本編外:ホワイトデー
※ご注意※
現代パロです。
ここは生まれた国。私はルシル。長かった日本の滞在を終えて戻ってきたのは二週間前のこと。自国の親しんだ食べ物が懐かしかったときもあったけれど、こちらに戻ってきたら、日本の食べ物が恋しくなった。ないものねだり、我ながら現金。
だってしょうがない。あちらは食材も味付けも、結構違うのだ。こちらでは手に入りづらいものもたくさんある。戻って来てからしばしば嘆いていたら、先生が哀れんだのか先日知らない内に発注されていた「たまり醤油」が届いた。感激して泣いた。
そんな先生といえば、毎日お部屋に引きこもる生活を送っている。元々こうだったのが、日本でおでかけが多かった反動か、特に引きこもる時間が増えたような気がする。
日本では別の部屋で暮らしていたけれど、こちらに戻ってからはひとつ屋根の下。距離は近いはずなのに、あまり接触する時間はない。
(いいのだけど。住み込みの助手で雇ってくれているだけで十分なんですけど)
そもそも干渉NGの先生だ。お客さんでも煩がることを憚らないし、邪険にすることもいとわない。そんな信じられないくらい気難しい先生が、一緒に居る人間に下心があると知ったらどうするかなんて。
(どうするかなんて……!)
考えられるのは一択しかない。想像し、穏やかな春の日差しが差し込むリビングで青くなった。
「い、いやいやいやばばばばばばバレなければいいのだもの!」
変な汗が額を濡らす。どっきどっきと鼓動が鳴る。
(いけない、考えちゃいけない)
高速で嫌な考えと煩悩を振り払い、庭仕事をすべく外へ出た。柔らかな日の光に包まれる。まだ空気は冷たいけれど、もうすぐ暖かくなるだろう。
・・・・・・
「……」
フィリスは研究室にかかるカレンダーを、目を細めて眺めていた。決して視力のせいで睨んでいたのではない。視力は年の割には良い方だと自負している。
ぎっ、と椅子の背もたれが音を立てた。
「……」
三月十四日。それが本日の日付だ。フィリスの紫の瞳はカレンダーから机の上に置いてある箱へと移された。
ひと月前のあの日。まだ日本に居た頃。ルシルは日本ではバレンタインデーに贈り物をするらしいと言ってチョコレートを渡してきた。
フレーバーはほんの僅か、中に何も入っていないカカオの味のするチョコレートだった。フィリスは一粒一粒、数日かけて味わって食べた。
口にする度に彼女の顔が浮かんだ。
彼女はどういう気でくれたのだろう、と。
日本では確かにチョコレートを贈る習慣がある。しかし、全員がそうでないにしろ、あそこでは好意を抱いている相手に渡す、というのが通説だったはずだ。日本特有のその事情まで知った上のことだったろうか。
あれからの彼女に、特に変わった様子はない。おそらく、ただ「渡す」という行為のみを知り、倣ってみたのだろう。当然だ、彼女とはそういう関係ではない。そういう関係に成りえるなどとも思っていない。
しかし。
「……」
どうして自分は「知っていて渡したのか」と確認したいと思うのか。彼女に尋ねたところで、自分はどうしようというのだろう。そして、どんな答えを期待して訊こうというのだろう。
「……」
ため息を吐いた。己の欲求を満たすことと、彼女を困らせること。天秤にかけたらどちらが傾くなど、考えるまでもない。フィリスは己に呆れて酷く嫌になった。机の上の箱は、ルシルに用意したものだった。中には焼き菓子が入っている。日本を経つ前に日持ちのするものを調達した。
彼女のように、「日本では礼を返す習慣があるから」と渡せばいい。
フィリスはさっぱりとした面持ちで顔を上げ、そのまま立ち上がって箱を手に部屋を出た。まるで片づけなくてはならない仕事を済ませるかのように足早に廊下を進み、階段へ足を降ろす。
しかし、降り立ったリビングにルシルはいなかった。庭だろうとすぐにあたりをつけ、フィリスはその足でキッチン横のドアを出た。
ルシルはドアを出た先で草をむしっていた。ドアの開閉の音に気付き、パッと顔を上げてフィリスを見る。
「どうかされましたか」
「……」
目を瞬かせて驚くルシルに、フィリスは首を傾げる。どうして驚いているのかと思ったが、そういえば近頃、日中降りてくることは少なかったことに気づく。
「ご用事ですか」
「ああ」
「何でしょう!」
張り切ってルシルは袖を捲った。フィリスが首を横に振って応える。
「君を使おうというのではない」
「?」
「…………これを」
フィリスが差し出した箱を、ルシルが首を前に突き出してポカンと見つめる。
「手を」
「は……はあ……。……え?」
「手を」
呆然とするルシルに再度促し、フィリスはのろのろと差し出された手に箱をポンと置いた。そしてルシルが落とさず掴んだのを確認すると手を離す。
ルシルは箱に視線を落とし、目を見開いた。
「お……おかき!!!!!!」
その辺にいた鳥が大きな声に驚き、羽音を立てて飛び立った。ルシルが手にしたのは、日本にいたときに「おいしいおいしい」と喜んで、そして日本を離れるときに別れを嘆き悲しんだ焼き菓子——おかき———であった。
箱のパッケージに見覚えがあり、ルシルは文字が読めなくとも中身が分かった。喜びに目を輝かせるルシルを見て、フィリスが「よし」と頷く。
明るい顔を上げ、ルシルはフィリスに元気よく礼を言った。
「ありがとうございます!」
「……」
何のてらいもなく喜ぶ顔を晒し、ルシルはもらったばかりの箱を小さく掲げた。しかし次の瞬間、彼女は「あら」と目を瞬く。
「先生、どうしてこれを? 今日届いたのですか?」
ルシルは本日、宅配が来た覚えはなかった。この辺りでおかきを入手できる方法はなく、買いたければ通販に頼るしかない。しかも国際便。通常宅配物を受け取るのはルシルだ。外に出ていたときに届いたならばルシルが知らなくて当然だが、今日は一歩も敷地を離れていない。ちなみに昨日も同じく。
不思議がるルシルに、フィリスは表情を変えずに答えた。
「……君は先月、日本のバレンタインデーの習慣に倣ったと言った」
「? はい」
「日本では、一月後のホワイトデーまでがセットだ」
「ほわいとでー?」
聞き慣れない単語をルシルがオウム返す。
「左様。返礼の日だと思えばいい」
「あ! お、お返しを!?」
ルシルの目が大きく開き、頬が赤く染まった。フィリスはその様子をジッと見つめる。ルシルは目が合うと慌てたように頬に手をあて、視線を外した。
「申し訳ありません、お返しとセットなんて知らなかったものですから」
そうだろう、とフィリスは心の中で呟いた。知りたかったことの答えを得た。やはり、彼女は熟知した上でチョコレートを用意したのではない。
「ありがとうございます……! 大事に食べます!」
頬を緩ませるルシルの頭へ一瞬手を置くと、フィリスは背中を向け、家の中に戻っていった。
・・・・・・
「ホワイトデーかあ……」
知らなかった。流石、礼儀正しい国、ニッポン。お返しの習慣まであるとは。今も向こうに居れば、お店にずらっとホワイトデーのコーナーが並んでいたのが見られたのかもしれない。
(えへ。もらっちゃった)
今しがた先生からもらった箱を大事に抱く。それにしても先生も流石だ。日本の習慣をご存じで、こうして倣ってくれたのだ。
「私なんて、ろくに調べもせずにイベントに乗っかってしまったのに……」
そこではたと気が付いた。贈り物とお返しがセットになっているイベントだということを知っていたら、先生にプレゼントをしただろうか。
今になって思えば、なかなか畏れ多いことをしたのではという気になってきた。
(も、もしかして。知らずにやったがためにご無礼があったりとか……)
私は自分が軽率にしたことが恐ろしくなってきた。
「ま、まだ間に合う!!!」
青くなり、家の方へ駆け出した。今からでも調べなくては。日本のバレンタインデーとやらを。言い訳をするなら『なるはや』がいい。そしてできるなら今日中がいい。それもあまり時間を置かず。
「検索!」
『日本 バレンタインデー』
自室に駆け戻り、PCをネットに繋ぎ、上記の文字を打ち込んで検索ボタンを押した。すぐにまとめサイトのようなものがヒットする。私は迷わずにそれを開いた。
上から読み始め、二月十四日は~という文字を追う。
「……ふむ、バレンタインデーは、好意のある相手に……? ん? 好意?」
おや、とかなり早い段階でスクロールを止めた。目を瞬かせ、もう一度見る。
——日本では、好きな相手にチョコレートを贈る習慣があります。想いを伝えるチャンス~~(略)。
「…………」
たっぷり数十秒、私の脳は停止した。
がた、と椅子が倒れる音でハッと意識を取り戻す。振り返れば自分が座っている椅子が後ろに転がっている。いつの間にか立ち上がったらしい。
「…………」
唖然と口を開けたまま、もう一度サイトを見る。やはり、同じことが書かれていた。
カチカチカチカチカチカチカチカチ。
それから他のサイトも開きまくり、キーワードも変えて検索しまくった。
しかし。
「……やってしまった」
絶望して天井を仰ぐ。調べた結果、分かった。必ずしも好意のある相手に贈らなくてはならないものでもないし、友チョコや義理チョコというものがあるということも知った。しかし、やはりメジャーな認識でいくと、最初に読んだ通り「好きな相手にチョコを贈る日」というのが強いらしい。
「せ、先生……」
ホワイトデーという独特の概念を知っていた先生が、この事実を知らない訳がない。
「ああーー!」
私は頭を抱えた。どうしよう。
(私から渡されたとき、何て思っただろう! どういう気持ちで今日まで過ごして、お返しまで用意してくれたんだろう!)
どういうつもりで渡してきたのか、くらいは考えたかもしれない。
(ででででもその後普段通りに……)
いや。普段通りにしていたのは私だ。私が普段通りだったから「きっと好意があるという意味じゃない」と捉えた可能性は大きい。
『お世話になっているから』という体で渡したのだから、そう理解してくれることで正解なのだが……。
「————ッ!」
恥ずかしい、恥ずかし過ぎる。先生に「こいつまさか?」と思わせたかもしれないこと自体が、居たたまれない。そういうことを経て、しっかりホワイトデーに乗ってくれたことはもう奇跡としか言いようがない。
「うっ、うっ。調べなければよかった」
夕飯の時、どういう顔を向けたらいいのか分からない。私は殆ど泣きながらノロノロとキッチンに向かったのだった。
ぺたぺた、と足音をさせて先生が二階から降りてきた。食事の用意はもう整っている。そのまま席に着いてもらって問題ない。
「……今日はお魚のソテーです。そちらのソースはサラダに使ってください」
「…………」
戻ってきてからも、先生と一緒に食事を摂っている。元々は別だったのだが、日本に居る間に「こっちの方が都合がいい」ということになり、同席することになった。
密かにそれを喜び、毎食ルンルンで座っていたのだが、今日は向かいに座るのが非常に心地悪かった。
「…………ルシル、何かあったか」
(ひえ)
前を向けないことが直ぐにばれた。ずっと俯いていれば当然かもしれないが、出会った当初の先生からすると、こうして気にかけて言葉にしてくれるなんて考えられなかった。感激が追い打ちをかけ、いよいよ私の挙動がおかしくなる。
(む、無理~~~~!)
恥ずかしいやら嬉しいやらで顔が赤くなるのを禁じえない。私はカトラリーを置いて両手で顔を覆った。
「ルシル?」
不審がる先生が再度呼ぶ。もう何と応えたらよいのか分からず、私は指の隙間から先生を覗き、首を横に振った。これ以上は何もできない。耐えられず、ぎゅっと目を瞑った。
(どどどうしよう。いったん離席を申し出て……)
ぎ、と木が軋む音がした。そして人の気配が近づき、真横にやってくる。
(は、はわわわわわわ)
私が離席する前に先生が離席したらしい。
「ルシル、体調でも……」
「悪いのか」と言おうとした先生が、言い切る前に言葉をなくした。
(……?)
私も不審に思ってそろりと目を開き、先生を見る。先生は怪訝な顔で動きを止めていた。顔を覆ったままの私と、先生の目が合う。微妙な感じに互いの視線が交差した。
「……何故、そんなに赤くなっている」
尋常でなく赤いのか、先生が多少驚いた様子でそう口にした。体調不良とは違う何かの異常を察知したらしい。
お見込みのとおりである私は、言い淀みながらもにょもにょと口を動かした。頭はのぼせたようになっており、聞かれたことに対して答える以上の機能はなかった。
「さ、さっきバレンタインデーの意味を知りまして……」
「……!」
先生が一瞬目を見開いた。私は慌てて言い訳をすべく、手を離して先生をしっかりと仰ぎ見た。
「ああああああの、違うんです……! その、あの」
(本当に?)
違うだろうか。心の中で私が問いかける。本当に、違うのだろうか。そう言って、いいのだろうか。
「…………っ」
ぽたり、と涙が落ちた。「あ」と思った瞬間、先生と視線がぶつかる。紫の瞳が縫い留められたように私を見ていた。
(困らせてしまう)
謎に赤くなり、勝手に泣き出すという意味不明な行動を取ってしまった。私は急いで涙を手で拭い、先生から顔を背けた。しかし困ったことに溢れる涙は止まらない。
(えーーーーーーん!)
こんなはずではなかったのに。我がごとながら全く想像もしていなかった状態になってしまい、いよいよどうしたらよいかと泣きながら途方に暮れる。
「あ、の。すみません、ちょっと情緒が……」
だらだらと涙を流しながら断りを入れようとするが、先生の「ルシル」という声に引き留められてしまう。
「…………はい」
「君が知らずにチョコレートをくれたことは知っている」
「ぐずっ」
鼻をすすって答える私に、先生は気を悪くすることなく続けた。むしろ、雰囲気に温かさすら感じるのは気のせいだろうか。
「先ほど知ったからといって、どうして赤くなる」
「そ、それは……!」
本当に好意があるから。
どくり、と胸が鳴った。声にしなかった言葉が、届いたような気がした。先生が優しく私の手を掴み、逃亡を阻止する。
「私に聞く資格があるだろうか」
「――――っ」
どうしてそんなことを聞くのだろう。どうして先生のことが私に委ねられているのだろう。
指の腹で涙の筋が拭われる。信じられない。
「……私に、お伝えする資格はありますか……?」
「……」
逆に尋ねると、先生の眉が僅かに下がる。
「『ある』と言うには、私は年寄り過ぎる」
「そんなこと!」
私は食い気味に反応した。
「そんなことないです! す、すすすす素敵です! 何もかも……!」
「……」
若干、先生が「何もかも」に怪訝な顔をしたが、私は怯まず続けた。
「お、お伝えしてよさそうなのでお伝えしますが……!」
「……ああ」
私は「すーーっ」と息を吸った。先生がどこか申し訳なさそうに、そして同時に安心した様子で私を見つめる。
「——お慕いしております!」
自分でも驚くほどはっきりした宣言になり、言った瞬間にまた顔が赤くなったのを感じて固まった。
泣きながら熱く言い切った私を映した先生の目が、不意にくしゃりとする。
「……」
身を屈めて先生が近づく。私は引き寄せられるようにして、その白い髪に手を差し入れた。ぎゅ、と頭を抱えるようにして私たちは抱き合った。心臓の音がうるさく響く。
「……気持ちを返す。これからの日々を使って」
心に刺さる声が胸を震わせた。薄っすらと開いた目に映る世界が、煌めいて見える。
「……!」
あなたといる時間が、未来を照らす。その眩しさに、また涙が零れた。
お読みいただき、ありがとうございました!