本編外:見つめるのは
エピローグ後の話
☆書籍化御礼小話
「ルシルさん、髪が伸びましたね」
家に石鹸のことについて先生に相談に来ていた商工会の会長、コルテスさんが帰り際に言った。私はそういえばと髪に手を遣る。
「こちらに来てから髪を切っていませんでした」
「いつもどうされていたんですか?」
「お店に行くか、どうしようもないときは自分でどうにかするか」
「自分で!?」とコルテスさんは目を開いた。
「あ。人のは割と切れるのですが、自分だと難しいです。できればお店に行きたいです」
「人の髪は切れるのか……」
「どこか、街にありますか」
私の質問にコルテスさんは「もちろん」と破顔した。
部屋の鏡の前で、結っていた髪を解く。ばさり、と髪の重みを頭皮に感じた。伸びた。大分伸びた。気が付いてはいたけれど、人に言われるとより一層そんな気がする。
コートデューに来てからもう一年以上が経っている。括ってしまえば特段不便は無かったけれど、やはり乾くのは遅いし、毛先は傷む。ここは気分転換にも、髪を切りに行こうか。
(どれくらい切ろうかな)
肩をとうに過ぎた長さになった。せっかく切るのならバッサリいきたい気もする。
(でも結べるくらいの長さがあると、邪魔にはならない)
スープを食べるときに髪が垂れてスープに浸るという経験を思い出し、あまり思い切って短くするのもどうか、と脳がブレーキをかけた。
(大変身したら先生がびっくりしてしまうかもしれないし……)
ふと、いつの間にか俯いていた顔を上げる。髪を切った後の先生の反応。気づいてくれるだろうか。言及はあるだろうか。
思い付けばどうしても期待してしまう。反応が楽しみだと思ってしまう。頭の隅っこから「期待しすぎないこと」という警告が発せられているが、今の私はワクワクの方が勝ってしまう。是非すぐにでも髪を切りに行きたい気持ちが高まった。
『街に出かけてきます。ちょっと時間がかかるかもしれません。』
私は二日後、昼食を終えた後にわざわざ書置きをして家を出た。先生を驚かせたくて、どこに何をしに行くのかは頑張って秘密にした。楽しみが過ぎてうっかり「明日髪を切りに行ってきます」と昨日何度言いそうになったことか。内緒にしているのは当然、誰に頼まれた訳でもない完全な一人遊びなのだが、普段平穏・平和な暮らしの中にいるからか、私はいつになくドキドキワクワクして過ごした。
先日コルテスが来てから。ルシルの様子が妙だとフィリスは感じていた。いやにソワソワし、ガラス戸の前で髪を撫でている。何をしているのかと観察した結果、あれはガラス戸の向こうを見ているのではなく、彼女は映った自身を見ているのだ。
それだけでも平時の彼女と比べて不審な行動であるのだが、それ以上に気になったのは、どことなくニコニコと、嬉しそうにしていることだった。
「……」
食事中や、何気なく共にいる時。彼女の機嫌は大抵良いが、この二日は輪をかけて明らかに上機嫌だった。フィリスは幾度となくニコニコ顔のルシルから見つめられ、困惑した。
何か言いたいのかと思わせるような素振りまで見せるのに、フィリスが「何か」と訊けば、慌てて首を横に振る。常時しっかり者でそつのない彼女がどうしたのかと、フィリスは考えた。その結果。
浮かれている。
あまりいい表現ではないと思ったが、フィリスはルシルの状態をそう結論付けた。
しかし、何に。
状態は分かったが、理由が分からない。ルシルにとって憂うことではないのならば、案ずることはないのだろう。ルシルは羽目を外したり、くだらないことをしでかす人間ではない。彼女にとって喜ばしいことがあったのなら、幸いだ。
「…………」
なのにどうしてこうも落ち着かないのだろう。フィリスは読んでいた本を下ろし、頬杖を突いた。組んでいた足を組みかえ、外を眺める。
フィリスはうんざりした。
何でも、全て、逐一、洗いざらい。自分に伝えさせる必要は無い。
当たり前にそう思うのに、一度ルシルの事が気にかかれば頭から離れなくなった。そんな自分自身に信じられない位うんざりする一方で、まだそんな人間らしい感情が働くものかと感心した。いや、蘇ったのだ。他ならない、彼女のおかげで。
フィリスは徐に立ち上がった。「何があった」と、ルシルに聞けば全て解決する。無駄を嫌うフィリスは早々に決断した。
しかし。フィリスは再び窓の外を見た。
出かけたな。
ルシルが家を出た。自身もバルコニーに出て、彼女の姿を探す。すると、森のトンネルに足取り軽く入って行く影が見えた。フィリスはため息を一つ吐く。そして一階に残された書置きを見て、彼女の戻りを待つことに決めた。
ルシルが浮かれている理由のために出かけたのだと、手に取るように分かったのだった。
「どれくらい切りましょうか」
鋏を持ったお姉さんが鏡越しにニコニコと問う。私は心の中で「来た!」と身構えた。
「か、肩くらいで」
「あら~結構切っちゃいますね」
明るいお姉さんの声に、私は神妙に頷いた。結構切っちゃう、そう決意したのだった。
「結べるくらいあると嬉しいです」
私が注文を加えると、お姉さんは「分かりました」とあっさり承ってくれた。よくある要望なのだろう、お姉さんは私の髪を触りながら具体的な長さや量の調整へと移る。私は久しぶりのイベントに気持ちが高まりっぱなしだった。
「じゃあ、髪を洗ってから切りますね」
そう言ってお姉さんが私に移動を促したとき、私は「あの」と声をかけた。お姉さんは「はい」と笑顔を返す。
(ほ、本当に言おうか、どうしようか……ええい言ってしまえ!)
一瞬の葛藤の末、私は。
「お……大人っぽくしてください……」
「……」
脳裏に先生がちらつき、言っている途中から恥ずかしさに襲われた。言葉尻が自然と小さくなり、言い切る頃には「やっぱり言わなければ良かった」とさえ思った始末。顔に猛スピードで熱が集まった。
「スミマセン。忘れてください」と言いかけたところに、お姉さんが私の両肩ガシっと掴んだ。驚く私の顔をお姉さんが後ろから覗き込む。
「任せてください!!」
お姉さんの優しさに、私は恥ずかしいやら、嬉しいやら。
(よろしくお願いします……)
顔を覆って頷いた。
頭が軽い。いい匂いがする。どうして髪を切っただけで、こんなに気分が上がるのだろう。早く先生に見せたい。気持ちが逸り、家へと向かう足が段々と駆け足になる。
「あっ!」
私はハッとして髪をやんわりと手で押さえた。もう数回、同じことを繰り返している。家に急ぎたいのに、走るとせっかく綺麗に整えてもらった髪が乱れてしまう。
「大丈夫。あと少し。大丈夫。慌てなくても、先生には絶対見てもらえるんだから」
そう自分に言い聞かせると、可能な限り早く歩くことに努め、私は森の中を猛進した。
息を弾ませてようやく家に辿り着く。森に囲まれた我が家は、鮮やかな緑に包まれている。青空を掲げる白い家が森の緑に浮かび上がる様。
「あら」
改めて家の素敵さにときめいていると、バルコニーに人影が現れた。
(先生)
私は玄関ではなく、庭へと向かった。あれだけ気を付けて来たけれど、無意識に駆けていた。バルコニーの下から、先生を見上げる。先生は手すりに肘をかけ、こちらを覗きこむ。
私が先生に声をかけようとした瞬間、風が庭を走り、私を追い越した。整えてきた前髪がふわりと揺れる。
慌てて前髪を撫でつけると、頭上から声が振ってきた。
「おかえり」
私は嬉しくなって、短くなった髪を見せるように頭を軽く傾けた。結っていない髪がサラリと零れる。
「髪を切ってきました」
先生の目元が柔らかく細められた。
家の中に入ると、先生がリビングから玄関へ出て来るところだった。さっきまで二階に居たのに。素早い。
私が靴を脱いで先生の前に立つと、先生はしげしげと私を見つめた。
(い、いかがでしょうか)
じわじわと照れ臭くなってきた私は、とても先生を見返すことができずに視線を逸らす。
「大分切ったな」
先生は私を眺め続ける。胸がドキリと弾み、口を引き結ぶ。ドギマギしながら私は頷いた。
「懐かしい」
その言葉に「え?」と思って先生を見ると、先生は通常通りの無表情ではあったものの、心なしかいつもより纏う空気が柔らかい。
意図を問うように私が首を傾げれば、先生は淡々と言う。
「君がここに来た時はその位であったと記憶している」
「あ……」
予想外の指摘に思わず声が漏れた。
「そうでしたでしょうか」
髪を摘まみ、どうだったかなと考える。あの時は他のことの記憶が強すぎて、イマイチ自分の髪の長さが思い出せない。
「……君は私ばかり見ていたからな」
「!!」
カーっと顔が熱くなる。
(あれは先生の動向を観察していただけで……ッ!)
言い訳をしようと口を開きかけたものの、グッと留まる。
(じ、事実……先生は事実を言っているだけ……)
「だから自身のことを覚えていなくても仕方がない」という意味だろう。勝手に恥ずかしがっていることがもう恥ずかしい。
「何故照れる」
両手で顔を覆っている私に、先生が怪訝そうに訊いた。
(あなたが原因なんですよ……!)
ああ、憎らしい、恨めしい、愛おしい。
私はバッと顔を上げ、そのまま勢いに任せて口を開いた。
「今も! 先生ばかり見ていますよ!」
言い終わるやいなや、私は先生の反応も待たず、リビングに駆け込む。いつも言い逃げするのは先生だが、今日は私の番だ。とは言え、実を言うと恥ずかしさに堪えられなかっただけなのだけど。
逃亡先はキッチンだった。私は隅っこの壁に額を付けて身を震わせる。
(ぐううう!! 髪型の感想! もっと聞きたかったのに!)
あの場に残ったところで先生からあれ以上の感想が出て来るかは定かではないが、先日から先生の反応や感想を心待ちにして浮かれていたのだ。こうして恥ずかしさに負けて逃げ出してきたことが非常に悔やまれた。あんなことを言う先生も先生だ。
(もう……もう……)
そうしてどのくらい悶々としていただろうか。
ふと、リビングを見渡した。
(あら? 先生は?)
あれから、先生がリビングに来ていない気がする。全く音も立てず、気配を完全に消して移動していたら分からないけれど、そうでなければ気が付くはず。少なくとも、二階へ上がろうとしたなら、ばっちり姿が見えていて然るべきだ。
(まさかまだ玄関に……)
何となく嫌な予感が過ぎり、私は恐る恐るキッチンを出て、リビングから玄関の様子を覗いた。
するとそこには依然として先生が立っている。
(何故!?)
何故まだ玄関に居るのだろう。しかもそんな腕を組んで考えている風で。
やむを得ないので、「あの」と先生の背中に声をかけてみる。先生は背中を向けたまま答えない。これはまさか気分を害したかと不安になり、私は再び「先生?」と呼びかけた。
二度目の声掛けで、先生はようやくこちらを向いたものの、その顔はどうしてか難しい。
「先生……ええと」
「悪い。呆れていただけだ」
「え」
ギクリとした私の頭に先生がポンと軽く手を置く。
「君にではない」
「……」
(では、何に)
意味が分からず私が先生を見つめていると、先生はため息を一つ吐いた。
「君の」と言いながら先生の眉間から皺が消える。
「些細な言動に揺れる自分に呆れただけだ」
「……ッ!」
心底がっかり、というトーンで喋る割には穏やかな顔をしているし、不快そうな様子も無い。先生はポカンとしている私に温かな眼差しを向けた。
「短くなった」
何てシンプルな感想だろう。当たり前だ。切ったのだから。私が期待したのはもっとたくさんの……。
「はい……」
先生は私の小さな返事にひとつ頷くだけ。余計な言葉は無い。
(ああもう……)
それだけなのに、どうしてこんなに胸がいっぱいになってしまうのだろう。そして、どうしてこんなに胸がいっぱいなのに。
私は先生に近づき、そうっと先生の胸元に額を寄せた。
「……」
「…………」
どうして。もっと、と願ってしまうのだろう。込み上げる愛しさが、先生に触れる額から伝わればいい。
「……ッ」
先生が私の髪先に触れる。間近に感じる気配と体温に思考を奪われた。私はたまらずに目をギュッと閉じた。
温かさが胸を突く。
髪先で遊ぶ指が、熱い頬を掠めた。
お読みいただき、ありがとうございます!




