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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

センチメンタルハイ

作者: ヌヌヌ

イツキの場合


 私は父に認知されなかった。理由はわからない。母には父は死んだのだと聞かされていた。15歳の時偶然戸籍を取り寄せる機会があり、父の欄が空欄になっているのを知った。母を問い詰めたが、父は死んだの一点張りで話にならなかった。

 言葉にならない怒りと「自分は生まれてきてはいけない人間だった」のだという思いが、胸の内に芽生えた。

 私はこの問題を一人で抱えることにした。同年齢の男どもは、いずれも幼稚に見えたし、なによりこんなことを相談できる友達もいなかった。ヒステリックに否定する母を見ればわかる、父、いやその男は今も生きて、あるいは良心の呵責もなく人生を謳歌しているかもしれない。そんなことはどうでもいい、問題はなぜ私を捨てたかだ。

 

 自分は生まれてきてはいけない人間だった


 一度萌芽したどす黒い想いは、私を苛んだ。答えは出ない。だが私は決して自分で死にはしない、母とその男を殺してでも生き残るんだ。これが私の信念だ。

 最後の一人になっても生き残る、親殺しも辞さない。そう考えてからは恋愛も随分粗末なものに見えた。どの男も私を本質的に救うことなどできない。すがる男に向けて

「私には需要がない」と伝えたら、男は「そんなこと言うなよ」とさめざめと泣いた。私が泣いてないのにお前が泣くなよ、くだらない。


 17歳、平静を保っていた生活が一変した、生きる理由よりも、死なない理由を探し出したのだ。この二つは似ているようで全く違う。一方は生のベクトルをもち一方は死へのベクトルを持つ。

 理由は単純、いじめで、抑うつになったのだ。望まれて生まれて来なかった私が、殺してでも最後まで生き残るんだと心に刻んだ覚悟が、いじめごときで萎えるものか。

 しかし実際、体は正直だった。まず眠れなくなった、次に食事が取れなくなって風呂に入れなくなった。

 メカニズムは次の通りだ。睡眠をつかさどるメラトニンの分泌が減り睡眠がとれなくなる、徹夜でくたびれた状態で食事がとれなくなる、そして食事を摂らないことで、精神の安定に影響するセロトニンが生成されなくなる。ということ。

 人間は口から肛門までつながっているので、食事を摂らないと一気に胃が食事を受け付けなくなる。

 体が衰弱するとさらに心も弱った。死んでしまおうという希死念慮が亡霊のように、脳を支配した。換気扇の音がひそひそ声に聞こえる、車が迫ってくると血みどろに轢かれるイメージがよぎり動けなくなってしまう。その頃には生きることすべてに興味が失せていた、十日も食事を断つと、街の匂いが汚臭のようだ、蕎麦屋の出汁とバスの排気ガス、通りすがりの香水、思わずトイレに駆け込んで、胃の中を全部戻した、と言ってもほとんどが水と胃液なんだけど。

 何故だろう?あんなに生きることに固執していたはずなのに?

 最早、私には生きていてよい、美しいロジックなど存在しなかった。人生のリセットを望んだとき、「迷惑の掛からない自殺」「首吊りに相応しいロープ」「特殊清掃」「失踪」等、死に直結するワードが検索履歴に並んだ。

 うかつにそれを主治医に漏らしてしまい、即閉鎖病棟に入院させられることになった。なんの感慨もない。心身は衰弱しきっていた。

 点滴を打たれて臥したまま、それでもただあの男を殺すことだけが、魂の上でか細く燻っていた。


 治療は食事を摂ることから始まった、魚のフライ、白ご飯、わかめの味噌汁、五目煮、酢の物、献立は至って普通だった。

 しかし20日間食事を抜いた私の胃はその食事を受け付けなかった。次の食事からは5分がゆに卵スープという、いかにも病人食といったものが並んだ。食事は入所者全員でホールで食べることになっている、誤嚥などあった場合看護師の手の届かない状況は避けたいといったところだろうか。

 食べこぼしをしている老人、看護師にスプーンで食べさせてもらっているおじさん、お茶でぐじゅぐじゅ口をすすいでいる青年、彼だけは中年から老人が多い病棟において20代に見えた、精悍な顔つきは精神病には見えない。彼もまた病んでいるのか。

 他の患者にはジャンキー、犯罪者、クソババアと私はこっそりあだ名をつけた

 このほかに自殺企図を行うような危険な患者を閉じ込める保護室があったが、私はそこには入れられなかった。放っておいても自殺する元気もないだろいうということだろうか、満室だったのか通常の病室をあてがわれた。

 とはいえ売店に行くための外とのアクセスは看護師に付き添ってもらわなければならなかった。内側にドアノブがなく鍵がなければ開かないのだ。これは保護室も同じつくりのようだ、さらに言えば犯罪者のおっさんが言うには拘置所も同様のつくりであるらしかった。ようするに何しでかすかわからない奴って括りか。公的に軟禁を行うのにもメソッドがあるのだろう。

 自らの意思を行使することが制限させることは、多くの者には苦痛であるらしかった。私はベッドに横になっているだけで精一杯だっただけのこと。

 当初は売店への外出も許可されなかった。入院6日目、食事も通常のものに変わり、売店への外出が許された。早速、チョコレートを購入し、夢中に一気に食べてしまった。一週間前は死ぬことばかり考えていたのに、チョコレートの蠱惑的な甘さは一瞬で体を貪欲に産みかえた。


 いずれにしても、ここの患者達は、私の人生には無関係で無用に思えた。自販機でコーヒーを買おうとしたら、クソババアが滑り込んできて、おつり口に手を入れ、こちらをみあげてにっこり笑った。私は死ねよと呟いて踵をかえして自室に戻った。

 私にはマイナスから始まった人生を、建て直すという目的があったのではないか、なぜ軟禁されて珍妙な患者どもと生活を共にしなければならないのか。

 金を渋った母親のせいで四人部屋で随分イライラさせられた(後で措置入院は四人部屋となることを知る)

 午睡をとろうかと準備していたら、ジャンキーがやってきて、向かいのベッドに座った。男女区分けされている病室では明らかなルール違反だ、看護師に見つかったら保護室行きは間違いないだろう。

「お姉さん名前なんて言うの?」ベッドに名札がかかっているがいつきが読めなかったのだろう。

「イツキ」

「へぇかっこいいじゃん」といったジャンキー口の端からよだれが零れおちた。

「いけねぇ、ジプレキサをのんだからな」粗相の言い訳をしながらぼんやり天井を見上げた。ジプレキサの作用はわからないが、確かにふらついて見える。服薬の時間はまだのはずだが、どこかに隠し持っているのだろう。

「いい薬があるんだけど、やる?」

「キメセクとかそういうんじゃないからおれEDだし」といって笑った。

何処が笑うポイントだったのかは捨て置いて、とにかく私は、いい薬より回復することを一番に考えていた。こんな閉鎖病棟でどんないい薬が手に入るというのか。想いと裏腹に言葉は興味を示した。

「どんなの?」

「紙」

「まがって、哲学者になれる」

「よくわからないけど違法じゃないの?」

「大きい声でいうなよ」

 粗末に扱われてきた私が哲学者になれるなら、生きてよい理由も分かるかもしれない。安直に考えて「変なことしないならいいけど」生来の好奇心が悪い方向に向いている、それはわかっている。生きるとか殺すとか、極端な割に意思が弱くて面白い方に流されるのだ。

 ジャンキーは少年漫画誌を取り出すと、「128P」とつぶやいて、隅っこをビリッと破った。そしてそれを口に放り込むと、同じようにちぎった紙片を私に渡した。

「舌の下に入れて溶けるまで待つ、舌下という」

 偉そうにレクチャーするジャンキーに大人しく従った。

「効くまで長くて1時間くらいかな、効き目が切れるのが4~10時間、効きが長いけど、薄めにしといたから、それから効きはじめるまでに食事はあまりとらない方がいい弱くなる、まぁパニック起こしたらナースコールじゃなくて俺の部屋においでよ。効き目を落とす薬がある」

 ジャンキーは早口でまくし立てると、どこかへ行ってしまった。

紙状のこれがLSDであることは私にもわかる。吐いてしまおうかとも思ったが貴重な体験もまた甘美にみえた。

「閉鎖病棟で違法薬物……」LSDの効果でもないだろうが、なんだかくだらない世の中に一矢報いたような気がして笑ってしまった。

 しかし少年ジャンプに染み込ませた違法薬物で、ジャンプってダジャレにもなっていない。自分がニヤニヤしていることに気づいた。しばらくするとそわそわしてきた気がして、ベッドに寝転がった。

 と不意にカーテンから漏れる陽の光が、ゆらゆら輝いて見えた。ペットボトルを掲げて振ってみると、水に反射した光が美しく残像を引いて見せた、ラベルをはがしてペットボトルを眺めた、クリスタル状にカットされたペットボトル、その中で波打つ水、乱反射する光彩、こんなに美しいものが、この世にあったのかと感じた。その態勢のまま光を見ていた。

 やがて天井がうねりだし、光を吸い込んだかと思うと、極彩色の紋様がみえた。「うわ、なにこれ、最高」思わず口に出していた。心は軽やかで楽しくてしかたない。この瞬間は死のうなどとは微塵も思わなかった。


 やがてジャンキーの言う哲学の時間がやってきた。どうして私は顔も知らない男にここまで固執するのだろうか。父と母は愛し合っただろうか、それとも一夜の間違いだったのだろうか。それとも本当に父は父ではなく、どこかの違う男が父なのだろうか。そうなったら詰みだな。

 そんなことまで思わせるほど、母の態度は度が過ぎる。ただの戸籍の名前一つじゃないか、どうせ分与する金もないだろうに。私はただ一言、「お前が産まれてくれて嬉しかった」という言葉が聞きたいのだ。

 例え裁判でDNA鑑定を行っても、その言葉を聞くことはできないだろう。「神はその人に乗り越えられない試練は与えない」というが本当に神がいて、この難問を与えたのだとしたらその意味はなんなんだろう?

 この悩みを何人かの友人に話した、彼女らは口をそろえてそんなこと、気にしなければよいと言った。

 捨て子の場合、市長や県知事が戸籍の名前に入るそうだ(本当かどうかはわからないけど)私は捨て子よりも粗末に扱われている。たまらなく腹が立つ。私の賢者はあまり頭がよくないようだ。あまりにも認知のことに固執しすぎる。宇宙の誕生やなぜ人は死ぬのかといった命題を突き詰めたかったのに。

 そこまで考えて素晴らしい考えを思いついた、病棟は8階、周囲は山並みと晴れ渡った空がみえるだろう。グズグズ考えていないで風景をみよう。私は病室を駆けだした、果たしてそれは思ったよりも、ずっと素晴らしいものだった。青く澄んだ空には雲一つなく、曼荼羅が浮かんで回転している、山並みは色づいて紅葉が重なり合いそれがうねうねと伸び縮みした。それが曲って混ざる。あまりの美しさに思わず息を飲んだ。

「これはやべぇな」いつの間にかジャンキーが隣に来て風景を見ていた。

もし同じ風景をみているなら、この世界は二人だけのものだ。

「すごい」私も賛同した。


 やがて消灯の時間となった、気分は高揚しているが看護師に気づかれるわけにはいかない、幸い抗不安薬が処方されていたため、暫くして落ち着いてきた。

 そういえば、「お前ワイパックスでてるだろ、それで落ちるからやばいと思ったらナースステーションでワイパックスもらえばいいよ」とジャンキーが言っていったっけ。


翌日ジャンキーはしゃべりにしゃべった

「結局脳なんだよ、LSDはドーパミン受容体やアドレナリン受容体と結合する、セロトニンもな、このセロトニンが頭の中で幸福をもたらすわけだ、セロトニンの作用を阻害することで幻覚がみえる。全部脳で行われてることなんだ。

ワイパックスはGAVAA受容体という脳の神経と神経の情報を伝える役割のある物質の活動を抑える作用がある、だからLSDで上がった状態を下げてくれる。まぁワイパックスみたいな落としはお薬遊びには必須なわけ。

 とにかく、お前は昨日素晴らしい体験をした、それは脳の中で起こっていることだ、薬さえ切らさなければこの世は天国だよ、キメセクやればそのすごさがわかるよ、まぁLSDは音に来るからクラブで使うものだけどな」


 何を言っているのか全く分からなかったけど、私を襲わなかった点だけは評価してやろうと思う。

 ホールでジャンキーの講釈を聞いていると、4人部屋から詰問する声が聞こえてきた、犯罪者が女性部屋にいたという、退所にされてもおかしくないところだが、窃盗などはなかったということで、保護室入りが決まった。

 私はできるだけここと外の関わりを切りたくて、入院者の名前を覚えないようにしている。犯罪者は50代ででっぷり太ったおじさんだった。「君将棋はできるか?」と聞かれて「できません」と不意に嘘をついた、その返答を受けて「僕はね、もうじき判決が出るんだ、そうしたらまた別の病院に転院するんだ」と言った。犯罪者は10代のアイドルのTシャツを着ていた、年端もいかないアイドルの子が1000万の束を持っている。横領あたりだろうなと思いながら、こうして搾取の円環は成立しているんだろうと感じた「それは寂しくなりますね」と無難に会話を切った。「売店でほしいものがあったら何でも買ってあげるよ」どうやら院内で私はアイドルの代わりということらしい。とても迷惑だ。


 措置入院だった私は決められた通り、きっちり2週間で退院することになった。母との同居を進められたが、まっぴらごめんだ。私は久しぶりに我が家に帰って、西日に舞う埃のキラキラするのをぼんやりながめていた。「死ぬには惜しい美しい世界か」独り言を呟いた。

 希死念慮が高まったとき友達には暴言を吐いてみんな切ってしまった。そうしたほうが私が死んだあとせいせいするだろうと考えたのだ。

 所有しているものは売るか捨てるかしてしまった、身辺整理だ。こうして人と物のつながりを断っていくのは案外気持ちのいいものだ。

 あとは首を吊るための、ぶら下がり器、排泄するということで大人用のおむつ二枚、ロープはSNSで推奨されているものをホームセンターでそろえ、縛り方も入念に試してみた。首が閉まると舌が飛び出すというので、タオルと布ガムテープ、同様の理由でアイマスク。これで私は完ぺきに死ねるはずだった。


 数か月経ったころジャンキーから連絡があった。院内でも連絡先を交わしたのはジャンキーだけである。出し抜けに「お前暇だろ、いいところがあるんだ海べりの別荘、いかないか?」傷病手当をもらって寝ているだけの私には魅力的な誘いに思えた。しかし、鬱がひどくなったら動けなくなってしまうという懸念もあった。

「その時は車で医者まで運んでやるよ」こともなげにジャンキーが言う。

「薬中が車運転していいの?」

「俺運転はうまいんだよ、どんな幻覚もスイスイ避ける」逆に怖いわ、という言葉を飲み込んだ。

「いいよいつ?」

「今家の前にいる」

「何で知ってるの!?」

「L(LSD)やった時自分でペラペラしゃべってたぜ」


そして二人は、ボロボロのビートルに、荷物を押し込んで一路海を目指した。


「どのくらいかかるの?」不安を覚えて私が聞く、迂闊に車に乗ってしまったが、犯罪組織に拉致されているとも考えられる。よく考えば軽率だった。

「まぁ2時間?」タバコをくゆらせてジャンキーが答えた。

次第に景色は寂しくなり寒村といった風情が出てきた、進行方向右手に海が見えた、テトラポットもない真っ新な砂浜だ。

「こんなところが東京の近くにあるなんて」

「な、ちょっとすげーだろ?」

車はボロ小屋のガレージに収まった。

「家の裏に行こう、すぐそこが砂浜なんだ」

そこは砂浜どころか波打ち際といってよいほど、海が近かった。

「すごい」


一旦家にはいると、海に面したところに長椅子と缶ビールをセットした

ビールは冷たい塊になって喉を落ちていった、うまい。

「本当は草の方がいいんだけどな」

「草?」

「マリファナのことだよ、まったりできる」

広大な海と潮騒の前でマリファナという響きは場違いに思えた。

「Lあるけどやる?」

「L?」一度はスルーしたがやるかと言われれば、確認しなくてはならない

「LSD」

「やる」

 海は夕暮れ、やがて来る暗闇を暗示していた。

 ジャンキーはピリッと紙片を破って渡してきた。

「ジャンプじゃないの」

「こっちが本当の姿だよ、効いてくるまでもう少し飲もう」

 哲学者になれるというより、神に出会ったとまで思わせた薬、これが全部脳のなかで、電気信号を飛ばして見せているなんて信じられない。

「街灯一本ないのに日が暮れたら真っ暗になるんじゃないの?」私は素直な疑問をぶつけた。

「LSDは音にもくるんだ、外に出たら真っ暗だけど家の中にいれば平気さ」

 夜が来る前に薬が効いてきたようだ。うねる波が夕焼けを反射している。

「これが美術品なら大変な値段がつくな」ジャンキーにしては詩的なことを言う。

感心しているとあっという間に真っ暗になってしまった。潮騒だけが聞こえ、不安を搔き立てる。

 先に家に入ったジャンキーはベッドに寝転がって天井を見つめてケタケタ笑っている、天井がグルグル回転するのが面白いらしい。

 私は潮風に吹かれながら海と正対して考えを巡らせていた、いじめをうけたのも戸籍に父の名前がないからではないかと思った。私は私自身を肯定できたら、くだらないやつらの餌食にならずに済んだんだ。私は私の運命に仕返ししなくてはならない。父を殺す、母を殺す、いじめっ子を殺す、私が苦しみもがきながら戦っているさなか、奴らはずいぶん愉快そうだった。潮騒も聞こえない程に不穏な思いは頭を駆け巡った。

 そして一つの答え、四人も殺すなら私一人が死ねばいい。その方がバランスが取れている。神がいるとすれば四人の殺人より一人の自殺を赦すのではないか。

 その時足に波がかかった。海の水はいまだ生ぬるかった、辺りは暗く海はそこに海があるであろうことしかわからなかった。不意に海水がかかってそうだここは海なんだ、と気が付いた。一歩一歩歩みを進める、積極的に死のうというのではない、海に還ることが魅力的に見えただけなのだ。私は嗚咽を漏らして泣いていた。この星に私の居場所はない。こんな美しい星なのにどこにも私の居場所はない。そう、自分は生まれてきてはいけない人間だった


 海は私を包んでくれる、腰のあたりまで海水に浸かると、波の満ち引きに翻弄されるようになってきた。暗闇の中に化け物が見える、星々がぐるぐるまわってみえる、LSDのせいかいよいよ私の脳が狂ってしまったのか。

 海水を飲み込むような深度になって、全身から震えが来た


-本当に死ぬの?それでいいの?


 暗闇の中に怪物の姿が見える、白い着物を着て、異様に長い指をした老女だ、おいで、おいでと手招きする。

 これが彼岸なのだろうか、老女にたどり着ければ私は死ねる。いこう。このままいけるところまで行こう。


 不意に後ろから抱きしめる手があった

「なにやってんだよ、あぶねーだろ」ジャンキーだ、彼もまだフラフラなはずなのに助けに来てくれたのか。

「はなせ!はなせ!」私は叫んだ。

「いやだ!」ジャンキーも叫んだ。

 押し問答をしているうちに波打ち際まで引き戻されてしまった。

 それからのジャンキーは、押し黙って何も聞かず風呂を沸かしてくれた。

服はシーツをまとい、濡れたものは海風であっという間に乾いてしまった。


「バッドにはいっただけだよ、薬が悪夢を見せる、コレ」

「なに?」

「デパス、落としだよ、今日は落として寝てしまおう」


 私たちは、それからもぐずぐずと海の家にいてお薬遊びを続けていた、LSDとマリファナを主に嗜んだ。LSDはあっという間に耐性がついてしまって、あの獄彩色の曼陀羅を見せることも哲学者が現れることもなくなってしまっていた。その点マリファナは、まったり海を眺めるのに相応しい。

 さざ波が歪んで聞こえる。薬はジャンキーの子分という背の小さな男が無言で届けてくれた。幸福と愛のドラッグといわれるMDMA、セックスをしたら二度と人間に戻れなくなるという、日本で最も流通している覚醒剤は届かなかった。まぁ、海を眺めて覚醒剤でバキバキになってもしょうがないか。

 この頃になると積極的にジャンキーから、薬についてのことを聞くようになっていた。

 なぜかジャンキーは私の体には手を出さず、ひたすら薬を与え続けてくれた。理由はわからないが彼なりのポリシーがあるのかも知れないし、単に私に魅力がないだけかもしれなかったし、EDというのも冗談じゃないのかもしれない。


「今日はうまいものを食おう、臨時収入が入った準備するからマリファナでもやっておけよ。」唐突にジャンキーが言った。

 それは市で仕入れてきた新鮮な魚介だった。カンパチや大トロの色とりどりの刺身にズワイガニ、イクラ、ウニを箱ごと。これはウニイクラ丼にするのだ。

「わぁ!」思わず柄でもなく喜々と感嘆してしまった。

「うまい」「うまい」バカになったみたいに繰り返した。大トロやカンパチなどの脂身の多い魚が特に美味しく感じた。あとで知らされたがマリファナには、食べ物を美味しくする効果があるそうだ。

 それならピザでもお菓子でもなんでもよかったわけだ。新鮮な魚介がもったいないと思ったが、それ以上に美味しかった。

 それからもマリファナ、マリファナ、マリファナ、マリファナ。浮世の生活を忘れるほどにドラッグの生活にはまっていった。


 ある時ジャンキーがマリファナをくゆらせながら不意に言った「お前の親父さ、俺が殺してやろうか?」唐突な提案に躊躇していると、ジャンキーはもう一度言った「殺してやろうか?」

「…いい、殺すなら自分で殺す」予想外の提案に怯んだけれど、これは私の本心だった、生まれていけない人間が、それを覆すには、自分自身でその原因を排除しなくてはならない。

「そっか、俺はさ人殺しの境界を越えたいんだよね」

「なにそれ、ジャンキーはただの薬中にしか見えないんだけど」

「理不尽な理由で暴力を振るわれるところを嫌というほど見てきた。暴力同士でしか繋がれない関係もある。だから俺は暴力を否定してない。屁理屈こねてる前に殴り合った方が早いし、それからの関係は深くなる」

「それはジャンキーの周りが不良少年ばっかりだからでしょ、喧嘩がコミュニケーションみたいな」私はなるべく軽く返した。だが、ジャンキーはなにか大切なことを言うつもりらしい。

「俺は殺したい奴がいる、お前の親父はついでだ」

ジャンキーの話に熱がこもる。

「あんまり思い詰めないでよ。薬はいいけど殺しなんて冗談じゃない」

「俺は暴力が怖い、殴られたらすぐにカッっとなって止まらなくなる、だから俺は俺を変えるために、本当に殺す必要があるんだ」

「私の父親のことに深入りしないで、他人に殺されたなんてなったら私一生救われない」「...そうか、わかったよ」

間を開けて拗ねたようにジャンキーが呟いた。


翌日


「きょう東京に帰る」唐突にジャンキーが言った。

「わかった」

 海の中で賢者が現れたとき、私には一つの考えが閃いていた。

私は生きるべきではなかった、なのに生きてしまった、生きるべきでなかった人間と、幻聴が苛む、マイナスから始まった人生ならプラスに戻せばいいんじゃない? 神がそう言っているなら、神が薬の形をしているなら、それはそれで構わないだろう。

バカな考え方なのはわかっている、ドラッグが脳で起こした幻影で人生を決めようとしている。でもシナプスと電気信号が私のすべてならば、あの夜の幻影もまた真実なのだろう。本当は薬の力なんか借りたくない。

でもそうするしか私には、いい案が浮かばなかった。


窓を開けて潮風にあたりながらボロのビートルは品川に着いた、「家まで送るよ」とジャンキーは言ったが、断った。

「こんなやかましい車近所迷惑だわ」

ジャンキーはクスっとわらって、車を出した。


 それからの私の動きは速かった、母の荷物を丹念に探って父の名前を調べた。藤田健、案外地味な名前だなと思った。

 電話帳で電話番号を調べ、藤田姓のハンコを買った、凡庸な名前のため三文判を買うことができた。それから住民票を取得し、法テラスで弁護士に相談した。弁護士は若く誠実に見え、私の話を丁寧に聞いてくれた。まぁそりゃ仕事だもの当然か。

「親子の事実があるかどうかは別にして、DNA鑑定を行えばほぼ100%白黒つけることはできます」

「向こうがDNA鑑定を拒否したらどうなりますか」私はそれだけが心配だった。DNA鑑定を拒否されたら全ての計画がフイになってしまう。

「基本的に拒否はできません、協力的でない場合、被告は非常に不利な状況で裁判することになります」

「私は母も父である男も誰の言葉も信じられません、科学的に父母の間に、何があったかを知りたいんです。DNA鑑定が拒否されたら困るんです」

「いずれにせよ訴訟してみないと判らないことですから…」

「では訴訟を起こします、よろしくお願いします」

「それでは手付金について決めてしまいましょう…」


 こうして訴訟は始まった、私が法廷に立つことはなく、法廷には弁護士が立ち被告人に尋問する形になるようだ、細かくはわからないが、私が藤田と直接会うことははさそうだ。藤田の顔を見られないのは少し残念な気もしたが、不安定な自分の状況を鑑みても、ここは弁護士に任せるのが一番良いのだと思った。

 幾度かの公判を経ているが、藤田は弁護士をつけずに大人しく出廷しているようだ。はたして勝算があるのだろうか。

 弁護士任せの訴訟だったが、一度だけDNA鑑定を行うため裁判所に呼び出された。藤田、母、私の3人の粘膜を採取するのだという、これも藤田とは別室で行われ、直接会うことはなかった。この時点で、どのような結果が出るにせよ私の望みは叶った。

 母のしょげ返った顔は、見ていられなかったが、私はこれさえも母の芝居だと熟知している、こうして人の同情を買おうと、くだらない芝居を打つのだ。こういう人物だからこそ、藤田との間に何があったのか。疑い深くなるのは仕方のないことだと思う。

 果たしてDNA鑑定の結果は、陽性で99.9999%娘に違いないことが判明した。後日談だが法廷で藤田は「00.0001%違う可能性があるじゃないか」とゴネて、裁判官に烈火のごとく叱られたらしい。訴訟の顛末事態には満足だが、あのキチガイの血が、私の体を廻っているのかとおもうと嫌悪感で吐きそうになる。あんな馬鹿に振り回されていたのかと思うと虫唾が走る。

 しかしこれで私は生きられる。


”私は私に望まれて生きることができるのだ”親族がどのようなクズであれ、私の生を望むのが私自身であるかぎり私は自律的に生きることができる。

 マイナスから始まった私の人生をプラスに変えよう。一夜にして私の思想は、うって変わってしまったのだ。


・ジャンキーの場合


「あいつでどうだ?」金田が声を潜める、俺たちは壁からのぞき込んで、男を見つめた。 スーツに身を固めた中年太りが、ビジネスバッグを下げている。いかにも風采の上がらないビジネスマンといった感じだ。

「楽勝だろ」ジョーがその案に乗る。

 その言葉を切欠に、金田、ジョー、ヤンク、俺は中年男に襲い掛かった。いつもどおりジョーの背中への飛び蹴りが決まると、中年男はだらしなくつんのめって地面に転がった。俺がバッグをひったくり、金田がポケットをまさぐっている。

 ジョーとヤンクは何度も男の腹と背を蹴りあげている。その度に情けないうめき声が漏れた。目当てのものを見つけた金田が「てっしゅう~」とおどけて言うと、俺たちは全速力で逃げた。俺たちの中でおやじ狩りはもはや遊びの一端になっていた。

 財布の中身はクレジットカードに現金が3万円、運転免許証まぁまぁといったところか。収穫に沸き立つメンバーを他所に、俺は嗜虐心に酔っていた。男のひしゃげた顔、だらっと垂れたビジネススーツ、涙ながらに許しを請う声、あのサラリーマンをもっと殴りつけたい。

 俺は暴力がたまらなく恐ろしいのだ。暴力は一度行使すると、際限なく強力になり、躊躇しなくなる。

 トラック運転手の父親は、遠方から帰って来ては鬱憤晴らしに、俺と弟を殴った。遠距離トラックで数日置きに帰ってくるのがせめてもの救いだった。しかし俺は殴られることより暴力を行使することのほうが恐ろしかった、いつか人を殴り殺してしまうのではないか、という恐れが頭の中について回った。

 暴力に関しては、容易に暴力を行使できるものと、そうでないものがいる。俺は自分が感覚的に前者であることを感じていた。根拠はないが、暴力を目の当たりにしたり、痛みを感じた時。プツンと張り詰めた糸が切れる音が聞こえる。親父に殴られている間、俺がこらえられなくなって、手を上げたら殺すまで止めない気がした。

 唯一父親が弟に手を挙げた時だけは、頭が真っ白になって親父の襟をつかんだ、次の瞬間には頭突きを入れていた、鼻の曲がるゴリッという音が頭蓋越しにつたわってきた。鼻血を噴き出して仰向けにぶっ倒れた父親に、睾丸がつぶれる角度を狙って股間を思い切り蹴り上げた。親父は失禁し悲鳴を上げてながら別室に逃げ込んでいった。

 その日から俺が家で、カーストの最上位に立った。とどめの出刃包丁を手にした俺を、弟が止めに入らなければ、次は目を潰すつもりだった。胸の内には真っ黒な大蛇のような歪な形をした達成感がのたくっていた。

 この一件で、自分の内にある嗜虐性は、封印したほうがよいと考えた、15歳で少年院は勘弁願いたい。

 この衝動性を抑えるために、友人の家を転がり歩く生活を始めた。


「3万かどうする?」ヤンクが息を切らせながら聞いた。

「カラオケっしょ?スロ行くにも足りないし」金田が答える。

「もう一人いこうスロやりたい北斗が俺を呼んでるんだよね」ジョーが提案する。

「なにそれ、タケは?」ヤンクが俺に尋ねる

「俺はなんでもいいよ」俺は未だ暴力の余韻から抜け出せないでいた。

「じゃもういっちょいきますか」反論を唱える者はいなかった。耐性がついてしまうというのも、暴力とドラッグは似ているだろうか。

 とにかく俺はドラッグをキメればそれでよかった、シャブ、コカイン、MDMA、ヘロイン、マリファナ、合法ドラッグ、とにかくこの世界から連れ出してくれるドラッグ群は、俺にとっての救世主だった。後にジャンキーと名乗るのも異常なドラッグへの執着によるものだ。

 シャブなどは、幸せの前借りなんていうけど、死ぬまで借り続ければそれでいいと思っていた。その為にプッシャー(売り子)という最前線に立つ役割の一つ上、プッシャーを束ねる役に付いていた。そうして多少のドラッグは自由に都合がつくようになった。


 物思いに耽っている間に次の仕事場が決まったようだ。

 先の駅への通り道になっている公園は避け、もう一つの公園に場所を移した。早朝である、虚ろな目をした社畜が通る穴場になっている。通り魔に注意のポスターも空しい。幾度もおやじ狩りを行ってきたが一度も見つかったことはなかった。場所を変え、時間を変え巧妙に行っているので失敗するわけがないと軽く考えていた。暴力も腹を蹴るだけに留め極力証拠を残さないようにしている。俺たちは完全に慢心していた。

 物陰にしばらく息をひそめているとスーツの男が通りかかった、ここはストップだ直感が俺に命じる。「こいつはヤバイ」その言葉が届く前にジョーが飛び出した。やるしかなさそうだ。スーツの男はジョーの蹴りを食らっても倒れなかった、向き合った男は素早い動きで大外刈りをかけた、もろに地面に転がってうめき声も出ないジョーを見て、俺達はそれぞれに考えた、このままジョーを捨てて逃げるか全員でかかって柔道の達人を倒すか。

 男の動きは武道の修練を収めたもの見えた、四人くらい簡単に投げてしまうだろう。そして何より金田がポケットを弄っているのが気になる。

 あそこにはバタフライナイフが入っている。護身用だと嘯いたが使い慣れない武器など持ったところで邪魔になるだけだ。

 ジョーが捕まっても恐らく、俺たちのことは話さないだろう、そういう家族より強い結束のもとに俺たちはいる。証拠もない、今なら背中を蹴っただけのお遊びで許される可能性もある。全員で掛かったら、一連のおやじ狩りの全貌が明らかになって、俺たちは間違いなく少年院に放り込まれることになるだろう。考えろ。ジリ貧じゃないか。金田がナイフを出したらそれこそ終わりだ。

「すみません!!友達と間違えたんです!」ヤンクが駆け寄りながら叫んだ。

「友達と間違えた?そうかそれならしかたないな……このところのおやじ狩りお前らの仕業だろう」

ヤンクの顔が引き攣る「僕たちそんなん知らないですよ」

「おい、そこの」男が金田に向き合った「そのナイフ何に使うのか知らんが、銃刀法違反だ、刺したら殺人、死ななくても殺人未遂、割の合わん得物だな、持つなら丸太でも持っとけ、傷害致傷で済むかもな」

金田がポケットのバタフライナイフを弄ぶのを止めた。

「非番だから見なかったことにしてやるが、もうこの一帯でおやじ狩りできると思うなよ」男はそう言うと踵をかえして立ち去った。

「ポリかよついてねえ」ジョーが嘆息した。

「お前の蹴り全然効いてなかったじゃねえか」ヤンクがからかう。

「俺が弱いんじゃないの、あいつが強すぎなの」ジョーの言い訳を遮って俺は言う。

「アイツに行ったのはまずかった、スーツで隠れてたけどごっつい体してたからな」

「カラオケ行くか~」ジョーが情けない声を出した。

 金田はまたバタフライナイフを弄っている。俺は金田がいつかそれを使ってしまうのではないかと気が気でなかった、光沢を帯びたそれは、果たして金田の心の底の嗜虐心を刺し殺すだろうか。暴力は一度振るったら、二度目はよりその線を超え易くなるものだ、それを容易に行使するようになり、またエスカレートする。

 俺は怒りを飼いならさなくてはならないと思っていた。俺には弟という守らなければならない存在がいる。


 俺たちはそれからもおやじ狩りをつづけ、高校も一年でダブってしまったため、全員そろって放校になった。これで晴れて反社会人デビューしたことになる。ヤンクとジョーは特殊詐欺の受け子までやるようになっていた。全員が似たような状況だが、俺たち自体の結束は未だ固かった。

 俺はこの頃にコカインに出会って、その多幸感に夢中になっていた、粉状のものをクレジットカードや剃刀で一筋に揃え、紙幣を丸めて鼻から吸引する、鼻孔の粘膜で摂取するわけだスニッフともいうが、その行為そのものも背徳的で嫌いでなかった。

 コカインは作用時間が30分程度と短い、短いがゆえに連続で使用する、耐性が付くのも早いわけだ。ひどくなると粘膜が溶けて鼻の中隔に穴が開くらしい、ズルズルと鼻を垂らしながら、俺はそれでもかまわずコカインを吸いまくった。

 ともかく俺はこれが切っ掛けで、名実ともにジャンキーになったのだ。

 その頃の俺は真っ当な仕事などするわけもなく、地回りから任されてプッシャーをやっていた。飯屋の宅配BOXに美味しいお薬を入れて背負い、ロードバイクで東京一帯を駆け巡っていた。1日5万程度にはなったが自分が使う量を引くと足りなかった。金欠の俺は、仕方なく売り物を拝借してぶっ飛んでたわけだ、バレたらただじゃすまないがジャンキーにはピッタリの仕事ってわけだ。

 プッシャーの仕事ではシャブとマリファナがよく売れた。オレペンという注射器も売れた、シャブにせよヘロインにせよ静脈注射が一番早く強く効く、オーダーはひっきりなしに入った、シャブで景気をつけて仕事をするのだろうか。売りながら、その客の生き方も、会社の構造も狂ってるなと思った。

 まぁ俺が言えた義理ではないが。


 プッシャーをやって数か月がたったころ、違法ドラッグの供給元、前田がやってきた。前田との関係は、ビジネスパートナーといったところで、俺は手下になったわけではい。ジャンキーである俺と薬を売りたい前田の利害が一致したというだけだ。


「ドラッグのショップを渋谷で開くからお前面倒見ろ」

「イリーガルを渋谷のど真ん中でやるんですか?前田さん狂っちゃたんですか?」

「合法だよ、5meo-dipt、ややこしいから米だ」

「そりゃ米はうまいですけど」

「百姓やるんじゃないんだよ、今の合法ドラッグはシャブより強い、合法だから道玄坂のショップで若者を釣れる、捕まる心配もないから、ネット販売、宅配、手押し、店舗やれることは全部やる。規制がかかるまで一気に売るまくるぞ、新宿にも出す、波がきたんだ、乗るぞこの波に」

「波っすか…」

「1パケやるから試してみろ、エロにガツンとくるからAVでもみてみろ」

俺はコカインがあるんでと言いかけて慌てて口を閉ざした。

「いや俺はいいですよ」

「バカヤロウ、売り子が商品のこと知らないでどうするんだよ、依存性もないから安心しろ」

「はぁ」

「ただ量がシビアだから電子測りでキッチリ測れよ、死ぬぞ、あとこれ」


さらに前田は黄色いラベルの、小ぶりな瓶を取り出した。

「Rushだ、揮発するガスを鼻から吸え、吸ったら限界まで息を止めろ、間違っても液体飲むんじゃねえぞ」

ペリペリとラベルを剝いて渡してきた。Rushはツンと溶剤のような匂いがした。シンナーはヤバイといいかけると。

「シンナーなんかと違って脳が溶けたりはしねーよ」

俺はRushを鼻元に持ってきて吸ってみた。

「そうじゃない、鼻の片方を塞いでもう片方で強く吸うんだ。限界までだぞ」

言われるとおりにした、途端に鼓動が早くなった、全速力で走った後のように鼓動が早くなり脈々と頭に血が上っていく感じがした。暫くするとそれも収まってしまい、これの何が面白いのかは、さっぱりわからなかった。

「こんなのが売れるんですか?」俺は素直に聞いた。

「他愛ないもんだが、ゲイの間でバカ売れよ、ケツが緩んで気持ちよくなるってな」

俺はこれで一儲けしてフィリピンに移住するつもりだ、フィリピンはいいぞぉお前も来るか?」

「いやぁそれは考えさせてもらいます」


 俺は米をためしてみるためラブホテルに入った、家にはアル中の父親と弟がいる、集中できるラブホテルが最適だろう。ついでに道玄坂のショップも見学してきた。


 早速、米の量を測って、カプセルに入れローションをつけて肛門から挿入した。やがて、歯のくいしばりがはじまり、つけっぱなしのAVから目を離せなくなった、それほど美人とはいえない女優が2人の男を相手に、愛撫されている。

 自分もローションを塗って同じように愛撫してみた。途端にビリビリと前立腺に向かって快感が走り抜けた。もう画面から目が離せない、画面内で犯されているのが女優なのか自分自身なのかどうかわからなくなってきた。女が喘ぎ声を上げるたび俺も喘いだ、男優が女を突き上げるたびに肛門の奥、前立腺に快感の波が襲ってくる。イク、、しかし射精はしなかった、ビクビクと直腸が蠢く。俺は部屋に添え付けのペニスの玩具を買い、慎重に挿入してみた、きつくて入らない。

 Rushを取り出し吸い込んだ、肛門にあてがっていた玩具の亀頭が徐々に飲み込まれていく。画面では女が一方の男に激しく突かれ、もう一方の男には口淫を強いられていた。俺はすぐにもう一つ玩具を買い、肛門と口を交互に犯した。女優と完全にリンクしていることにとてつもない快感を感じた。「気持ちいいのか?」男優が問う「はぁい」口がふさがれているため間抜けな返事しかできない。俺も「はぁい」と答えた。脳の中に女優が直接語り掛けてきた(気持ちいいね、気持ちいいね、気持ちいいね)俺はそれのすべてに頷きながらうっすら涙を流していた。何度イッただろうか最後は咽喉の奥でイッてしまった。

 3-4時間で、落としがいらないほどに爽やかに5meo-diptは切れた。とんでもないドラッグがでてきた。射精でもない強烈な快楽に翻弄されて米の初体験は終わった。後にポン中ですらエロには米のほうが断然気持ちいいといわれたくらいのものだ。


 斯くて俺は渋谷のエロドラッグ屋の店長になり、合法ドラックを売りさばくことになった。

 果たして合法ドラッグは売れに売れた、原価も安くパケに詰めて並べるだけでじゃんじゃん金が入ってきた。頭のねじが外れてるようなイッている奴から、若いアベック、サラリーマンまで、さまざまな人間が罪悪感なくドラッグを買い求めた。

 作用時間が3時間程度というライトさがよかったのだろうか、客が途絶えることはなかった。

 だが東京ではドラッグなくして生きられない、そういう人間が多いというのも事実だろう。

 エロに効くもの、クラブでつかうもの、まったりするもの、商品も増えて多様性とともにますます儲かった、そろそろ店じまいしてもいいんじゃないかと思っていた矢先。

 事件が起きた。ゲイが10倍量の5meo-diptをパートナーのケツに仕込んだのだ。

 ウケは肛門にドラッグを入れられても分からない。微量で作用する5meo-diptを10倍仕込まれても全く気付くことなく受け入れてしまうだろう。

 警察はすぐさま規制にはしった、ついでにRushまで規制されたのは納得がいかないが、

 5meo-diptは表舞台から姿を消す。しかし化学式を変えた模造品がすぐに発売された。それは副作用がより強い性質の悪い薬となった、3日連続ぶっ飛んで落ちないような粗悪なドラッグは歴史の表に出ないだけで多くの人間を廃人にあるいは火葬場送りにしたことだろう。

 それでも次から次へと新種の合法ドラッグは出てきた。化学式に一つナトリウムを足すだけで、違う薬として扱われる現状では、取り締まる方もどうしようもなかった。

 2C-I、メチロン、3-FPM、もはや何が入っているのかわからない。危険な状態になっていた。俺自体ももう合法ドラッグは止めていた、そしてドラッグが原因で事故も起きるようになってきた。ニュースにも取り上げられ、合法ドラッグは危険ドラッグと名称を改められた。

 そして2013年包括指定が交付される、いたちごっこになっていた合法ドラッグをまとめて指定薬物にできるというものだ。合法ドラッグが死んだ瞬間だ。

 前田とともに規制がかかったドラッグを山林に捨てに行った。あれで一生分多幸にすごせるのにと思いながらスコップで穴を掘った。規制がかかる直前に警察に届ければ問題ないのだが、俺も前田も警察は嫌いだという意見が一致してこんな苦労をしている。穴に放り込んだとき舞い上がった粉で、少しキマってしまった。

 帰りの車で前田に聞いた

「前田さんもう億万長者でしょ」

「まぁなこれからが正念場だよ、お前はどうするんだ一緒に来るか?」

「俺には弟がいますから」

「あっちにいけばもっと安全にトリップできるんだぞ、弟もつれてこいよ」

「それはそうなんですが…」

「まぁ無理にとは言わないけどよ、俺もお前のこと兄弟みたいに思ってるからよ、困ったら声かけて来いよ」こういう言葉を信じてはいけないということは、別のその手の稼業の者から聞いていた。さて、どちらかのヤクザ者が嘘をついていることになる。答えは出ないときははぐらかすに限る。

「ありがとうございます」

 前田のことは嫌いではないが、この男はいつか下手を踏むと妙な確信があった。その巻き添えはごめんだ。

 前田が口を開く。

「そういえばお前がつるんでた奴らみんなパクられたぞ」

「え?どうして」最近連絡は取っていなかったが初耳のことだ。

「町工場に強盗にはいったらしい、そこの爺さんを縛り上げて口にガムテープを貼ったのがまずかった、窒息死で強盗致死だよ、その上駆けつけた警備員を一人がナイフでブスッだよ。無期もあるんじゃねえか若ぇのにな」

「あいつらは受け子やってたんじゃないんですか?」

「やらせといてなんだが、あんなのは木端がやる仕事だよソッコー逃げたよ、俺らも探してたんだがバカが早まりやがって……」

 恐らく刺したのは金田だろう、あとは大体想像がつく、なんてバカなことを。

 車は首都高を抜けて自宅へ着いた。

「ホイ」前田が厚みのある封筒を寄越してきた、中身は金だろう。

「ありがとうございます」

「じゃあまた潮目がよくなったら遊ぼうや、ま、俺が日本にいたらな」

 笑い声を残して車は去った。


 家に帰るのは久しぶりだ。父親はアル中がひどくなってトラックに乗れなくなり、日がな一日酒を飲んでいる。

 起きたらすぐに飲み、飲みつぶれるまで飲み続ける。連続飲酒という危険な状態になっていた。俺も弟も放置している。あのままなら死ぬかアル中病棟に入れられるのは時間の問題だろう。父は俺に殴られた以来暴れることはないが、始終酒を飲み譫言のように愚痴をこぼしていた。

 こうなり果てたら断酒しかない、アル中の専門病棟に入院して、ダルクにでもはいるしかないだろう。アル中本人や家族がアル中から抜け出す支援をするのがダルクだ。俺も弟もその存在を知らないわけではないが。父親はもうこれで寿命なのだと直感が告げた。

 危ない橋を渡って得た金だが、父の酒代だけは現金で渡していた。一刻も早く死ぬべき人間のための金だ。飲め、飲んで死ね。


 弟は俺とは違い真面目に学校に通っており、実質俺が面倒をみていた。できれば弟には酒もドラッグもない世界で、傷つくことなく生きてほしいと願っていた。俺はどうしてジャンキーになったんだろう。ドラッグがみせてくれる美しい紋様、女神のように見える女たち、普段は考えもしない深い思考に至ること、酒なんかドラッグの中では最低の部類だ、親父にはお似合いだし、このまま死んだとしても、それもまた相応しい死に方だと思う。

「兄貴ひさしぶり」

「仕事クビになったよ」

「そうなんだ」

「当面の金はあるしゆっくり考えればいい」

「いつもありがとう」

「たいしたことはないさ」

「親父は?」

「引きこもって飲んでるから放ってるよ」


そうか、といいながら親父の部屋のふすまを開けると、土下座をしてピクリともうごかない。親父はその姿勢のまま吐しゃ物を器官に詰まらせて死んでいた。

その姿勢は家族への詫びのつもりだろうか、いやただ飲みすぎて前に倒れただけだろうな。

「親父死んでるよ」と伝えると弟は「そっか」とかるく返事をしただけだった


 そこからは救急車を呼んで、医者から死亡診断書をもらった、どうせ残ってる財産もないだろうから気にしなかった。そのまま棺桶と骨壺買った。

「戒名は『大飲酒無様居士』でいいか」と弟に尋ねたら「戒名なんかいらないでしょ」と笑いかけた。

 誰も親父の死を悲しんでいない、ある意味清々しい死に方だなと思う。

 逃げ出した母親に伝えるかどうかについては逡巡したが、これも放っておくことにした。

 あとは火葬場で燃やして、骨壺ごと海に放り込んでもらうだけだ。散骨に委託プランがあって助かった。できるだけ恨みはもらいたくない。費用も全部で7万程度ですんだのだからたいしたものだ、さて、これで俺は本当の自由を手に入れたのだ。


・イツキとジャンキー


 父を送ったジャンキーは、またイツキのもとを訪ねた。新緑の気持ち良い季節だが、完全に薬物に依存しているジャンキーには、関係のないことだった。

「よう、また海の家に行かないか、当分過ごす金ができたんだ」

 イツキはジャンキーの顔をみてギョッとした、鋭い目つきに、瘦せこけた頬、酷い隈ができていて、素人目に見ても今すぐ入院すべき状態に見えた。

「それはいいけど、あんたヨレヨレじゃないの車運転できるの?」

「シャブやればシャキッとするよ」

 病院で「ドラッグやって運転する奴は馬鹿だ」と演説していたのに、ジャンキーは見事に忘れてしまったらしい。

 イツキはこのまま返すのもマズいと思った。

「何日寝てないの?」

「さあ10日か20日か」

「私が運転する、あんた確実に事故るよ」ピシャリとイツキが言い放った。

「親父が死んだよ」

ジャンキーはそう言うと海の家の道中ずっと父親の悪口雑言をつづけた。ジャンキーはきっと父親を殺したかったんだ。それができなくなったから苦しくてたまらないのだ、イツキはそう思った。

「ジャンキーは喧嘩でお父さんに勝ったんでしょ?それでもう十分じゃない」

「あいつは殺さなきゃいけなかった、生まれてこなければよかった人間なんだよ、そういう人間がこの世にはいくらかいるんだ」

イツキはかつての自分に重ね合わせて、生まれてこなければよかった人間など本当に居るのだろうかと思った。

「お父さんが生まれてなければジャンキーも生まれてこれないじゃん、それは寂しいな」とイツキが助手席に目をやるとジャンキーはちぢこまって眠りこけていた。


 海の家に着いたのは夕刻のことだった、初めての首都高にイツキは、冷や汗でびっしょりになっていた。ジャンキーは未だに寝ていたが、イツキが荷物を家に運んでいると起き上がってきた。すっかり瘦せ細って死神にでも取りつかれたようだ。

ジャンキーは手伝おうとしたが、イツキに「眠れるときに寝るように」言われてしまった。

「ご飯はどのくらい食べてないの?」イツキが聞くと

「さあどうだろう10日か20日か」睡眠と同じだけとれておらずその間ずっとドラッグをやっていたということだろう。ジャンキーの体から断食につきものの甘酸っぱいケトン臭がしている。

「死にたいの?」

「たぶん」

「なんで呼んだの?私はもう死のうなんて思ってない、裁判に勝ったので十分、落しはのんだの?」

「ああ、でも落ちないんだ」


 この状態になったら固形物は入らないだろう、胃腸さえキックしてやれば睡眠欲も戻ってくると思うけど、イツキはそう考えて、柔らか目のご飯を炊いて、薄味の味噌汁をつくった、それをお茶碗に混ぜてジャンキーに食べさせた。

 以前ジャンキーが言っていたのだ、みそ汁ぶっかけたご飯が一番回復が早いと、果たして、ジャンキーはズズッと汁をすすりゆっくり食事をはじめた。

 これで回復しなかったら点滴しかないかな。

「拘置所では飯を食わない被告人は鼻から管を入れて、そこから胃に直接、栄養剤を入れるらしいよ」

 食事を半分ほど摂ったジャンキーは軽口を叩いた。

「とにかく数日は体力を回復させないと楽しいお薬遊びもできないよ」

 こういった薬の提供者である自分に、おもねるような言動をしないイツキのことをジャンキーは悪くないと思っていた。


それから5日経ち、固形物も口にするようになりジャンキーは回復とともにドラッグを欲しだした。

「MDMAをやろう、これを飲むと異性が素敵にみえる」

「ジャンキーはEDなんでしょ?」

「それだけが愛じゃないさ」

「なに告白してるの?やめてよ」イツキが笑っていると、ジャンキーが一粒のタブレットを渡した。

「タブレット?」

「ただのタブレットに見せたデザイナードラッグだよ」

「デザイナードラッグ?」イツキがオウム返しに聞いた。

「どこかのマッドサイエンティストだかだれかが人工的に作ったお薬だよ、バカ売れした5meo-diptはシュルギン博士って人が作ったらしい天才だな。」

「へぇ何人?」イツキは気の抜けた返事をした。単に興味がないのである。

「知らねぇ、じゃあこれ、舌下、大体30分で効いて、5時間で落ちる」

イツキは警戒もなくその錠剤を舌下に放り込んだ。生きる価値を取り戻した彼女がドラッグに寛容なのは不思議だが、ジャンキーを信頼しているのかもしれず、ドラッグの素晴らしさに気付いてしまったのかもしれず。未だ不安定な彼女の心が行動原理に影響を与えているのかもしれなかった。

「もう飛び込まないと約束できるなら30分海を眺めよう」

「もうしないよ、あんなこと、する必要もなくなったし」

 空は夕暮れ、海から突き出した岸壁は巣作りに適しているのだろう、相変わらず数多の鳥が飛び交っている。

 細かな水滴を纏ったビールのプルタブを押し込んで、すかさず飲み込んだ。

「ビールは一杯目だけうまいな、ずっとこのうまさが続くようにできないのはメーカーの怠慢だと僕は思うんですよね」

「なにそれ」イツキがクックと笑った。

 お互い最悪の状態からは脱したのだし、多少タガを外してもいいだろう、イツキは望まれるならジャンキーに抱かれてもいいと思っていた。

 暗くなるにつれ、街灯のない海は音だけを残して怪物のように唸りをあげている。バッドに入らないように、カーテンを引いて音楽をかけた、イツキにはよくわからないが、クラブミュージックという奴だろう。それからジャンキーは床置きのミラーボールを設置して作動させた。

 たちまち一面はダンスフロアになった。


 HDMAは俗称エクスタシー、玉、×などというが、どうもエクスタシーというのがしっくりくるようだ。時間がたって多幸感が脳の中で吹き上がってきた。セロトニンが過剰になっている。などといっても言葉では逆らえない。不器用ながら体が自然に動き出す、フロアライトがぐるぐるまわって、多幸感をともなって上がっていく。

 ジャンキーは耐性のため効きが悪くもう一錠追加していた。

 そんな様子をよそにイツキはすっかりキマってしまって、「わぁ最高~」とか「幸せ~」などとつぶやいている。

 ややあってジャンキーにも効いてきたようだ、ジャンキーとイツキは見つめ合うと「イツキ女神様みたい」「ジャンキーも最高」とお互い言いあった。

 MDMAには相手との親和性を高める効力があるのだ。ゆっくり抱き合うと、二人はキスをした。キスの感触はこれまで味わったことのないものだった。「きもちいい」「きもちいい」二人とも同じことをつぶやき続けている。

 それでもやはりジャンキーのそれは勃たなかった。

「いいよこっちおいで」イツキがジャンキーを服を脱がしながら先導していく、二人とも全裸になって抱き合うと、またもう一段階高い多幸感がやってきた。これ以上することもできたが、イッてしまうのが怖くて、このままでいることにした。

 やがてダンスフロアに二人を残して時間は極めて遅くながれ幸せの中にいつまでも落下していった。


 だがやがて薬は切れた、続けざまに追い打ちして15時間は楽しんだろうか、途中で踊ったり、抱き合ったり。3錠を使い切るころにはイツキはフラフラになっていた。さらに追加しようとするジャンキーを止めて、落しを飲ませた。

 粥とスポーツドリンクを摂って胃腸が回復するのをまった。ウトウトとしてイツキが眠りについたころ、ジャンキーはシャブを打っていた。

 射精しなかったことがもったいないのか、勃つことのないそれをしごき続けた、それはイツキが起きてくる10時間後までつづいた。

 不思議なことにMDMAの薬効はとうに切れているにも拘らずジャンキーのことが好きでたまらない。

「ジャンキー私のこと好き?」ストレートに聞いた。

「ああ」

嬉しい、幸せ、MDMAの親和性を上げる効果はまだ続いているようだ。

「嬉しい」


この状態がさらに数日続いた、だがある日急にストンと脳が作動しなくなったように、これといった感情がなくなってしまった。もう一度聞いてみた。


「ジャンキー私のこと好き?」ストレートに聞いた。

「ふつう」

「そっか普通か、MDMAやればまたあんなふうになるのかな」

「どうかなMDMAは耐性の強いドラッグだから、あの多幸感をずっと追いかけてると死んじゃうよ」

「ジャンキーはなんでそんな薬を私にやらせたの?」

「好きだから、病院で見かけたときから好きだった」ジャンキーは海を見ている。

「私も好きになりそうだったのに、ドラッグなんかに頼らなくても」

「もうあの多幸感は二度とこない、イツキとはもう二度とあの高みに行くことはないんだよ」

「私を嫌いになるためにMDMAを使ったの?」

「嫌いじゃないよ、普通さ、薬は幸せの前借っていうだろ、イツキの前借の分俺がもらってやるよ」

「賢い考え方とは思えない」

「とにかくドラッグで受けたダメージを回復させよう、明日は温泉と市場にいこう」


 確かにまずは疲れ切った身体を回復させることが肝要だと感じられた。イツキは落しのデパスが効かず、寝床で悶々と考え続けた。

(おそらくジャンキーは死のうとしている、そうじゃなくてもあのやり方では近いうちに死んでしまうだろう。そしてそのために、人間関係を捨てようとしている。好意を持っているものからは好意を、憎しみをもっているものからは憎しみを、殺意を持っているものからは殺意を取り去ろうとしている。ジャンキーの父親が死んだことで、それは比較的容易になった。イツキから好意を取り去るにはもう二度と経験できない快楽を共にするしかなかったのだろう。問題は嗜虐心だろう、ジャンキーはだれを殺すだろうか……)

 と考えてイツキはヒヤリとした、好意を持っている私を殺すことで嗜虐心が満たされるだろうか、否、それはない。ならばその相手は母親だ、ジャンキーは母親の居所を知っているだろうか。ジャンキーは母親を殺し弟を捨てるつもりだろうか。)


 翌朝、イツキが目覚めると、まだ覚せい剤の追加で飛びまくってるジャンキーがそこにいた。


「ずっとやってたの?」

「ああ、最高だ」

「市場と温泉にいくんじゃないの?」

「もう一本、もう一本打ってから」

「それじゃ市はしまっちゃうよ、それに匂うから温泉じゃなくてもいいからお風呂は入ったほうがいい、というか周りの目があるからまず家の風呂に入ったほうがいい、沸かすね」

「確かに勘繰りが酷い」


 ジャンキーはしおたれたそれを擦りながら、間断なくビクビクとイッている。イツキはデパスをジャンキーに飲ませ風呂を沸かした。ジャンキーからはまた汗と飢餓状態に発生する甘酸っぱい臭いがしていた。せっかく海の家に来て体調を戻したのにすぐ衰弱状態に戻ってしまった。

 それでも風呂を浴びて軽食を摂ったジャンキーは幾分マシに見えた。


「市場はなし、私がスーパーで何か買ってくるから、睡眠薬飲んでねてなよ」

イツキの提案をおとなしく受け入れたジャンキーは布団にくるまった。

さて、イツキも薬の効果が残っている状態での運転は避けたかった、だが食料だけは切らさないようにしないとジャンキーが死んでしまうと思った。

 スーパーへの道は曲がりくねって見えた、まだMDMAの効果が多少残っているのだろうか、細心の注意を払って限界集落の国道を走った。幸いに対向車には合わずスーパーに到着できた。ゼリー、お粥、プリン、だし入りみそ、カレー、チョコレート、米はあるはず、といったところか、酒はよくわからないが禁忌だろう。一応買って隠しておこう。

 帰りも車のハンドルを汗まみれにしてどうにか事故を起こさずに帰ってきた。相手が車ならまだしも人でもはねたら私は自責の念で立ち直れないな。そう思いながら車は小刻みに左右に動きながら車は走る。そういえば合法ドラッグの包括規制も交通事故がきっかけだったっけ。

 イツキはぐるぐると頭の中で思考を回しながらどうにか無事に海の家に到着した。

買ってきたものを並べて食べられそうなものから食べなよとイツキが勧めたが、もう少し眠っていたいとジャンキーは布団にうずもれて応えた。あれだけ薬を連投したのだ離脱症状も酷いだろう。

 眠れるのは良いことだイツキは放っておくことにして、マリファナを一服しながら昼の明るい海を眺めた、波頭が行ったり来たりする、巨大な岩は相変わらず鳥が飛び交っている。鳥の種類はわからないが大きいのが小さいのを追いやっている。人も鳥も一緒か、一緒にマリファナやればマウンティングなんて気にならなくなるのに。イツキはもうすっかりマリファナの虜になっていた。

 さて、とイツキは考えた、どうすればジャンキーが母親を殺さず嗜虐心を治めるか、どうすれば生き急ぐようにドラックを連用するのをとめられるか。いずれも難題に思えた。

 悶々としているとジャンキーの起きる気配がした。ドラッグのせいで食いしばった歯が痛いようで顎のあたりを摩っている。

「歯磨く、あとマリファナ吸ってなんか食べる」

「スイーツ以外ならカレーくらいしかないけど」イツキが申し訳なさそうに応える。

「カレーでいいよ、大好物」よろよろしながらジャンキーは洗面台のほうへ向かった、ジャンキーからは相変わらず甘酸っぱいが漂っている。カレーを食べてもまったくカロリーは足りないだろう。レトルトカレーを湯煎にかけている間イツキはもう一服マリファナを吸った。

「それいいねちょうだい」ジャンキーがやってきた。

「新しくつめる?」

「それでいいよ」ジャンキーはハイプを加え胸いっぱいにマリファナを吸い込み息を止めた、限界まで待って煙を吹き出し、再び漂っている煙を吸った。

「ああ、クラクラする」上がり框に座り込むと、海のほうを見つめながら、「海が青いのは空の青さを映しているからなんだぜ」といった。

「海の青さを空が映してるんじゃなかったっけ?」イツキと言うと

ジャンキーは「そうだっけ」といって笑った「どっちでもいいよ」と重ねて笑った

「どうお腹減ってきた?」

「うん、食べよう」

 食卓にはカレー、ゼリー、チーズ、チョコレート、ほうれん草のお浸しとめちゃくちゃな献立が並んでいた、料理下手なイツキが病人用に合わせたらこうなってしまったのである。それでもジャンキーは「うめーうめー最高ー」といいながら食べている。

 イツキもゼリーを口にしたら口中に広がる甘さで思わず「なにこれ、うまぁ」と声に出してしまった。


 それから3日経ち、マリファナだけの生活に戻ってようやく食事と睡眠がまともに摂れるようになっていた。イツキとジャンキーは海を見つめていた。

「ジャンキー」

「ん?」

「ジャンキーのお母さんてどんな人なの?」

「知らないよ記憶もないうちに俺たちを捨てて逃げたからな」俺たちというのは弟のことだろう

「なんで捨てたの?」

「親父のアル中に耐えられなかったんだろ、わかんないけど」

「お母さんを殺す?」イツキは不意に核心を突いた

「…なんで?」

「ジャンキーは自分の欲望に素直だもん」

「どこにいるかわからない人を殺せやしないよ」

 話はそこで途切れた。来客があったのだ、以前からドラッグを運んでくる若者だった。若者はジャンキーに向かって話しかけた。

「前田さんが金を持ち出しまして、ジャンキーさんのことも新宿中で探してます」

「そうか、明日には事務所に寄ると伝えといてよ、悪いね」そういうとジャンキーはポケットから10万円ほどの束を取り出して若者に握らせた。

「なぁに海の家には俺はいなかった、電話はつながってそちらへ向かうと言ったと伝えてくれよ」

一瞬の間があって若者は一礼して去った。


「さて問題発生だ、前田は合法ドラッグで稼いだ金をパクッて高跳びしたらしい、これで俺には3日程度の余裕しかなくなったわけだ、まいったねぇ」

「とにかく事務所に顔を出したほうがいいんじゃないの、ジャンキーは悪いことしてないんだし」

「あいつらにそんな道理が通じればいいけどね、とにかく荷物をまとめてよ東京に戻ろう」

運転はイツキが行い、ジャンキーはまた覚せい剤を間断なく打っている。不安なのだろうか。一路東京に戻った二人は、一軒のアパートの前に止まった。


「ここで待っててよ」

「ちょっと、お母さんを殺す気なの?」

「さぁここは前田のアパートだよ一応寄ってみただけ」

 嘘だ。入念に自分の生きた証拠を潰してきたジャンキーがこの差し迫った状態で組織のいざこざに関わるとは思えなかった。

「やめようよ、きっとジャンキーはもっと幸せになることができるよドラッグもやめなくていい、し誰か怖い人達に追っかけられてもいい、私が幸せにするから、ジャンキーを捨てた女なんか放っておけばいいよ」

 出し抜けにジャンキーはイツキを殴った、殴られた瞬間イツキの心がなえてしまったようにみえた。ジャンキーは再び殴った、イツキが血を吹き出すまで殴りに殴った。

イツキはすっかり黙ってしまった。

「暴力はなあ、言葉を超えるんだよ」ジャンキーは目をギラギラさせて叫ぶと、車に積んだバールをもって飛び出した。ジャンキーは通常よりはるかな量の覚せい剤を注射している。しかしイツキは恐怖で動くことができなかった。


 チャイムを押しても人の気配はない、外でひと悶着あったのだ警戒しているに違いない。ジャンキーはバールでドアノブを叩き壊し蹴り飛ばした。その向こうには中年の女がいた。

「あんたが英子か」腕にタオルを巻いてもう一本覚せい剤を追加した。

「あんたが英子か」ジャンキーの大声が響く。

「あんた、私を恨んどるんか、殺したいほど憎むんどるんか、殺したらええよ」

直後振り上げたバールは窓ガラスを割った、あたりにあるものを手当たり次第に壊した、テレビが割れた、テーブルが割れた、ふすまが割れた。その間ジャンキーは唸り声をあげて泣いていた。そして英子にバールを振りかぶったところで、ガラス戸もろともガシャンと音を立てて倒れた。明らかなオーバードーズだ。

 イツキは消防に連絡したが、ジャンキーは蘇生しなかった、通常の何倍もの量の覚せい剤を打って暴れたのだ。

 ジャンキーが死に、ジャンキーに暴力を振るわれたことで、イツキには悔しさがこみあげてきた。イツキの父母もジャンキーの父母も、「生まれてくれてありがとう」となぜ一言いえないのか。ジャンキーはそれだけで救われただろうに。

 イツキはタクシーを拾って帰り、くすねたマリファナを一服して残りは捨ててしまった。これで捕まることはないはずだ。

 イツキはジャンキーに殴られた後をなぞって泣いた。あんなくだらないことのために死にやがって、選択肢はいくらでもあったじゃないか。殴られたあとが痛い。

 涙まじりにイツキはつぶやいたジャンキー、生まれてくれてありがとう。さよなら。



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― 新着の感想 ―
[良い点] 心に沁みる。とてもいい作品。 [気になる点] なし。ノンフィクションのようなリアルさの描写にどんどん引き込まれます。 [一言] 忘れていた何かを思い出させて頂きました。 ありがとうございま…
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