人称と人情
小説を書く方々にはそれぞれ得意とする書き方があるだろう。その差は十人十色、千差万別だろうから、主義をとやかく言うつもりはない。
今回は一人称、二人称、三人称という人称についてつらつらと語っていこうと思う。
まずは基本的なところから。
一人称小説というのは地の文に「私」や「僕」などの一人称が使われているもののことを言う。たまに地の文に登場人物の台詞を入れていることがあるが、それは地の文にカウントしないものとする。
続いて、二人称小説。あまり聞き馴染みがないであろうジャンルだが、二人称を地の文の主体──つまりは「あなた」というのを主人公として取り扱うのが二人称小説である。物語というのはいかに読者に共感を持たせるかが読ませるポイントの大部分を占めるため、読者を無理矢理主人公にしようとするこの手法は好まれないのかもしれない。
それから、三人称小説。これが最もポピュラーなのではないだろうか。一人称でも二人称でもない、完全なる第三者視点、否、もしかしたら視点ですらないのかもしれない。物語を多角的に表現する地の文が三人称である。
では何故人称分けがあるのだろう。そして何故私はこんな人称分けの話をするのだろう、という話になる。
まず、一人称小説が近頃のブームであるということが私がこの話をしようとしたきっかけだ。ブームといっても私の個人的なものではなく、一般的で世間的な流行である。
本といえばライトノベル。平成の半ば辺りから浸透してきた文化だ。もちろんそれより以前にも似たような本はあったのだろうが、流行りに流行ったのはちょうどその頃からである。
一人称のライトノベルで時代を築いたものといえば、「涼宮ハルヒ」シリーズではないだろうか。あれは終始主人公の視点で事の顛末が描かれている。あの作品が爆発的に有名となったところから、一人称小説を書く者は増えたのではないだろうか。
というと、一概にそうでもない。有名作品で言うなら、太宰治の「人間失格」も一人称小説であるし、夏目漱石の「こゝろ」も一人称だ。ああ、それから芥川龍之介の「羅生門」あれも一人称だったか。
ただ、文豪と呼ばれる彼らの使った文体と比較すると、現代の一人称小説というのはだいぶ砕けた文体であることは確かだろう。例に挙げた三作品は己の行いを回顧するような文章であるのに対し、ライトノベルに用いられる一人称の文体はリアルタイムを感じさせるものが多い。
国語の授業で「口語文」と習ったものが文章中に多用されるのが現代の一人称小説の特徴だ。
では私が今書いているこれはどちらなのか。一人称小説であるにはちがいない。けれど、読んでわかる通り、文面が堅いだろう。ライトノベルとは口が裂けても呼べまい。
では、ライトノベル調で書いていくとどうなるのか。次の段落から試しに書いてみよう。
ってことで、ラノベ調にしてみたんだけどどう? 違いわかる?
え? たった一行でわかんないって? ははは! そらそうだわ。
ま、こんな感じで普段友達とか家族とかと話すみたいな、紙に書く「文面」じゃなくて、「喋り口調」で書くのが現代のラノベ調ってこと。ラノベ調ってか、一人称だっけ?
多用されるのもわかるわあ。だって、口調が砕けてるから入り込みやすいもん。そう思わない? さっきまでのおかたーい文章よりは遥かに読みやすいと思うんだけどどうかな?
まあ、キャラの口調や性格によりけりだけどね。こういう口語調が読みやすい理由の一つにはたぶん、流行り言葉とか入れやすい、とか、カタカナ語を並べやすい、とか、それに比例して文中の漢字が少なくなる、とかがあると思うんだよね。
読めない漢字を読み解きながら進むより、すんなり読めた方がストレスフリーなのは私もわかるし。あと、口語調だと口に出して読みやすいってのも大きいと思うんだよね。実際に音読するかはさておき、口調が自分の喋り方に近いと、なんとなくイントネーションとかニュアンスとかがわかるじゃん? そういうわかりやすさがラノベ調のいいところだと思うわけよ。
こほん。
さて、ここまでで文豪たちの一人称と今流行りの一人称の違いがおわかりいただけただろうか。
今の小中学生がどのような国語を習うかは知らないが、私の時代の国語ではラノベ調で書いて提出してしまうと〇点まで行かなくともペケがつくのは間違いなしであった。
口語調である、というのはもちろんだが、文法においてこれはいかがなものか、という表現が多用されているからである。
まず文章の頭が「っ」から始まるのは国語の文章ではあり得てはいけない。口語、つまりは喋り口調だからこそ許される表現だ。
他にも「~している」を「~してる」と表記する所謂「い抜き言葉」だったり、「~なので」や「~だから」を「~だし」と表現したりするのも私の時代の国語ではペケを食らうものだった。
では国語でペケを食らうような表現をしている一人称のライトノベルは駄目なものか、と断定するのはどうなのか。
そこは表現の自由である。読みやすさがあれば読んでくれる人が増えるのは当然だろう。ライトノベルの一人称書きはそういう「工夫」をしているだけだ。
それが時代に合ったという話だと私は思う。
さて、一人称小説の次は二人称小説……といきたいところだが、二人称小説は作品が少ないのと説明が難しいので一旦保留にするとしよう。
最もポピュラーだと話した三人称小説について、先に話していこうと思う。
三人称小説というのは地の文に「私」「僕」「あなた」のような一人称や二人称の入らない小説のことを言う。
つまりは何人称小説というのは、地の文を起点にして考えられる、というのが基礎中の基礎の話だ。
何故一人称小説の次に三人称小説の話をするかというと、それはこれらが対となるような特徴を持つからである。
そもそも三人称小説とはどのような文章か。有名作品だと何が該当するか、などを考えていきたいと思う。
まず、三人称の作品で代表的なのは童話というジャンルだ。絵本でもアンデルセンでもグリムでもいい。童話と呼ばれるカテゴリの作品は第三者視点で主人公の様子が描かれている場合が多い。
何故童話に三人称が多いのか。それは「ヘンゼルとグレーテル」や「ぐりとぐら」などのように主人公が複数人いる場合があるからだ。主人公が複数人いると、一人称だけではとっちらかった印象の文章になってしまう。また、童話では動物や植物などが意思を持って喋る場合がある。そういう非現実を架空のものとして受け入れるための緩衝材として、三人称が用いられるのだ。
例えば「ヘンゼルとグレーテル」は兄妹の話なわけだが、兄視点、妹視点と限定すると物語の全貌を描くには偏りが出てしまう。かといって、兄視点と妹視点をそれぞれ一人称で描くと、兄は「僕」妹は「私」と別々の一人称が入り乱れて読者に混乱を生じさせる。絵本になるような作品は短い文章でまとめられることが多いため、ライトノベルとは違い、一人称を使い分けて場面表現するのは難しいのだ。
また、動物が主人公の話になると、どこか「動物がこんなことを考えるだろうか」という考えがよぎって没頭できなくなる。だから、人間の言葉でわかりやすいように要約されているわけだ。新美南吉の「ごんぎつね」や「手袋を買いに」などが例として挙げられるだろうか。
もちろん、童話以外にも三人称を使っている作品は存在する。何故なら、三人称は国語の文法に沿って書きやすいからだ。
一人称の紹介のときに語った通り、一人称で国語の文法に沿う書き方をすると堅い印象を受け、取っつきづらくなる。それは「一人称なのに砕けていないから共感ができない」のが主な理由だと考えている。
それが三人称だと地の文が堅くても、それはあくまで「地の文」であり、「主人公の思い」が入っているわけではないので、共感する必要がないと受け止められる。
それでも堅すぎる文章は読みにくく感じることもあるだろう。そこの塩梅は個々の技量に託されている。
その託された表現方法の中で確立されてきたのが「一人称と三人称の融合」である。
このことを話したくて、ここまで一人称と三人称の話をしてきた。では何故この二つの融合が必要なのか。それはこの二つにはメリットがあると同時、デメリットも存在するからだ。
一人称小説のデメリットは視点が主人公に偏るため、他のキャラクターの動きを描くのに不足する部分が出てくるということ、アクションなどのスピード感が必要な表現が不足したり、間延びしたりすることの二点が主に挙げられるだろう。
童話の下りで話した通り、一人称で複数人の視点を描くのは難しく、文章がとっちらかって見えてしまう。散らかっていなくても、相応の文章量が必要になる。筆者がそのくらいの文章量を書けても、読者がその量の文を読みたいかはまた別の話だ。
アクションシーンについては一人称に限った問題ではないのだが、一人称だと三人称と比べて擬音だけで済まされ、物足りなく感じたり、逆に説明文が多すぎて一人称である旨味が潰れたりするので、適していないのではないだろうか。
これら二点を三人称は補うことができる。三人称なら複数視点で多面的に物事を描いても違和感がない。アクションシーンが説明文になっても一人称のときほどの失速感はない。そもそも三人称にはそれほど疾走感がないのだ。
もちろん、作者の書き方次第では三人称でも疾走感に溢れていたり、一人称で多角的表現をしたりすることもできる。ただ、書きやすさで言うと、こうなるのではないか、と私は思っている。
では、三人称のデメリットは何か。私は感情移入しづらい、文章が堅くて読みづらい、の二点にあると思う。
三人称は複数人の思惑を交錯させて描くために、公平な第三者として徹底的に「私情」を排除した表現になる。一人称と三人称の区別意識が強い筆者ほど、そうなりがちだと思われる。
私情が一切入らない文章はアクションシーンなどの説明文は説明文として受け入れやすいが、感動シーンやギャグシーンはどうしても淡白に感じてしまう。
文章が堅いのも起因するだろう。先に話したと思うが、三人称は国語の文法を守って描くために使用することが多い。そのため一人称小説、特にラノベ調のものに多い「ラフさ」が欠如し、読み進めたいと思えなくなってしまうのだ。
もちろん、作者の匙加減でどうにかなると言ってしまえばそれまでである。けれども誰もがいい塩梅ばかりで書けるわけもなく、匙加減が簡単にわかるのなら苦労はない。料理のレシピのように決まった分量があるわけではないのだ。皆が「適量ってどれくらいだよ?」と思うように、筆者も適量がわからない。
それゆえに生まれたのが、三人称的一人称という表現方法だ。一人称的三人称も存在する。端的に言うと、一人称と三人称を混ぜ合わせた表現である。
視点の切り替わりが多数存在したり、主人公の性格を殺さずに他の登場人物を表現したりするときに使われる。
混ぜるという行為をすれば、混ぜ方によって異なる食感になる。卵焼きのようなものだ。
最近は無生物転生や、悪役令嬢などの地位があり、広い視野の必要な存在を主人公に据えることによって、三人称的一人称が成立している場合が多い。つまり最近のブームというのがこの手法というわけだ。
三人称と一人称を混ぜ合わせることによって、互いの不足を補う文体がわかりやすくて流行っている。転生ものが多いのは、主人公と転生した意識を解離して物事を考えられるため、三人称的一人称で表現しやすいところがあるからではないかと見ている。
文体の融合。これは一つの小説文化の進化と言えよう。
さて、最後に二人称小説について説明しよう。
二人称小説は「あなたは~です」という読者に語りかけ読者、もしくは架空の「あなた」という存在を主人公にする書き方である。私も何度か試してみたが、あまり造詣が深くはない。
読者としても、自分を塗り替えられるような感覚があり、難解な読み物かもしれないが、捉え方一つである。
私は二人称小説を「読者を主人公にする」というより「架空の『あなた』を主人公にする」という考え方で読むと、二人称小説は読みやすく、面白く感じられると思う。
これを読んでいるあなたは二次創作に触れたことはあるだろうか。原作の「もしも」の話、if世界、そういうものに二人称小説は近いところがあるのだと思う。
もし、二人称小説を見かけたら、「もしかしたらこんな自分もあったかもしれない」と思って気軽に読んでみるのも楽しいと思う。
二人称小説を書いてみたい方は、自分のキャラクターを二次創作風にもしもの世界に送り込む感じで名前を「あなた」に置き換えると、新しい世界ぎ切り開けるかもしれない。
何人称でもいい、小説を書いてみよう、読んでみようと、前に進めたらいい。