本編外:ゲーム
エピローグ後のお話です。
卵と小麦粉、ミルクを混ぜて。練って。真ん中に穴を空ける。
「それ」
熱した油にそうっと落とすと、シュワワワワワと素敵な音がする。甘くて香ばしい匂いに思わず頬が緩む。
「もういいかな」
頃合いを見て油から引き上げると、きつね色に揚がったドーナツ。ホカホカと熱い湯気が昇る。これがとんでもなく美味しそうに見えるのだが……。
「わあ! 揚げたてだ!」
「あ」
横からひょいと手を伸ばしたのはイーダさん。私が止める間もなく熱々のドーナツに触れ、間髪容れずに「ア!」と高い声を上げる。私は慌ててその腕を掴み、水に突っ込んだ。
「当たり前でしょう! 油から上げたばかりですよ!?」
「うっ! だって、だって美味しそうで……!」
気持ちは分かる。が、素手で掴むのはいくらなんでも早まった。
「子供じゃないんですから……」
私が呆れて呟くと、イーダさんはとても悔しそうに「また言った! 年下の君に言われるなんて……!」と膨れた。その顔を見て、私は「しまった」と思った。彼は明らかに機嫌を損ねていた。
さっきまでドーナツが油の中でプカッと膨らむのを見ては喜んでいたのに、今度は彼がふくれっ面になってしまった。
こうなったイーダさんは面倒くさ、いや扱いに気を遣うということは経験上知っている。横目で見れば、わざとらしくプンとそっぽを向かれた。
「め、召し上がれ……」
粗熱の取れたドーナツに砂糖をまぶして盛り付けた。紅茶のポットも用意し、お茶の準備は万端だ。先生には声をかけたけれど、まだ降りてこない。いつ降りてくるのか分からないため、こういう時は先に失敬してしまう。先生も待たれては嫌だろう。
という訳で、ダイニングには私とイーダさんの二人。
「……」
ドーナツ越しにイーダさんの様子を窺う。まだ機嫌は直っていないらしい。私に「子供」と言われたことは勿論、せっかく遊びにきて火傷をしたのも気に入らないのだろう。
「……いただきます」
イーダさんはブスッとしながらドーナツに手を付け、熱さを確認しながらパクリと頬張った。
「!」
すると、さっきまでの不機嫌顔から一転、目をキラキラと輝かせる。分かりやすい。
「美味しいですか?」
「……」
イーダさんはドーナツを頬張ったままコクコクと頷いた。その様子に再度「子供みたい」と思ったけれど、今度は口に出さない。
「良かったです」
笑いながら答えると、イーダさんはご機嫌そうにまたドーナツを口にした。
「さてルシルちゃん、勝負だよ!」
「へ」
二人でのんびりお茶をした後、不意にイーダさんは宣言した。私が「なんのこっちゃ」と目を点にすると、どこからかイーダさんは木の板を取り出す。それは正方形のマスが描かれている盤だった。
「何ですかそれは」
「巷で流行ってるゲームだって。貰ったから持ってきた」
「ゲーム?」
首を傾げる私に構わず、イーダさんは他にもゲームに必要なものをテーブルに並べていく。人や動物を模ったコマだった。そして先の盤を指して、説明を始めた。
「こっちからこっちが僕の陣地。そっちが君の陣地。コマを動かして、相手の王様に自分のコマのどれかが辿り着いたら勝ち」
「ははーん。成程」
何だか面白そう。とりあえず言われた通りに自分の陣地にコマを並べた。コマによって動かせる範囲が決まっているらしい。これは頭を使う。
「僕のことを子供だと言ったの、後悔させてあげるよ!」
「……」
根に持っていた。元々ゲームをするつもりだったようだが、これで雪辱を果たすことにしたらしい。「すみませんでした」と謝ってみても、「それは勝負で君が負けてから!」と叱られる。
私は勝ちたいと思ってやればいいのか、負けた方がいいのか、スタンスが定まらないまま、ゲームが始まった。
「か、勝った……!」
「僅差ですよ、僅差!」
数十分後。立ち上がったのはイーダさん。私は机の上で拳を握り、勝者を見上げた。悔しい。かなり接戦だったのに。あと二回番が回っていたら勝っていたのに。
「勝ちは勝ちだよ!」
「きいいい!」
イーダさんが得意顔で私を見下ろしてくる。その顔を見て、私はムキになった。
「もう一戦やりましょう!」
「ふふん! いいよ!」
リベンジの申し出をイーダさんは余裕ぶって受け容れる。私たちはそのまま二回戦へと突入した。
「ここを見逃しましたね!」
「ああっ⁉ ……い、いやまだだよルシルちゃん」
「……何をしている」
私達が白熱した戦いを繰り広げていると、先生が階段を降りてきた。テーブルの上のドーナツの山と、前のめりになってゲームをしている私たちを紫色の目が行き来する。
「……」
先生は何も言わずに自分の席に座り、ドーナツを摘まんだ。もくもくと食べながら私たちを眺める。ドーナツついでに観戦するつもりのようだ。私たちは試合を再開した。先生が見ていると思うと、やる気が高まる。
「……」
「……ッ!」
「…………」
緊迫した空気の中、私とイーダさんは息を呑み、そして先生はドーナツを頬張る。
(いつの間にか追い詰められて……!)
私が長考に入り、必死に活路を見出そうとしている一方、イーダさんは勝ちを確信したらしく、フッと息を抜いて笑みを湛えた。
(く、悔しい!!)
「……」
ふと、私を見ていた先生と目が合った。「頑張れ」と言われている、そんな気がした。
(先生に格好悪いところは見せられない!!)
私は盤上に視線を戻し、親の仇のように睨みつけ、そして——。
「ここだ——————!!」
「悔しい」と机に伏すイーダさん。私は先の戦で惜敗した無念を晴らし、晴れ晴れとして冷めた紅茶を飲み干した。熱い戦いだった。喉が渇く。
「……ここに進めればイーダが勝っていた」
それまで黙っていた先生が、トンと盤に指を置く。
イーダさんはガバッと顔を上げ、私は目を見開いた。「危なかった……!」と胸を撫で下ろせば、イーダさんは「そっか……!」と一層悔しがる。
しかしそこで「ん?」と私は首を捻った。
「先生、このゲームされたことありますか?」
「いや。見て粗方把握した」
「「…………」」
私とイーダさんは顔を見合わせた。イーダさんは渋い顔をしていた。恐らく、私も。いい勝負ではあったが、そんな、ちょっと見ていただけなのに、それなのに。
(そんなにあっさり私たちを上回られては……)
我々の気持ちは一つだった。
「「先生」」
私とイーダさんは声を揃えて先生を呼んだ。先生は何事だと怪しんで眉を寄せる。
「「次は先生も」」
「……」
先生は特に嫌そうでもなく、そして同じ位乗り気でもなさそうな様子でドーナツの咀嚼を続けた。
私とイーダさんはそれを良いように受け取り、席替えを敢行した。イーダさんが私の隣に移動し、あっという間に『先生VS私&イーダさん』の図が出来上がった。
「二人がかりか」
ドーナツを飲み込んだ先生が声色に微かな笑みを含ませて問う。何だかそれがいたく余裕そうに見え、私たちは奮起した。
「フィリス師、余裕なのも今の内ですよ!」
「そ、そうですよ!」
「ほう」
ムキになっているのは私たちだけで、先生はいつも通り。その落ち着きぶりが私たちを益々煽る。イーダさんがとんでもなく大胆なことを言ってしまうくらいに。
「ぼ、僕たちが勝ったらフィリス師! お願いがあります!」
(え!? イーダさん!?)
私は一瞬冷静になり、イーダさんに「そんなことを言って大丈夫か」と目を向けた。しかしイーダさんは止まらない。心なしか興奮して顔が赤くなっている。
「僕が勝ったら、弟子を名乗らせ」
「イーダさんイーダさんイーダさん」
首をブンブン振りながら、イーダさんの袖を引く。熱くなってしまったのかもしれないけれど、それはどうだ。
「そんなこと、ゲームの勝ち負けでお願いしていいんですか!」
「あっ」
どうやら普段から抱いていた熱い願望が漏れ出てしまったらしく、本人も慌てて口を覆った。
「い、今のはなしで! そ、それはその内、僕が努力して」
「すると」
「はい?」
イーダさんが必死に弁明しているのを遮るように先生が口を開く。さっきのイーダさんの失言には全く興味がないようだ。それはそれでイーダさんが気の毒になる。
先生は頬杖を突き、見下ろすように我々を見ていた。ゆらりと紫色の目が瞬く。
「私が勝った場合は、私の希望を叶えるんだな?」
妙に圧のかかった訊き方だった。
「「……」」
私とイーダさんは顔を強張らせ、小さく「ハイ」と返事をした。既に、後悔の念が我々を襲い始めていた。
「参りました…………」
勝敗は火を見るより明らかだった。ボロ勝ちしたのは先生である。二人分の頭脳を合わせても歯が立たなかった。何回も「作戦会議」を許してもらったのにこの様だ。私たちは絶望して机に沈んだ。
(どう、どうして)
チラリと時計を見たが、私とイーダさんの激闘の四分の三の時間しか使っていない。どういうことだ。
「さて」
先生の声に、私たち二人はびくりと肩を揺らす。恐る恐る顔を上げれば、勝ったのに嬉しそうでも何でもない感じの先生が佇んでいる。
「イーダ」
「ハイ」
イーダさんの声が固い。私は彼の身を案じてそっと視線を送る。
「夕食まで、書斎の整理の補助」
イケメンは険しい顔から一転、パアアと嬉しそうに笑う。
「はい!」
(い、いいな!!)
ガタリ。イーダさんがやる気を出して立ち上がる。私は書斎の整理を禁じられている身なので、許可された彼が妬ましい。イーダさんもその事情を知っているため、「悪いね」などと言ってくる。しかも軽い感じに。
(きいい! 自分だけいい思いを! 負けたのに! 負けたのに!)
こうなったら私も何か申し付けてもらわなくては。イーダさんが地団駄を踏んで羨ましがるような何かを。
「先生、私は何をいたしましょう!」
「別に」
意気込んで尋ねてみたものの、返されたのは全く気のない答え。いいや、そういう訳にはいかない。私だって負けたのだから、せめて彼と同じ扱いを。
「い、いえでも私も敗者の片割れですし」
「特に」
「…………」
私は内心で額を押さえた。こりゃ駄目だ。喩え粘ったところで、話が平行線になるだけだろう。そういう雰囲気をビシバシ感じる。
イーダさんだけ殆どご褒美の、楽しそうなお手伝いに誘われ、私は何もなし。当然釈然としないし、面白くない。
「お先に!」
イーダさんは早速書斎に行きたいようで、そそくさと階段を上り始めた。裏切者、と私が睨んでもどこ吹く風。子供だ。あの人は本当に。
彼一人を大事な書斎に行かせる訳にはいかない。「補助」と言ったからには、先生も自身が主としてやるつもりだろう。
(仕方ない)
ここでごねても時間の無駄だ。私は「はい」と大人しく返事をした。
(じゃあ私はお夕飯の支度でもしましょうかね)
私もよっこらせと立ち上がり、頭の中で本日のお品書きから調理の行程を立てる。
「……君の心身の健康を除き、わざわざ今願うことはない。まして勝負ごとを理由に」
二階へ続こうとする先生が私の横で立ち止まった。先の問答の態度が露骨過ぎたらしい。先生が気にしてしまった。私も大概子供だったことに気が付くと、ジワリと頬が熱くなる。
「いえ、その。はい。すみません、ちょっぴりイーダさんだけ、と思ってしまいました」
決まりが悪く、もごもごと口をすぼめて言い訳をした。視線を逸らし、俯いた瞬間——。
「ぐっ」
ぐいと顎を掴まれる。いや、顎に手を添えられる、くらいの力加減だったが、驚いて弾かれるように自然と首をもたげた。
「……」
間近で紫色の目が私を見ている。深くて吸い込まれそうな瞳に胸がドキリとした。
「あ、あの」
「強いて言えば」
何か言わなくてはと口を開いたが、被せるように先生が言葉を紡ぐ。
「“君の要望を叶えよう”というところだ」
「は……?」
ポカンと間抜けな反応をした私に、先生は大真面目な顔で迫った。顎はまだ解放されず、視界を先生の顔が埋めている。心臓の脈が速く、そして大きくなる。
「要望は」
(お——)
おかしい。どうしてそうなる。何故勝者からのお願いが、「敗者の希望を叶える」ことになるのだ。結果としてイーダさんも同じことになっているけれど。
(いやいやいやいや)
頭の中が沸騰したように熱い。そんなこと急に言われたって。要望なんて……。
『もっとお話したい』、『抱き着いていいですか』、『頭を撫でてほしい』etc.
ある。たくさんある。おそらく先生が思っている以上にある。口にも出せず、紙にも書けないようなやつまで。
無意識に目を泳がせれば、先生は催促するように眉を寄せ、首を傾げた。
(あわわわわわ)
どうしよう。近い。私は目をギュッと瞑った。何も考えられないまま、口が動く。
「せ、先生と——!」
「フィリス師————!!」
私の声をかき消したのは二階からのイーダさんの大声。中々先生が来ないので痺れを切らしたのだ。
「フィリス師——! 手前の棚から始めていいですか!?」
先生の書斎に入ることが許されたどころか、弄っていいと言われ、嬉しくてたまらないのが手に取るように分かる声。世界は彼のために回っているのではないかという気さえしてくる。
「……あの、イーダさんが勝手に触ってしまう前に」
「…………」
先生は呆れた顔で大きく頷き、私の顎から手を離した。やれやれという雰囲気を醸し、階段に向かう。私は勢いで変なことを言ってしまわなくて良かったと、密かに安堵した。
(危なかった……。私、何を言おうとしたんだろう。いいや、何にせよ、これでお話はおしまいに)
ホッとして私もキッチンへ、と身を返した時。
「後で聞く」
「……え」
ブンと振り向けば、先生はもうそこには居ない。
(あ——後で……?)
私は愕然とした。何てことだ。さっきので「おしまい」にはならなかった。先生は本気だ。口にしたからには実行する。イーダさんにかき消された私の言葉の続きを絶対聞きにくるだろう。
(どどどどうしよう)
何か、何か考えておかなくては。一人になった私は、嬉しいやら困るやらの先生の申し出に頭を悩ませながら、三人分の夕食の用意にとりかかった。
「一緒にお茶を」
「却下。普段からしている」
「え! で、ではお散歩を」
「それも然り」
必死に考えたお願いが悉く却下され、予想以上の追及を受けることになろうとは、この時はまだ想像もしていない。
お読みいただき、ありがとうございます!