その産声は天使のラッパか悪魔の囁きか
親王暦17年、呈郭の月13日目。ツィンガルド王国の王都内のあばら家で、新たな小さい命が誕生していた。その家は表通りのように石畳が整備されておらず土がむき出しの路地にあり、木材とぼろ布のみで作られ雨風を凌ぐという最低限の家の体すらなしていない、壁や天井もどきがあるだけの視線をある程度防げる何かだった。
「おぎゃぁぁぁあああ」
顔の肉を全て中心に寄せ、まだ発達していない表情筋を必死に動かししわくちゃになりながら泣く赤子は冷たい土むき出しの地面に寝転がされており、近くに人の影は見られない。
空は灰色の水蒸気で覆われており、部屋の中はそれを象徴するように湿度が高く陰鬱な雰囲気をより濃く表している。
「ふんぎゃぁぁぁぁぁぁぁああ」
まだ泣く赤子。しかしその時土を踏みしめる音が薄い木の板の向こうから聞こえてきた。水分を多分に含んだ土を踏みしめるその音はどこか乾いており重く、家の中の雰囲気が外からさらにやってくるようだった。
金属の留め金などない、立てつけただけの周りより少し厚い木でできた扉のようなものが床の土を削りながら人が通れそうな隙間を作る。
「あ”あ”あ”ぁぁぁぁぁぁぁ!外まで不快な鳴き声が聞こえてきて帰ってくるのも嫌になるっ!!
やっと仕事が終わって帰ってきたのにやめてよっっ!!l泣くなよっっっっっ!!!!」
無邪気な泣き声のそれではなく、明らかに邪気を含む呪詛が隙間を縫って紡がれた。入ってきたのは若いが顔に影を落とす女性。目の下はくぼんでおり頬はやせこけ、その体は蠱惑的という言葉からは正反対の位置にいるような出で立ちだった。
纏っている服も天井にぶら下がっているぼろ布より少しマシ程度で、決して身なりがいいとは言えない。さらに部屋に入ってきた瞬間充満するのはタバコのような不快な臭い。赤子のいる空間に持ち帰るようなものではない。
「ふぎゅっ、ふぐっ」
それでも赤子は自然と泣き止んだ。それは愛情か、それとも――――――――――――。
「ふんっ!こんなんで泣き止むなら最初から泣くなってんだ。
大体なんでこんなガキをアタシが……」
そう言いながら持っていた布袋を腐りかけの木材でできた椅子にほっぽりなげた。布袋はたいして重さがなさそうなのに、椅子はギギギッと唸りをあげまるでロッキングチェアのように傾く。
赤子はその音で再度泣きそうになるが、母親の顔色を窺うように目を向けると結局泣かずに少し唸るだけだった。
その態度は産まれたての赤子のとるものではないが、先ほど帰ってきた女性はそれに気づかない。そして赤子が泣き止んでからはその存在を忘れたかのように、女性は部屋の奥にある先ほどのような木材でできた一脚の椅子と机のあるところにスタスタ向かっていく。
「はぁぁぁぁぁ疲れた。あの気持ちの悪いジジイ、二度と相手なんかしてやるもんか!」
女性はドカッと腐りかけの椅子に勢いよく腰をかけつつ怒気を表す。しかしいったい何に怒りを示しているのかは、彼女にしかわからない。
ただしその怒りはすさまじく、溌溂とした怒りというよりはドロドロとしたタールのような粘着質なもののように伺える。
赤子はその様子を首がうまく動かせないためか、目だけで追いじっと観察しているのだった――――。
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ガタンッと大きな音が鳴り響き、赤子は目を覚ました。動かしにくい首を必死に動かし、音の正体を探ろうと四苦八苦している。
そうして幾何か、努力の甲斐もあってか、正体はすぐに判明した。どうやら立てかけてあった扉のようなものが寝入る前よりもずれているようで、机に突っ伏した後動かなくなった女性の姿もない。
今日は日中曇り模様だったようだが、現在は全てが暗闇に支配されており夜であることが嫌でもわかる。
「ああう、あうあうあーー」
再び一人きりとなった赤子は育ち切っていない舌筋を動かし何かを言う。
しかしそれを聞く者は何者もおらず、また理解できる者も先ほどの怒り同様発した赤子にしかわからない。
ただなぜか、とても意味のあるように聞こえる。
「あーーーう、ああぇう」
赤子は舌のみならず、言葉を発しながら手や足、はたまた寝返りを打つかのように全身を動かしている。
この行動の意味が分かるのは、まだ先のお話となるのだろうか―――――――。
書きたいのに書けない……