3. なつやすみは終わらない(完)
ラブホのお風呂に、ぬるめのお湯を張る。
この合宿のために買った水着に着替えて、軽くシャワーを浴びる。
アミノサプリと爽健美茶を持って、サーフパンツの塚田が入ってくる。
ボクたちは湯船につかる。
光量をしぼった照明が、淡くボクたちを照らす。
ジェットバスのボタンを押すと泡がぶくぶく湧きあがって、つぶつぶ流れていく。
「ねえ、ボクのビキニ、どうかな?……」
「がつんと来た」
「ふーん。欲情した?」
「現在進行形でぐっと来ている」
ボクは塚田ににじりよって、鎖骨に指をはわせる。
大胸筋をまわりこんで、肋骨をまさぐる。
「塚田さ、なんで九連あがったの? 清一でじゅうぶんだったじゃん」
「美鈴と差しウマを握っていたからな」
負けたら意中のひとの名前を告げる。
その賭けに勝つために、塚田はイカサマを駆使した。
たった、それだけのために。
「教えてもらおうか。美鈴が好きなやつの名前を」
「あわてないで。『勝負の貸しは一日限り』ってマンガにあったでしょ」
「それは勝ったほうのセリフだ。しかし、一理ある」
塚田は二リットルのペットボトルから直接、ぐびぐびアミノサプリを飲んだ。
「せっかく来たんだから、練習、しよっか?」
「そのまえに、俺には告白しなければならないことがある」
「なに?……」
いきなりなんだよ、告白って。
不安で胸がきゅうってする。
好きな子がいるとかだったら、やだな。
やばい。泣きそう。
「俺はラブレターをもらったことがない」
「は? いや、もらってたじゃん……」
「勘違いしているようだが、というより、わざと勘違いを正さなかったんだが、あれはファンレターだ」
「ふぁんれたー!?」
こぼれかけた涙が引っこんだ。
どういうこと……?
「うちの高校にもオタクと呼ばれるやつらがいる。まあ、俺たちもそうだと言えなくもない」
「それはまあ、うん」
「漫研に派閥がいくつかあって、美鈴のファンクラブもあるって知ってたか?」
「えっ!? 意味わかんないんだけど……もしかして、マジな話!?」
「彼女らはやがて美鈴と俺のカップリングを愛でるようになり、ファンレターやら要望書やらを押しつけてくるようになった。『甘酸っぱい幼馴染関係ごちそうさまです』とか、『校内でいちゃいちゃしているところが見たいです』とか、『アンドレもっとがんばれ』とかな。余計なお世話だ」
「うわぁ……怪文書すぎる」
ん、んん!?
えーと、つまり?
あの手紙は告白とかじゃなくて、いやまあ、ある意味、告白かもしれないけど、塚田とつきあいたいとかそういうのじゃなくて。
「美鈴がいるところで渡してきたのは初めてだけどな。彼女らにも思うところがあったのかもしれない。俺もそれに乗ったというか、利用したというか。夏がせまっていたからな。俺はあせっていたんだ」
あれ、あれれ!?
これ脈あるやつ?
もう告白されたようなもんじゃない?
「それと、俺は初手から練習のつもりはなかったからな」
塚田はすこし恥ずかしそうに言う。
そんなの、こっちの台詞だよ。
塚田の手がボクの背中をはいまわり、ビキニの紐をほどこうとする。
「ちょっと待った! うかつにひっぱると固結びになっちゃう」
「すまん。ごめんなさい」
塚田の手がすごすご退散する。
「蝶結びの輪っかに紐をくぐらせて、トポロジーを複雑にしてるのだ! 塚田みたいな悪い虫に脱がされないようにね。結び目理論っていうんだぞ!」
「どうも、悪い虫です。虫なので数学は苦手です」
湯船のなかで塚田は居住まいを正す。
おちゃらけた雰囲気が霧消する。
真剣な目でボクを見つめてくる。
ボクも目をそらさない。
「美鈴、好きだ。おまえが誰のことを好きだろうと離すつもりはない。どうしようもなく好きなんだ」
ちゃんとした告白された!
ちょっと重ための告白だけど。
えへへ。うれしい。
「教えてくれ。おまえは誰のことが好きなんだ?」
しまった。この展開は考えてなかった。
言葉が出てこない。
塚田は言ってくれたのに。
「莫迦、朴念仁、言わなくてもわかるでしょ……」
「莫迦だからわからない。言えよ、美鈴。言わないと、どすけべなことするぞ」
「ばっちこーい!」
いまのうちにとびっきりの返事を考えなきゃ。
塚田が湯船から出て、アメニティを取りに行く。
「なにそれ?」
「化粧品じゃないほうのローションだ」
「思ったよりやらしいやつだった!? 言う、言うから……。それはボクたちには早すぎるって」
ボクは湯船のなかで立ちあがる。
腰に手を当てて、おおきく息を吸う。
びしっと指差して言う。
「塚田宏治くん、ボクはキミが好きです」
その夜は熱帯夜だった。
夏よりも熱い抱擁を交わし、夜よりも熱いキスを交わす。
たくさん好きって言いあう。
ボクたちだけの、それは、夏の夜のむつごと。
◇◇◇
房総は朝の七時。
朝なのに気温はすでに三十度近い。
海が近いだけあって、いくらか過ごしやすい気がする。
荷台に座った塚田がボクの腰をつかんでいる。
「美鈴」
「なんだよ、塚田」
「ふたりきりのときは下の名前で呼んでくれ」
背筋がぞくっとする。
背中のおわり、身体の奥の奥が、痺れる。
「だめ……だよ」
「どうしてだ?」
「また、したくなっちゃう……から」
「すまん。わかった」
橋にさしかかり、塚田が荷台から降りる。
欄干に自転車を立てかける。
用水路が川に合流している。
「川が合流する場所ってロマンを感じないか?」
「わかるかも。雨の終わる場所とか」
「そうだな。それにしても壮観だ。どちらを向いても黄金色の稲穂の海だ」
「これ、早場米ってやつ?」
草いきれにボクたちの息が溶ける。
塚田がペットボトルを渡してくる。
「ありがと……」
ボクは受けとって爽健美茶を口に含む。
抱きしめられて汗をなめられる。
「だめだって……こんなところじゃ。蚊に刺されて、かゆかゆだよ」
「俺のほうが肺活量が多い。俺が蚊に食われるのが道理だろう」
「昔からそうだったよね」
ふたりでなつまつりに出かけて、蚊に刺されるのは塚田だけだった。
だから、塚田はキンカンを持ち歩くようになった。
「美鈴」
「なーに?」
「あのビキニ、着るのは俺の前だけにしてくれ」
「……うん。そろそろ出発しよう? 朝御飯食べはぐれちゃうよ」
九十九里の浜につづく平坦な道を、ボクたちは駆けていく。
自転車にふたりのりして。
夏の朝を太陽に向かって。
◇◇◇
帰りついたのは、食堂が開く十分前。
にやにや笑いながら、部長はボクたちを迎える。
「おはようございます。ゆうべはおたのしみでしたね」
「ああ、太陽は今日も黄色い」
「おいこら」
正直に答えた塚田の耳を引っぱる。
「みーちゃん、おはよう……」
映研カップルが合流する。
「そういえば名乗っていなかった。俺は後藤、こいつは……」
「清水奈穂……」
「おはようございます。なんだか、おつかれですね」
「夜中まで作業してたのに……こいつに叩き起こされて……」
連れだって、ぞろぞろ食堂にはいる。
朝御飯の献立は、ごはん、お味噌汁、焼き鮭、目玉焼き、ほうれん草のおひたし、海苔、納豆。
お味噌汁を飲んで目が覚めてきたのか、清水さんが饒舌になる。
「ぜんぜん固まってないんだけど、コンセプトは羽衣伝説で青春ロードムービーみたいな? 川沿いを自転車で走るシーンと夕暮れの砂浜のシーンは必須、それだけ決まってる。みーちゃんは天女で、塚田くんに羽衣を奪われる。台詞も演技もまだ考えてないから、なんかいい感じにおねがい。ふたりなら大丈夫、存在感があるから」
「存在感ですか……」
ボクは目玉焼きをごはんに載っけて、黄身に醤油をかける。
「本物が持つ説得力というのかな。そういうのがないと、青春なんて写しとれやしない。薄っぺらくて、嘘っぽくなっちゃう。ふたりにはそれがある。って、部長ちゃんと昨日、意気投合したんだ。部長ちゃんには天女二もお願いしてる。みーちゃんを連れもどしにくる役ね」
塚田の箸が、ひょいっと鮭の皮を持っていく。
ボクが苦手な魚の皮は塚田の好物で、昔から食べてもらっている。
「塚田くん、この目玉焼き、手をつけてないからあげるよ。太陽が黄色いときは強化目玉焼き。松本零士だっけ?」
塚田はにやりと笑い、頭をさげる。
「ありがたく」
席を立ち、おかわりをよそいにいった。
「本物って、なんですか?」
ボクは挑むように訊く。
「ぎらぎらとしていて、目を離せなくて、嫉妬してしまうような輝き、かな」
「よくわかりません」
「うん。あのさ、本物がなにかわからなかったとしても、それは、否応なく、なってしまうものなんだよ」
やれやれ。
部長と馬があうわけだ。
ボクは肩をすくめた。
◇◇◇
朝食後、わいわいがやがや議論する。
中村ちゃんと鈴木くんはADに任命された。
演劇部の面々は、嬉々としてボクに化粧をほどこす。
ウィッグは断乎拒否。
天女の衣装は肝試し用の白ワンピに決まった。
塚田が自転車をまたぐ。
麦わら帽子のあごひもをしっかり結ぶ。
荷台に横座りする。
貞子ワンピが後輪に巻きこまれそうで気が気じゃない。
クリップで止めてもらった。
川沿いのまっすぐな道を、なんども自転車で往復する。
塚田がペダルをまわす。
気温は三十度。走っているあいだはすずしい。
川面を風が吹きぬけていく。
清水さんは川原に三脚をすえてカメラをまわす。
木陰で休憩する。
鈴木くんがクーラーボックスからポカリを取りだして渡してくれた。
中村ちゃんがうちわであおいでくれる。
塚田は自前のアミノサプリをラッパ飲みする。
部長と清水さんはなにやら議論している。
合宿所の屋上の鍵を借りた。
ボクは海に向いて立ちつくす。
背中合わせに塚田が立つ。
清水さんはボクたちのまわりを旋回しながら撮影する。
暑い。体感四十度くらいある。
ボクは腕をあげ、東の方角を指差す。
指の先に蓬莱山があるという設定の演技。
どんな演技だよ。
月影先生、ガラスの仮面はかぶれなさそうです。
だって文芸部員だもん。
カメラのバッテリーが切れて、昼の撮影は終了。
メイクを落として、汗拭きシートで身体をぬぐう。
エアコンがきいた部屋で、大浴場が開く四時までお昼寝した。
畳に転がって、ふたり手をつないで。
◇◇◇
日没十五分前。午後六時二十四分。
黄昏に染まる砂浜。
「喫うかい?」
後藤さんが訊く。
「いや」
塚田が答える。
「この浜にも天女伝説があるらしいね」
「どこにだってある、ありふれた伝説にすぎない。打ちあげられ、打ちすてられた鯨骨のように」
波打ち際、ボクはワンピースのすそをひるがえし、くるくると舞う。
部長もおなじ格好で、ボクたちは手を取りあってまわる。
ぱっと手を離す。
部長が手を挙げる。
画面のそと、中村ちゃんと鈴木くんが噴出花火に火を点けてまわる。
ボクは麦わら帽子を投げる。
砂浜に落ちた帽子を塚田が拾う。
金銀に輝く火花が塚田の身長より高く噴きあがる。
部長がフレームアウトする。
伸ばした指先と指先が触れあう。
ボクの指と塚田の指が絡みあう。
ボクたちは文芸部で、演技はからっきしだから。
これは、だから、素のままのボクたちだ。
波打ち際、ボクたちはキスをする。
麦わら帽子に隠れて、キスをする。
本物のキスをする。
「はい、カット!」清水さんが叫ぶ。「素敵よ、塚田くん、みーちゃん!」
◆◆◆
それから、いろんなことがあった。
金融危機が発生し、震災が起こり、消費税があがり、元号が改まり、感染症が流行した。
「このあたりも、だいぶ変わったね……」
「そうだな」
コンビニでパピコを買って分ける。
サンダルはクロックスに変わった。
おそろいのクロックス。
ボクの髪は肩まで伸びて、塚田美鈴を名乗っている。
「なくなったよね、コンビニの誘蛾灯」
「いわれてみると、たしかに。気づいていなかった」
「照明がLEDになったからなんだって」
「ああ、虫が見える波長の問題か」
「悪い虫には見えないんだよ、有機交流電燈のひとつの青い照明は」
抱きしめられる。
キスをする。
夏は乳酸菌飲料の味がした。
かつてとおなじように。
(おしまい)