖精だったというオチである。
父である宰相から散々辺境伯の悪口を聞いていたので、令嬢も筋肉ダルマだと思っていたのだ。
「筋肉ダルマだった方が良かった。もっと会話ができたのに。どうせこの婚約はうまくいかない」
イゴールはそう呟いた。
宰相の息子=賢い。そんなイメージを持っていないだろうか。
イゴールが苦しんでいるのはまさにそれだ。父とどこに行ったのか分からない弟は本当に賢い。
しかし、イゴールの頭脳は平均レベルだ。それなのに宰相の息子であるということと、外見で賢そうに見えるらしい。目つきが悪いだけなのに、父譲りの鋭い目さえそんな誤解を相手に与えてしまう。
周囲から期待されているにも関わらず、それに応えることができない。
宰相である父はイゴールの頭脳が平均レベルであることに早々に気付いた。そして極力黙っているように指導したのだ。黙っていれば余計なことを言わないし、バカだとバレにくいからである。こうやって超絶無愛想な嫡男は誕生した。
どうせなら弟に爵位を継がせればいいのに、賢い弟はその空気を敏感に察知したのかさっさと出て行ってしまった。
イゴールが宰相の息子なのに大して賢くないとバレてしまったら、目の前の彼女に何と思われるだろうか。彼女は晩餐の席で書類の確認をしたイゴールのことをキラキラした目で見ていた。令嬢は賢い男性が好きだ。彼女もなのだろうか。
イゴールは書類なんて見たって大してよく分からない。なんとなく、ここが一番分からないなと思って指差すとそこが問題点であることが多いだけだ。秘書だって父だっていい加減諦めたらいいのに。イゴールはこれ以上賢くなどならないし、宰相になんてなれないのだ。
それよりもレイピアを振るっている方が楽しい。
しかし、父に「うちの息子が脳筋だとは!」と良い顔をされないので遠乗りに行って剣の稽古をすることで何とか誤魔化している。体質なのか筋肉がつきにくく、どれほど訓練しても走っても辺境伯のように筋肉ダルマになることはなかった。
辺境伯の令嬢と王命で婚約するとなって、彼女となら剣の話などもできると思っていたのに。やってきたのは剣って何それ? 美味しいの? などと言いそうな妖精だった。
妖精と剣の話ができるわけがない。彼女の兄たちは魔物討伐に出ているようだが、溺愛される彼女はそんなところに行っているなんて聞いていないし、このように華奢で可憐な令嬢が行っているわけがないだろう。
イゴールは悲しかった。
せめて自分がもう少しバカっぽい顔をしていれば。これから彼女に「え、イゴール様ってあんまり賢くないんですね……」なんて失望される恐怖などなかっただろうに。
目の前にいるのが男性でも女性でも妖精でもイゴールにとってはそれが恐怖だった。
彼女には申し訳がない。
王命だから仕方のない婚約だ。しかし、彼女は最強の辺境伯から溺愛された娘。
王命さえなければ彼女は好みの男と結婚できるだろうに。イゴールに失望するのも時間の問題だろう。
イゴールもその後、眠ってしまった。二人で大爆睡である。
「眠ってしまいました」
「大丈夫だ。私も眠っていた」
「歌があまりにお上手で子守歌みたいでしたね!」
エドナとイゴールは歌劇に対して大変失礼な会話をしながら外に出た。侯爵夫人にバレたら怖い案件である。
ここからは馬車に乗ってアルストリア侯爵邸に戻って晩餐を食べて帰るだけであった。
しかし――。
「あら、なんだか騒がしいですね?」
馬車止めまで向かっていると、どうも大通りが騒がしい。
エドナとイゴールは二人で何だろうと顔を見合わせる。
「馬車が横転した! 暴れ馬だ!」
「逃げろ! こっちに来るぞ!」
そんな大声が耳に届く。
「ここにいてくれ。いや、馬車に乗って待っていてくれ」
「え?」
イゴールはそう告げると、颯爽と走って大通りの方面に向かっていく。
エドナは一瞬きょとんとしてその背中を見送る。彼の背中は華奢なはずなのに、魔物の討伐に行く兄たちや父のようにたくましくも見えた。
父や兄は彼のことを軟弱者だと見るだろう。
でも、暴れ馬だとか馬車が横転しただとか聞いてすぐに駆け付ける華奢なイゴールを見て、エドナは思わず口角を上げていた。
「お父様、イゴール様は軟弱ではないようですよ」
馬車くらいなら持ち上げられるわねと呟いてエドナもドレスをたくしあげて走り始めた。
イゴールは暴れ馬に追いついて何とか落ち着かせることに成功させていた。
乗馬は好きだし、得意だ。気性の荒い馬に乗るのも。父に良い顔をされないことは大体好きだ。
それに今回の暴れ馬は長い距離を走ったらしく疲れていたので危険も少なかった。しかし、パニックになった人々が転んだりぶつかったりして怪我をしている二次被害が深刻だ。
まだ治安部隊は到着していないのかと馬を引きながら歩いていると、イゴールは信じられないものを目にした。
婚約者であるエドナが軽々と馬車を持ち上げて、その間にアルストリア侯爵家の護衛騎士たちが下敷きになった人を助けている。
騎士たちと一緒に持ち上げていると思ったのだが、エドナ一人で持ち上げているのだ。
男性がしゃがんで助けに入れるほど十分な高さまで馬車を持ち上げており、下敷きになった人達が全員救出されるとエドナは馬車をゆっくり地面に置いた。
可憐な美少女が馬車を持ち上げて下ろした様子に、野次馬から「すげぇ」と自然と拍手が起こっている。
「エドナ……嬢?」
「あ、イゴール様」
イゴールが馬を騎士に任せてエドナの側に駆け寄った時には、彼女は最も怪我の酷いあまりにもふくよかな五十代くらいの女性を軽々お姫様抱っこしたところだった。
「この方、出血が酷くて。ここでの処置では限界があるそうなのでそこの治療院に運び込もうかと」
「わ、分かった。道を空けてくれ!」
騎士でも抱えるのに難儀していたふくよかな女性をエドナは羽根のように軽々抱えている。
イゴールは先ほどの光景が頭から離れなかったが、今問いただすことではないとすぐに指示を出した。心臓の高鳴りは今は無視する。
女性を治療院に連れて行き、二人で馬車止めまで戻る。
「エドナ嬢、先ほど馬車を……」
「えへへ。王都では持ち上げちゃいけなかったんですよね。ごめんなさい」
その言葉にイゴールは衝撃を受ける。
「やはり、馬車を持ち上げていたのはエドナ嬢なのか?」
「はい。私、中身はお父様に似ているみたいで。岩や馬車は簡単に持ち上げられるんです。でも、王都でははしたなかったのですよね。お母様に注意されていたのですが緊急事態だったのでうっかり」
「そんなことはない!」
イゴールはうっかり大きな声を出した。エドナは魔物の声の方が大きいので、それにさして驚いた様子もなくイゴールを見上げる。
「あなたが馬車を持ち上げなければ、怪我の具合が皆酷くなっていたかもしれない」
「それなら良かったです。馬車の作りが頑丈だったので、騎士の方々も三人では持ち上げられなくて」
イゴールに護衛騎士が二人、エドナに三人つけて残していたのでその三人のことだ。
「その、あなたは、はしたなくなどない」
「うふふ、ありがとうございます。イゴール様はカッコ良かったです。騒ぎが起きていると聞きつけたらすぐに走って行かれて。暴れ馬を乗りこなすなんて凄いです」
「いや、あなたの方がずっとずっとかっこいい。馬車を持ち上げて怪我人を助けた」
「そうですか? 辺境では普通のことですから。でも、本当は引いてしまわれたのではないですか。だって、王都の女性たちは岩や馬車を持ち上げないのでしょう?」
エドナはうっかり馬車を持ち上げてしまったものの、不安になった。
実はイゴールに引かれてしまったのではないだろうか、と。王都に来てみて分かる。ここは辺境とは全く違うのだ。
魔物も出ず平和で、食べ物は凝っていて、服だってとても洒落ている。歌劇という娯楽もたくさんあるし、毒のない綺麗な花もたくさんあって、母が招待されるお茶会も多い。
でも、暴れ馬が出てもイゴール以外誰も対処できなかったし、馬車を協力して持ち上げようともせず皆パニックになっていた。これがきっと平和の証なんだろう。辺境なら皆すぐに対応できる、だって魔物の襲来などで慣れているから。
イゴールを見上げると、相変わらず険しい顔をしていた。視線も鋭い。
怒っているのかもしれない。王命でこんな馬車を持ち上げてしまうエドナと結婚させられそうなのだから。元からあまり好かれていなかったようだし。
母の言ったことは正しかったのだ。
あまり意味は分かっていなかったが、男性はエドナの行動に失望するのだろう。ここは辺境ではないのだから。
急にエドナはイゴールに手を取られた。
「え?」
「結婚してくれ」
「え? もう婚約していますが」
「……そうだった」
急に意味不明な会話である。
イゴールの表情はどう見ても険しく、求婚しているようにもない。
「私に失望しませんでしたか?」
「え? なぜだ? するわけがない。惚れた。むしろあなたが私に失望すべきだろう」
「え、それこそなぜですか?」
「……私は宰相の息子なのに期待されるほど賢くない。外見で賢いと見られるだけで、口数もわざと減らしているんだ。そもそも勉強などよりもレイピアを振り回している方が好きなんだ」
「書類をきちんと読んでいらっしゃるだけで凄いですし、颯爽と暴れ馬をなだめに行く姿もカッコ良かったですよ」
「いや、あなたもカッコよかった。馬車を軽々持ち上げて、怪我人を運んで。もしかして魔物を倒したりもしていたのだろうか」
「魔物は父が許可してくれないのですが、町の復興の最中に現れたクマなんかはメリケンサックで殴ってました」
「凄い……剣ではなく拳なのか」
「殴れば山に帰ってくれるので」
「そ、そうか」
「本当に失望していませんか?」
「していない。むしろあなたのことをもっと知りたくなった」
その言葉で、イゴールの目つきはまだまだ鋭いのにエドナの顔に熱が宿った。
アルストリア侯爵家の護衛騎士たちは後ろでソワソワしている。
「凄かったよな、見たか?」
「ワインバーク辺境伯令嬢のことか?」
「いや、そっちも凄かったけど、坊ちゃまの顔」
「あぁ、見た見た。明らかに恋に落ちた顔だった。馬車を持ち上げているエドナ嬢を見た時だな」
「坊ちゃまってあんなに表情変わるんだな」
「いやー、人が恋に落ちる瞬間っていいよな」
馬車止めの前で見つめ合っている二人は正直邪魔である。
だが、護衛騎士たちはいい雰囲気なので何も言えない。
見かねた花売りの少女が近付いてきて、ピンクのバラをイゴールに無言で差し出した。エドナの目の色に近いバラである。
この少女の瞬時の気遣いはただ者ではない、今すぐ店を持ってくれと言いたいレベルである。
護衛騎士たちはポケットを漁り、花売りの少女のために小銭を用意する。
その間にイゴールはそのバラをエドナにきちんと渡していた。
「王命で、この婚約はきっとうまくいかないと思っていた。あなたが私に失望するだろうと。それが怖かった。怖くてあまり話しかけられなかった」
エドナは首をかしげて、その後で横にゆっくり振る。
どうやら二人とも同じことで怖がっていたようだ。
「でも、もしもまだあなたが失望していないなら」
イゴールはエドナの両手を包む。
「この婚約はきっとうまくいく」
エドナは嬉しそうに笑って頷いた。
バラを持って頬を染めて笑う様子は、先ほどメリケンサックでクマを殴る話をしていた娘には到底見えなかった。
これがイゴールとエドナがアルストリア侯爵夫妻になるまでの、最も有名な馴れ初めのお話である。この婚約が王命であったことは後の記録には大変小さくしか記されていない。むしろ冗談だと思われている。
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