天国と地獄
『ひと月分』
朝起きたら、テーブルの上に封筒が置かれていた。寝ぼけた頭で封筒を開ける。
「お給金」
途端に私の脳は覚醒した。そうだ。もうここに来てひと月。あっという間のような、長かったような。現金な私は、封筒を手にして月日の流れをひしと実感した。
「お給金…!」
私は給金が出たら是非行きたいところがあったのだ。封筒を胸に抱きしめ、キラキラと輝く朝日を晴れやかな気持ちで迎えた。
ルンルンと朝からいそいそと動き回る私を、先生は不審そうに見ていたが今日だけは気にならない。先生の昼食が終わると、私は「出かけてきます」と書置きをして、意気揚々と家を出た。
あまりに浮かれていたので、バルコニーから先生が森に消える私を見ていたことは露も知らない。
ジュワアアアアと讃美歌の如くありがたい音を鉄板が奏でる。熱い鉄の上で跳ねる油。赤身と白身が美しい調和を作り出す。そう、これこそ。
「肉…!」
しかも、ちょっといいやつ。
「い、いただきまあす!!」
私は働き始めてこの喜びを知った。大勢の兄弟とおかずを取り合った幼少期。下から二番目の私はいつも負け越し、兄たちがおいしそうな肉をモリモリ食べているのを歯を食いしばって見ていた。
先生を差し置いて自分だけこんなに良い肉にありつくのは悪い気がしたものの、「一緒に行きましょう」と誘う勇気はなかったし、間違っても先生が来るとも思わない。
私は初めて買い物に出てきたときに既にこの料理屋に目を付けていた。ガラス窓から覗いた時に恰幅のいい紳士がぶ厚いステーキを頬張っているのを目撃したのである。
(あ、あれだー!)
そして今、それは私の目の前に鎮座している。
ミディアムレアでと注文を付けた肉は、ナイフを入れると素晴らしい塩梅で火が入れられているのが確認できた。私は心の中で拍手をした。
(先生すみません!食べます!)
肉汁滴る一切れを口に入れると、柔らかさに顔が綻ぶ。ああ、幸せ!このために働いてる!
「おいしい………!」
肉を堪能した次は、ガーリックライスだ。パンかライスか聞かれたが、私は断然ライス派だ。レストランによっては好みでないライスを使うのでリスキーなのだが、ここは大正解だ。ありがとう。
ひと噛みひと噛みに感謝し、私は念願のステーキ定食を平らげた。
(はあ……また、来月までさよなら…)
いくら割に合う給金だからと言って、そうそう度々こんな食事をしていられるわけでは無い。
私は両手を合わせて空になった鉄板と皿に別れを告げた。この動作は先生を真似てみたものだ。初めて見たときから「何だか素敵」と思ってやっている。真の意味はよく知らないが、日々の食事をただ摂るだけでなく、都度特別なものとして感じられるような気がして、習慣にするようになった。
「ありがとうございました」
店から出ると、陽の光が美しく家々の屋根を照らしていた。満ち足りたお腹と心がその光景を一層美しく感じさせ、私の幸せ指数は爆上がりした。
だから、というわけでは無いのだが。
「あー、いた。ルシル?」
私の名を呼ぶ声に覚えた絶望感が感情に大変な落差を生み、私はしばらく何も言えないまま、突然現れたかつての同僚を呆然と見つめることしかできなかった。
吉事と不幸が重なったような気分だった。出かけるときはあんなに浮ついていた気持ちが、今は地を這う程落ちている。
森のトンネルを歩きながら、先ほどレイヴンとした会話を鬱々と思い出す。
「レ、レイヴン…」
「ちょっとぶりだな…話がしたい。時間あるか?」
レイヴンと私は適当なカフェに入り、隅っこの席に落ち着いた。
「静かでいい街だな」なんて言いながら、レイヴンは窓の外を見ている。用があるのではなかったのか。
運ばれてきたコーヒーに手を付けず、私は非常に嫌々ではあるが痺れを切らして「何でしょうか」と用件を問うた。
レイヴンはあからさまな私の態度に苦笑した。
「ここまで逃げて来たお前には嫌な話でしかないと思うが」
「でしょうね」
「ニゼア様が連れ戻したいって聞かなくて」
私は「ひっ」と息を呑み、座っている椅子の背にしがみついた。本能的な反応だった。
「絶対無理」
「だろうな」
レイヴンも疲れたようなため息を吐いて自身の椅子にもたれる。彼は決して言わないが、きっとまだ貧乏くじを引きまくっているのだろうなと思った。
「何でまた」
「旦那様がな、本気なんだって」
「何に」
「お前に」
声にならない悲鳴が口から出て、全身に鳥肌が立った。
「みみみ見て、このさぶいぼ」
「見た。分かった。悪かった」
レイヴンが謝ることではない。けれど突然やって来てそんなホラーな話をするなんて。
「私、今もう働かせてもらっているお家がある」
「あー、そうなんだ」
「じゃあまだ良かった」とレイヴンは頬杖を突く。
「俺さ、連れ帰れって言われてんの」
私は無言でブンブン首を横に振った。冗談ではない。例え10万歩譲って戻ったとしても前以上の地獄が待っているのは明白だ。
「分かってる分かってる。お前がうんざりしてたのは皆知ってるよ。なんか、最後の方は気の毒でからかえなかったもん」
「あんなに面白がってたくせに」
「だって他に面白いこと無いんだもん、あの屋敷」
それは同意するが、面白さの対象とされた方は堪ったものではない。
「とにかく、いいさ今回はこのまま帰る。だってもう働いてんだもんな。仕方ない仕方ない」
レイヴンは幾分か嬉しそうだった。私をさっき呼び止めた時よりも大分顔色がいい。
「でもな、俺お前と会ったって報告はするよ。俺だって自分の身が大事だから」
「悪いな」と言い、レイヴンは眉を下げる。私は釈然としない気持ちで渋々頷いた。彼も仕事だ、そこは雇われる者としてある程度仕方ないと思える。
「そういえば、お前の足取り追うために探偵雇ったりとか、聞き込みとかやった。きもくてごめんな」
最後にあまり知りたくなかったことを言い残し、レイヴンは駅の方へと向かって歩いて行った。
今回は帰ると言ったレイヴン。
今回とは。次回があるのか。あり得るのか。
(うわあどうしよう…)
私が解雇になったあの件はまだ終わっていなかったのだ。しかも私が思っていたよりもはるかに事は深刻だったらしい。
夫人にビンタを食らって泥棒猫が屋敷を追い出されて終了。
よくある三文小説のように終幕してほしかった。第二幕なんかいらない。
ニゼア氏の気の迷いに関しては気持ち悪さが天元突破して「もう許して」という域だ。
「先生に相談し…」
いや。口に出しかけて、すぐに自身で否定する。
こんな面倒事、絶対に先生は好きじゃない。というかどんな面倒事もきっと「余計な事」に当たるだろう。
大体、私がこの街に来た理由も話していないのだ。思えば街の誰にも話していない。先生が聞かないならわざわざ話す必要はないのだろうけれど…。
『前の主に懸想をされて奥方に追い出されました』
(い、嫌!不名誉過ぎて言いたくない!!それに静かに幻滅されそう!)
私は頑として口を閉ざす方向に決意を固めた。先生は余計なことはしない。そうさ、研究以外は余計な事と思っている人だ。このまま何とか知られずに乗り切るしかない。
深呼吸をひとつすると、私は家のドアに手をかけた。
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