本編外:障害物競走
エピローグ後のお話です。
天気は晴天。風はなし。コートデューの人々の声がよく聞こえる。
「さあさあ受付はこっちだよー! 待ちに待った障害物競走! 優勝賞品を獲得するのは誰だー!」
「受付お願いします! ルシル・オニバスです!」
私は意気揚々と、普段八百屋さんで会うおじさんにエントリーを申し出た。おじさんは「やっぱり来たな」と笑いながら私に番号の書かれたゼッケンをくれる。58番と書いてあった。
おじさんは大きな声で「残り42人だよー! 急げ!」と周りに知らせる。そう、今日はコートデューの障害物競走の日。企画元は商工会。ひと月前、街にポスターを貼るコルテスさんを見つけた。
『こんにちは、何かの催しですか』
『あ、こんにちはルシルさん。そうなんです、商工会の企画で障害物競走をします』
『障害物競走! 何ですか、景品も出るのですか』
私はポスターを凝視した。参加賞として、全員にコートデューの商店での割引券がもらえるほか、1着~3着までは豪華景品が付与されるらしい。
『1着は飲食店3店舗無料券(店舗問わず)……!?』
信じられない景品を目にし、コルテスさんをブンと振り返ると、彼は尊い笑顔でにっこりと笑った。
『に、2着もすごい……! 何ですかこのペンキ・資材のオーク屋スタンプカード5枚セット(押印済)って……!?』
『ふふ』
『ちなみに3着は……これは大変です。何てことだ。パン半年割引券ですって……』
『何てことだ』とついまた繰り返す。コルテスさんは『商工会は石鹸業以外の方も入られてますからねえ』と楽しそうに言い、丸めたポスターを脇に抱え直す。
『では。是非ご参加ください。ケチなことを言いますが、参加者は100人限定ですので』
手を振るコルテスさんを見送り、私は再びポスターを眺めた。胸の内では闘志の炎が燃える。それから私は連日、上位に食い込むべくトレーニングに励んだ。先生に遠くから見守られながら。
(よおおおし)
スタート位置につき準備運動をしていると、見る見る内に参加者は増えていった。あの景品なら当然だ。小さい子から大人まで。周りに集うライバルたちが皆強敵に見える。横のおじさんのランニングシャツと短パンがその本気を物語っていた。後ろからは「先週学校であったかけっこ一番だった」とか聞こえる。
(ま、負けない……!)
私だって体力と気力には自信がある。怯んではいられない。
「すうーーはあーー」
丹田に力を込め、精神統一を図る。心して、「スタート」の合図がかかるのを待った。
一方その頃。
「あっ!? 先生? ど、どうぞこちらへ!」
「何てこった、先生!」
「どうぞどうぞ、おかけください」
「……そちらは商工会の席だろう」
ルシルが気張って走ると言うので見届けに来た。競走が始まる前の時間、フィリスはぼんやりと立っていたら存在に気が付いた人々から声をかけられた。ついに企画元の商工会の皆が座る席に案内されてしまった。初めは「別にいい」と断っていたが、どうしても座らせたいと言われたので言う通りにした。
スタート位置ははるか先。人々の中にルシルが紛れている。ひと月間彼女は鍛錬に励んでいた。早朝のランニングに始まり、家事の隙間に腕立て伏せやスクワットをしているのを目にした。
果たしてそこまでする必要があるのかと思ったが彼女曰く「障害物競走ですから」。しかし見たところ道中彼女が懸念したほどの大掛かりな障害はない。ゴール手前には長机があり、その向こうには網が敷かれ、さらにその向こうはスタート地点だ。
障害がどんなものであれ、ルシルが怪我なく走り切ればいいとフィリスは思っている。
「先生、もうすぐ開始です」
コルテスがフィリスの隣に座った。コルテスの言う通り、スタート地点に係員が着く。そしてゴールまで聞こえる大きな声で「スタート!」と手にしていた赤い旗を降ろした。
「スタート!」
(始まった!)
スタート地点で待っていた参加者が一斉に走り出す。街の大通りがコースとなっており、道の両側には応援の人が並ぶ。
「はい、ここから30メートルは片足で進んでください~! 両足着いたらここまで戻ってきて再チャレンジですー」
先頭グループが片足でぴょんぴょんしている。私も少し遅れてその中に入った。
「んしょ、んしょ」
片足で跳ね続けるのはなかなかつらい。しかも早く行こうとして慌てるとバランスを崩す。隣や前方でうっかり上げていた足を地面に着いてしまう人が続出していた。ここは先頭グループに食い込むチャンスだ。私は慎重に、慌てず騒がず落ち着いてケンケンした。
「よっし」
コースに引かれた白線に到着すると、ようやく両足でのかけっこを許された。しかし私を待ち受けていたのは網。見れば大の大人がもぞもぞと、網に捕まった芋虫のように動いている。これはとんだ障害だ。
(行こう)
躊躇っている暇はない。ケンケンでリードしたとは言え、まだ油断ならない状況なのだ。バサッと網を持ち上げ、私も捕まった虫になる。
(う、進みにくい! 足や手が網の目に取られる……!)
他の大きなお友達同様、無様な格好でじたばたともがく。
「いえーい! お先に~!」
「な、何……!」
大人をすいすいと追い越していくのは児童たち。大人たちを横目に小柄な彼らは容易く網の中を泳いでいく。ここにきて子供たちに差を付けられてしまった。一番に網を出たのはスタート前に学校のかけっこが一番だったと話していた子。まずい、網を抜けたら彼の得意なかけっこだ。
「く! ま、待って!」
身を低くし、なるべく地面と平行になる。その姿は宛ら蜘蛛の様だったと後からコルテスさんから聞いた。
ともかく私は這いつくばって懸命に網をくぐり、何とか抜け出すことができた。振り返れば大人では一番だった。
(ここからだから!)
前方を良い子たちが走っている。彼らの家族が道の脇から声援を送っている。そんな彼らを追い抜いて勝とうというのはひょっとしたらもしかして大人げないのかもしれない。
(……いや、そういう企画ではないし)
早い者が勝者なのだ。私は心を鬼にして、トレーニングの成果を発揮した。ぐんぐん走る。どんどん差は縮まる。
「着いた!」
「僕も!」
私が最後の障害、長机に到達したのは、先頭の子と同時だった。私たちは顔を見せ合い、ライバル、いやもはや戦友と呼ぶべき不思議な感情を分かち合った。
「負けないよ!」
少年は私に向かって拳を握る。私は彼の拳に「私も」と自身の拳を合わせた。そうして闘気を高め合った私たちのもとに、商工会所属のお魚屋さんのご主人がやってきて、「ほい」と言って机の上に何か置いた。
「何ですかこれ」
「借り物ボックスだ。中に借りてくるものの紙が入ってる。借り物と一緒にゴールしてくれ」
急に借り物競争になった。障害と言えば障害なのかもしれないが、思ったのと違う。私と少年は揃って目を瞬いた。しかし企画側からそうと言われれば従うしかない。
私は大人として、少年に先を譲った。くじを引くことでそう差がつくとも思えない。
少年は「ありがとう!」と素直にお礼を言い、ボックスに手を突っ込んだ。ガサゴソとまさぐり、「これだ」と一枚折り畳まれた紙を引き抜いた。
私も続いて手を入れる。その間に少年は「ええとええと」と言いながら辺りを見回し、目当てのものを探していた。どうやら直ぐそばにはないらしい。
(よし、これにしよう)
えいやと取り出した紙を急いで開く。果たしてそこに書かれていたものは——。
(か、可愛いもの……)
一瞬目が点になった。そして私も少年と同じように回りに視線を彷徨わせる。
(可愛いもの!? そんな大雑把な!)
一概に可愛いものと言われても、人それぞれ感性は違う。持っていったものがゴールで「可愛いとは言い難い」と判定されることもあるのだろうか、反対に「可愛い」と言い張りさえすれば、何でも通るのだろうか。
「うーん、うーん、あ。サリーちゃん」
近頃お店に出てくるようになった、ミルク屋さんの4歳の女の子。あの子はどう見たって可愛いではないか。私はサリーちゃんがその辺にいないか目を皿にして探した。
「くっ。いない!」
それならば。
「マカロンさああん!」
猫ちゃんのマカロンさん。彼女は可愛さで人からご飯をもらっているような猫ちゃんだ。当然可愛いと判定されるに違いない。しかし。
「……出てきてくれない!」
声の届く範囲にいないのか、マカロンさんは現れない。困った。
(あとは、あとは)
私が頭を真っ白にして可愛いものは何だと探しているうちに、ほかの参加者が次々と問題をクリアして、手に何かを抱えたり、人を呼んだりしてゴールを目指していく。私は焦った。大いに焦った。この日のために鍛錬を積んできたのだ。結果を残さなくてはならない。
可愛いもの、可愛いもの……。
「やむを得ない……!」
私は意を決し、そして叫んだ。
「先生――――――!」
どこにいるか分からない先生を呼ぶ。見に来ると言っていたから、きっとどこかにはいるはずだ。大声で呼んで、大声で応えてくれる先生ではない。居れば挙手なり出てくるなりしてくれるだろう。
「あ、あれは……!」
ゴール付近のテント、明らかに関係者席の中で先生が立ちあがった。どうしてあんなところに居るのだろう。確か、「その辺で見ている」とのことだったのだが。
(い、いや今はそれよりも……!)
ゴール付近に居るのなら都合がいい。私はゴール目指して一目散に駆けだした。先生も落ち着いた様子でテントから出てくる。
「先生!!」
私は先生と合流すると、1メートル先のゴールの線を一緒に踏んだ。
「はーい、惜しかったね、3着だよ」
「や、やったあ!」
3着と聞き、しきりに「やりました」と先生に喜びをぶつけていたら、後ろから係りのおじさんが「ちなみに」と言って私の背を突く。「何でしょう」と振り返れば、なんと借り物のお題を見せろと言う。
「ど、どうしても……?」
「そりゃあ、一応」
仕方ない。私は先生に「ちょっと失礼します」と言って2、3歩離れ、おじさんにこそっと紙を見せた。
「か、可愛い……!?」
「しっ!」
危うく先生の方を見ながら大声を上げようとしたおじさんに堪えるよう合図した。
「これは審議じゃないか!?」
「あまり大きな声では言えませんが、可愛いんですよ! 可愛いところがあるんです!」
「ええ……?」
おじさんは思い切り戸惑い、ちらちらと先生に視線を送る。先生に怪しまれる、やめていただけないだろうか。
「おおいコルテス~」
なんと判断に困ったおじさんはコルテスさんを呼んだ。まずい、大ごとになる。慌てた私は「何ですか」とやってくるコルテスさんを迎え撃ち、「まあまあ」と言いながらなんとかこれ以上の追及を避けようと躍起になった。
「私が可愛いと言うのをどういう理由で否定なさるんですか」
「ああ……いや、これは。あの、ええ。感性には個人差がありますし。だから俺企画段階でもっと分かりやすい『猫』とか『本』とかにした方がいいって言ったのに……」
「そうですよ私の感性ではこうなります」
「あはは……」
「何か」
小声でこそこそと言い合っていた私たちの背後にいつの間にか先生が立つ。私たちの背筋が一斉に伸びた。「まずい、見られたか」と一瞬焦ったけれど、視界の端でコルテスさんが借り物のお題の書かれた紙を握りつぶした。彼は全く本当によくできる人だ。
「何かあったか」
「い、いいえいいえ何も! 全然!」
私はぶんぶんと両手を振って誤魔化す。
「先生、あちらで表彰がありますのでどうぞルシルさんと一緒に」
コルテスさんのナイスアシストに、先生は嫌そうに眉を寄せ、首を横に振った。
「……走ったのは彼女だ」
そして腕を組んでプイと明後日の方を見る。これは絶対遠慮宣言。
(ほうら可愛い……)
「ね?」とコルテスさんと係りのおじさんに目配せをしたが、二人そろって「何が?」という顔をしてきた。全然共感してもらえない。私は必死で頬が緩みそうになるのを我慢しているというのに。
「~~行ってきます!」
これ以上は表情筋がもたない、と思い私はそそくさと表彰台の方へと逃げる。先生の可愛さは誰かと共有しなくてもいい。私が分かっていればいいのだ。少しだけ振り返ると、こちらを見ている先生と目が合った。先生は小さく手を上げ、ほんの少しだけ微笑んだ。
『おめでとう』
そう言ってくれているような気がして、私はついにだらしなく表情を崩した。
お読みいただき、ありがとうございます!