1. なつやすみはもう目前
「塚田、今日は台本読みのヘルプはいってるから」
ボクは告げる。
ぱたり。塚田はハードカバーの本を閉じる。
集英社『世界の文学』第二十八巻。
外箱の帯に『失われた足跡』と書いてある。
「わかった」
本を鞄に放りこんで、塚田が立ちあがる。
こいつの名前は塚田宏治。
活字中毒のくせして、身体を鍛えるのが趣味の大男。
ちいさいころはかわいかったのに、いまじゃ身長百八十センチ超え。
ボクも女子としては上背があるほうだけど、頭半個ぶん塚田のほうが高い。
ずるいよね、男の子って。
にょろにょろおおきくなっちゃうんだから。
ボクの名前は岡本美鈴。
イケメン女子。かっこわらい。
自分で言ってむずがゆくなるけど、一度キャラ付けしちゃうと惰性というか慣性というか、なかなか変えられない。
塚田はボクの親友。
保育園からずっといっしょ。
幼馴染ってやつ。
竹馬の友ならぬホッピングの友。
小学校低学年のころ、ふたりでぴょんぴょん跳ねて遊んだ。
中学にあがって、ボクはバスケ部に、塚田は図書委員会にはいった。
ボクの部活が終わるまで、塚田は図書館の本を読みあさっていた。
高校生になったボクたちは、つぶれかけの文芸部で放課後をすごすことに決めた。
「講堂か?」
塚田が低い声で確認する。
おなかの奥に響く声。
これでモテないんだから、世の乙女たちは見る目がないんだろうなぁ。
塚田が硬派を気取ってるからってのもある。
昭和の不良かよ。
「うん。いっしょに行こう」
ボクは立ちあがり、スカートのほこりをはらう。
部室を施錠して、塚田に鍵を放る。
ボクと塚田のふたりしかいない文芸部が存続できているのは演劇部との密約のおかげ。
演劇部に名義を融通してもらうかわり、文芸部は労働力を提供する。
演劇部は男子がすくないから、塚田みたいな実用的な筋肉は重宝される。
ベニヤも垂木も軽々運ぶもんね。
コンパネだって。
「なに読んでるの?」
「ガルシア=マルケス」
「ふーん」
今日のボクたちの仕事は、休んでる役者のかわりに台本を読むこと。
油断すると出演させられる危険も伴う。諸刃の剣。
ボクたち背が高いから、舞台映えするんだってさ。
ピンスポを浴びるのは文芸部の仕事じゃないんだけどな。
「俺は鍵を返してくる。さきに行っていてくれ」
「いっしょに行こうって言ったじゃん」
「そうだな」
踊り場でよろめいて、腰を抱かれる。
ぞくりとする。
胸がどきどきする。
「美鈴、いい匂いがする」
「制汗剤だよ」
「せっけんの匂いだ」
ただのエイトフォーでございます。
「あのね、塚田、女の子にこういうことしたら、だめなんだよ」
ボクは塚田の身体を押しのける。
塚田はすなおに離れた。
「わかった。気をつける」
「ボク以外の子にしちゃ、だめだからね」
「わかった。美鈴にしかしない」
「今日ってエチュードじゃないよね?」
階段を一段とばしで降りながら訊く。
ボクはエチュードが苦手。
文芸部員に即興劇の筋肉があるわけないじゃん。
「別役実と聞いたが……」
「ふじょーりなやつだ!」
鍵をくるくるまわしながら、塚田がうなずく。
◇◇◇
夏の夕暮れ、蝉時雨。
蝉の声が、騒音がうるさい。
演劇部の部活終わり、講堂前の階段をくだる。
立ちふさがる女生徒。
「あ、あの、これ!」
女生徒は塚田に手紙を差しだす。
かわいい封筒にかわいいシール。
かわいいが大渋滞してる。
「よ、読んでください」
「……わかった」
女生徒は手紙を押しつけて走り去る。
ちょ、ちょ、ちょっと待って!
塚田、硬派じゃなかったの!?
塚田、モテないんじゃなかったの!?
これって、あれでしょ。
屋上に呼びだされて告白とかされちゃうあれ。
「ど、どうするの?……」
長く伸びた影だけが交わる。
手を伸ばしても、ぎりぎり届かない距離。
塚田は首をかしげる。
「どうするって……読むしかないだろう。まあ、いつものやつだ」
い、い、いつもの!?
そんな日常的に告られてるの!?
塚田は手紙を鞄にしまう。
ボクは大声で訊く。
「今日の晩御飯、どうする?」
演劇部部長直伝、腹式呼吸。
あの女生徒、まだ近くにいるかもわからない。
威嚇してやる。がるるる。
「金曜日だからカレーだ。カレーがいい」
「おーきぃどーきぃ」
ボクは傲然と顎をあげ、宵闇を睥睨する。
ボクたちは晩御飯いっしょに食べるくらい仲がいいんだぞ!
「炊飯器は? セットしてある?」
「七時に炊きあがる予定だ。ラルルでルウを買って帰ろう」
ラルルは近所の喫茶店。
ふつかめのおうちカレーみたいな濃厚欧風カレーを計り売りしてくれる。
家に帰って鞄を置く。
キッチンの上の棚からアルミの両手鍋を引きずりだす。
玄関に駆け戻って、靴下を脱いでサンダルをつっかける。
「おまたせ」
「鍋は俺が持とう」
「おねがい」
ボクは鍋の蓋を持たされる。
ドラクエだったら盾装備だ。
まだ明るい夕暮の街路を、ふたりで歩く。
これって同棲カップルみたいじゃない?
ちなみにボクの両親は海外赴任中。
塚田のご両親は共働きで、毎日帰りが遅い。
おつかれさまです。
というわけで、ボクたちはいっしょに晩御飯を食べる。
「『マッチ売りの少女』ってさ、よくわからなかったんだけど」
「何十年も昔の芝居だからな。社会そのものがいまとは違う」
アンデルセンの童話のはなしじゃなくて、別役実の戯曲のはなし。
初演は一九六六年、戦争への怒りを少女に託したんだってさ。
国語便覧を振りかざして部長が説明してた。
「七歳の女の子が、スカートをたくしあげて下着を見せたんだよね」
「男の声は、そう説明している。夫であり父でもあった男が、マッチを買った主体だと読める」
「さいあくじゃん」
「そうだな」
「ボクだったら、そんな男、ぶんなぐるね」
「ああ、それでいい」
塚田がうなずく。
「ボクは好きなひとにしか見せたくない」
「それがただしい。あたりまえのことだ。そうか、いるのか、美鈴」
「なにが?」
「好きなやつ」
「にしし。気になる?」
ボクは笑う。
「気になる。どんな男だ?」
「教えない」
「美鈴が好きになるんだから、きっといい男なんだろうな」
「おっと、誘導尋問はそこまでだ!」
塚田は肩をすくめて「やれやれ」と息を吐いた。
村上春樹の小説みたいに。
「腹が減った。おなかと背中がくっつきそうだ」
「はいはい。塚田が飢えた狼になっちゃうまえにカレーを買って帰ろうね」
◇◇◇
「ごちそうさまでした」
カレーを食べ終わったころには、時計の針は八時をまわっていた。
カレー皿やコップを食洗機に並べる。
「鍋は洗って明日返す」
「うん、ボクは帰るね」
「送っていこう」
「すぐそこじゃん」
ボクは笑う。
「それでもだ」
「じゃあ、お言葉に甘えて」
ボクんちは塚田んちのマンションと同じブロックにある。
サンダルをぺたぺた鳴らしながら、コンビニを通りすぎる。
ばちっ。ばちっ。
誘蛾灯に誘いこまれた虫たちが電撃に焼かれる。
「悪い虫だ。塚田みたい」
「君は光。僕は影」
『ベルサイユのばら』は二巻組の愛蔵版で読んだ。
塚田にも読ませた。
車のテールランプが通りすぎる。
塚田は、さりげなく左側を歩くタイプのマッチョだ。
「合宿さ、水着もってく?」
「しおりに持ってこいと書いてあったからな」
八月の第一週は、演劇部と合同合宿の予定。
「どんな水着がいいと思う?」
「美鈴なら、どんな水着も似合うだろう」
「短パンは穿くけど、ビキニ着ちゃおうかな?……」
「期待に胸がバンプアップしそうだ」
「乞うご期待だよ、ボクの腹筋に!」
「俺のほうがもっと割れている」
塚田はシャツ越しに大胸筋と腹筋をひけらかす。
ボクんちのまえに着いてしまった。
ボクんちは一軒家で、ひとりで住むにはおおきすぎる。
ぶっちゃけ掃除が面倒です。
「おやすみ、塚田」
「ああ、おやすみ」
塚田はじっとたたずんでいる。
「帰らないの?」
「帰るさ」
「もうちょっと、いっしょにいる?」
「ああ、いっしょにいよう」
ボクは玄関の扉を開ける。
塚田があとにつづく。
鍵を閉める。
サンダルを脱ぎちらかす。
「塚田ってさ、彼女いたことないよね?」
「俺は硬派だからな」
「硬派って……」
ボクは笑ってみせる。
かわいた笑みが夜に溶けていく。
冷蔵庫から麦茶を取りだして、グラスに注ぐ。
「はい」
「ありがとう」
リビングのソファーに並んで麦茶を飲む。
消灯したテレビに映りこむ塚田は、ボクの知らない男の子みたいだった。
「あの手紙の子、知ってる子?」
「直接、話したことはないはずだ」
「もう読んだげたの?」
「まだだ。ずっと美鈴といっしょだったからな」
「ふーん」
ボクと塚田はつきあってるわけじゃない。
約束なんてなにもなくて、なんとなくいっしょにいるだけ。
「あーゆーお手紙、よくもうらうの?」
どうしてかラブレターと口に出すのをためらってしまう。
「ときどきな」
「ボクはいちどもないぞ!」
「そりゃあな……」
「なぬ!?」
ボクは塚田の脇腹をつつく。
鍛えられた腹斜筋が、ボクの指を跳ねかえす。
こちょこちょくすぐろうとしたら、手首をつかまれた。
塚田があの子とつきあったら、この手があの子の手をにぎるんだ。
きっと、ボクとしないことだってしちゃうんだ。
胸がずきずきする。
頭がぐるぐるする。
「……塚田って童貞?」
「童貞だ」
答えた塚田の手を振りはらって、顔を近づけてにらみつける。
ぜんぶ、夏のせい。
傷つけてやる。
疵痕を残してやる。
「塚田、練習させてあげるよ。本番で失敗しないように」
ボクは支離滅裂で意味不明な戯言を口にする。
塚田は視線をそらして、みじかく息を吐く。
「美鈴が……そう言うんだったら、練習しよう」
「まずはキスから、ね……」
ボクは目を閉じ、顎をあげる。
でも、キスは降ってこない。
ボクは薄目を開ける。
困り顔の塚田と目が合う。
「キスしてよ、塚田……」
ボクとキスするの、いやなのかな。
恋愛感情がないから?
ボクたち親友だよね。
キスくらい、いいじゃん。
「美鈴、本当にいいんだな?」
ボクは答えず、目をつむる。
唇をつきだして催促する。
そっと唇がかさなる。
ちゅっと音を立ててみる。
ちゅっ、ちゅっ。コツをつかんだかも。
塚田の舌が、ボクの唇にもぐりこむ。
カレーの匂いがする。
ボクは塚田にしがみつく。
ぼーっとする。
塚田の唇が離れていく。
なんで? もっとキスしようよぉ。
「俺はさいあくになりたくなかったのに、な」
塚田が言う。
ボクはこてんと首をかしげる。
精一杯、無邪気にかわいらしく。
塚田に好きな子がいてもいいよ。
初めてはボクにちょうだい。
「帰る」
「へっ!?」
間の抜けた声が出た。
塚田の服の裾をつかむ。
いくなよぉ。
ボクを置いていくなよ。
「嘘だ。コンビニに行ってくる」
「なんで?」
「俺は準備が良くないからな」
「……部屋で待ってる」
ボクは手を離す。
ボクは鍵を渡す。
それから急いでシャワーを浴びた。
はみがきも、した。
◇◇◇
「おかえり」
「ただいま」
塚田はコンビニのビニール袋を提げていた。
ベッドのうえ、ボクはあぐらをかいている。
かちゃり。塚田が卓袱台に鍵を置いた。
伸ばした手にパピコの片割れを握らされる。
「ありがと。カルピス味だ!」
「カルピスは商標だから、乳酸菌飲料味と言うべきだ」
パピコを吸いながら、塚田はうすべったい直方体の箱の開封に手間どっている。
「塚田」
「なんだ?」
「塚田の好きなタイプって、かわいい系? きれい系?」
塚田が顔をあげてボクを見る。
「……きれい系だな」
「そっかぁ。ジャンル的にはボクでもけっこういい線いっちゃったりして……。あはっ、あははっ、調子に乗って、さーせん!」
怒っているような悲しんでいるような表情で、塚田がベッドに乗ってくる。
スプリングがきしむ。
こわれものを扱うように抱きしめられる。
びくっと、してしまう。
ぱっと離れていく。
泣きそうな声が聞こえる。
小学二年生以来、聞いたことがない塚田の声だ。
あのころの塚田はよく転んで、膝を血まみれにしていた。
ティッシュ入れに忍ばせた絆創膏はすぐになくなって、水道で洗ってかわくまで、ふたりでベンチに座ってたっけ。
おどおどして、ふわふわして、かわいかった男の子。
「美鈴、やめておこう」
「なんでだよぅ……」
「ふるえていたじゃないか。こわいんだろう、俺が」
「これは、違うよ。こわかったわけじゃなくて、そうじゃなくて……」
ふるえたのは、塚田がつらそうな顔をしていたから。
そんな顔をさせたかったわけじゃなくて。
だから。だから、ボクは。
「こわがってるのは塚田のほうじゃないの? 据え膳食わぬは、って言うじゃん」
「美鈴……」
低い声だ。この声はずるい。
男の子の声だ。
「うん、そのとおりだ。俺はこわがっている。正直に言うと、是非とも据え膳をいただきたい。しかし、俺は、そんなことを考える自分が卑怯だと思うし、美鈴に嫌われるんじゃないかとおそれてもいる」
ボクは塚田に抱きつく。
これを恋だなんて名づけたくない。
これは、もっとずるくてきたない、なにか。
「よわむし! よわむし、塚田! ぼんきっきなくせに!」
「美鈴……ガチャピンとムックにあやまりさなさい」
「ごめんちゃい。でも、キスはしてくれたじゃん」
「それは、美鈴があんな顔で……いや、言い訳だな」
ボクはかぷかぷわらったよ。
「つづけよう、塚田。練習を」
ボクは両手をひろげて塚田を誘う。
押したおされた。
のしかかられる。
抱きしめられて、抱きしめかえす。
ぎゅうっと抱きあって、たくさんキスをする。
夏の魔物に憑かれて、ボクたちはおかしくなった。
あいまいなままで置きざりにしてきた思いたちが復讐する。
目をそらしてきた情欲や性愛が、ボクたちを絡めとって深淵に引きずりこむ。
塚田といっしょにいられるなら、奈落だってかまうもんか。
それだけが、ボクが望んだかもしれないこと。