悦ばない売春婦
めんどくさがり屋なので気長に待ってください!
場所は1888年8月31日のイギリス。首都であるロンドンのホワイトチャペル地区という貧民街の一区画。まだ街頭一つとっても明かりがままならないこの時代、日が暮れると一寸先すら永久の闇へと誘われるかのような暗さが路地には目立つ。その路地に一筋の光が突如差し込む。その光はあたり一面を覆う暗闇から守護するような輝きを放ち、光のある区画だけ恐ろしくも美しいカーテンのような区切りとなっていた。
「じゃあまた用があったら呼んでちょうだい」
そう言いながら煌々と光の灯る室内から出てきたのは、一人の中年女性。相対する何者かは扉で姿形が隠れていて、確認するには正面から視認するしかなさそうであった。
「あぁ、そうするさ。次は若ぇやつで頼むってなっ!!」
「なっ!?」
バタンッと静寂な周囲に力強く絞められた扉の音が響き渡る。声を聴いた限り相対していたのはどうやら男性のようであった。相当ご立腹な様子なのは声音や言文、扉の閉め方で何となく伝わる。何に対して怒りをあらわにしていたのかは、残念ながら本人である男性と恐らく当事者であろう扉から出てきた女性しかわからないのだろう。
「何よあの言い草っ!アタシがあんたみたいな臭いケダモノで悦んでるとでも思ってるのっ!?仕事だからヤってやってるだけよ、バーカ!!」
どうやら怒りをぶつけられた女性もご立腹してしまったようだ。再び闇が支配した中で、閉まっている扉に向かって叫びながら最後は舌を出して挑発していた。
「信じられない、なによあいつ……人のことなんだと思って……」
街灯も疎らでほとんどが暗闇の石畳でできた夜道を、ぶつぶつ言いながら歩く女性。先ほどのやり取りがよっぽど腹に据えかねたのか、周りを見る余裕すらなくなってしまっているようだった。
「あったまきたわっ!あんなやつ、いくら積まれようともうぜっ―――」
ブシュッと何かが噴き出す音と同時に、ぶつくさ言っていた独り言は聞こえなくなる。そして次に響き渡るのはグシュグシュというこれまた先ほど同様不快な音色。闇に支配されながらも家々から漏れる微かな明かりに反射する、黒い粘度のある何か液体のようなものが石畳に広がっていた―――。
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翌日の新聞では、記事一面にホワイトチャペル地区での殺人事件について取り上げられていた。テレビのような革新的な道具はないこの時代、新聞のような紙媒体のみが情報を得る唯一の手段であった民衆は、号外や新聞で得た知識を他人にひけらかし、それがまた言伝として一気にその情報は拡散されていった。
記事によれば殺害されたのはメアリー・アン・ニコルズという43歳の売春婦であった。殺人現場に駆け付けた医師によると首を最初に刃物で掻き切られ、死後に腹部を切られたらしい。
これがロンドンを恐怖のどん底に叩き落した凶悪連続殺人事件、『ジャック・ザ・リッパ―』の幕開けとなる……。
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