一石何鳥
遅れまして申し訳ございません。牛歩の歩みですが少しずつ更新していきます
中にいた少女は男性の顔を見て表情を綻ばせる。
「先生!!」
その笑顔は太陽のように暖かく、野草のように力強い。子供の持つ陽のエネルギーを全開に感じる笑みだった。
「お久し振りですアンジェちゃん。元気すぎてお母さまを困らせてはいませんか?」
元気か?や、体調は大丈夫か?とは聞かない。それは細やかな気遣いであり、尚且つ必要な情報を得られる最適な質問。
おとなしく養成していたかどうか、さらには変調がないかどうか、そして後ろにいる大人に対して子供の扱いになれていることをアピールできる一石何鳥にもなる計算されつくした、簡単な問いかけであった。
「うん!アンジェお外で遊びたいけど、お家でおとなしく遊んでたの。それでねそれでね、先生の絵描いたの!見て見て!!」
「それは嬉しいですね、是非見せてください」
そうして男性はベッドボードに寄りかかって座っている女児に近づく。
子供のいるベッドの近くには、恐らく後ろからついてきている女性が自身の子供のお世話をするために置いてある、背もたれのついた木製の椅子がある。
しかしその男は椅子には座らず、フローリングの床に片膝をつき、ベッドに横たわっている女児と目を合わせた。
その行動は、普段自身が利用している椅子に不躾に異性が座するという非紳士的な振る舞いを退け、女性からの好感を勝ち取ることが出来る。
ただ一つ言えるのは、それを無意識的に行える者こそが紳士であり、果たしてこの男がどちらの部類なのかは現時点では判然としない。
「これぇ!先生とアンジェとママが三人でお手て繋いでるの。それでね、たくさんお喋りしてね、お弁当食べてたーーくさんお外で遊んでるの!」
「ふふふ。この絵ね、パパが自分がいないって嘆いてたんですよ」
笑いながらその時の情景を思い浮かべ、二人で顔を見合わせ微笑みあう。そこには一種の聖域のような空間が創生されていた。
この不可侵の領域に踏み込むのは正常な人間であれば躊躇われるだろう。母子での、というより家族間での思い出に浸っているこの瞬間。
何人たりとも犯すことが許されない、土足で踏み込むことが躊躇われるそんな領域。
「光栄ですね。けれどただの医者である僕の絵がこれだけ素敵なのですから、アンジェちゃんが大好きなお父様を書いたらギルマンティヌスの闘画のようにかっこよさが伝わってきちゃいますよ」
しかし男性は臆さず聖域を犯す。ただしそれは教会へ入る信々深い教徒のような、将又甲子園に初出場し始めてグラウンドを踏みしめる高校球児のような、土足では決して踏み込まず恐れ多さというものを足裏に込めて歩き出す。
「ギルマンってなぁに?」
そして少女ひいては後ろに立つ女性も不快感はない。
「ギルマンティヌスは昔の壁画家、教会や王城などの天井や壁に絵を描いていた有名な人です」
「アンジェよく『壁に絵描いちゃダメッ』ってママに怒られるよ?」
「その人はお願いされて描いてますから、アンジェちゃんもお母様からお願いされてから描きましょうね」
父親の存在を立てつつ、絵を描いてくれた感謝を伝える。さらに医者としては知識の深さが大事であり、それを感じ取ることで保護者は安心感を得られる。
そして子供の躾にも微力ながら援護をし、母親がお願いしない限りは壁への落書きはしてはいけないと覚えることが出来る。
現にそのやり取りを斜め後ろから見ていたアンジェと呼ばれた少女の母親は、医者と呼ばれた男性の自身への配偶者への気遣いに感謝し、知識の深さに感嘆し、子供への扱い慣れに驚愕した。
やはり自分の子だけでなく、さまざまな小児を相手にしているが故の慣れ方なのだろうか。この男性に子供がいるという話は聞いたことがないが、子育てにもとても役立つ方法だとまるで先生から教えを乞う女子生徒のような眼の光が帯び始めていた。
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