本編外:お酒の席
エピローグ後のお話
街で食料や新しいタオルを買って帰るところへ、私に「ルシルちゃん!」と声をかけたのはリリアさんだった。
「お久しぶりです」
「本当よ!」
街に来ても滅多に顔を合わせることのない彼女。最後に顔を合わせたのは「解雇されました」の挨拶に行ったときではないかと思う。
リリアさんは今日も可愛らしい。多分彼女の方が年上であり、見た目は大人っぽいのだけれど、仕草や雰囲気が何とも可愛いのだ。
リリアさんは少し頬を膨らませて、ツン、と私を突いた。
「ルシルちゃん、一回くらいお店に来てよ。先生も一緒に」
私は目をパチパチと瞬かせた。
(先生と、リリアさんのお店)
彼女のお店はバーだ。ということは、お酒の席。私は先生とお店に行くことに思いを馳せる。青い空が一層晴れ晴れとして見えた。
「先生、もしよろしければ、夜にお出かけしませんか」
昼食のグラタンシチューにパンをじゅわりと沈めていた先生は、こちらにジロリと目を向けた。食べることを優先し、浸した一切れをもくもくと咀嚼した後、「どこへ」とまるで興味のなさそうなトーンの返事がなされた。
反応が薄いからといってめげていてはやっていけない。私は「リリアさんのお店です」と言い、先のことを説明した。
「ストーカー騒ぎの時も、猫になっていた時も大分お世話になりましたので、一度お伺いしたいのですが…」
私が猫になってご飯をたかっていたことをリリアさんは知らないままだけれど、命を繋いでもらっていたお礼はしなくては、とずっと思っていた。個人的にはよい機会なのである。
先生は無言で頷いた。これは許可と翻訳して差し支えないだろう。
「ありがとうございます」
私が嬉しくて頬を緩ませると、先生は「時に」とまたパンを浸しながら話し出す。
「君、酒は飲めるのか」
「…少しだけ」
私が半笑いで答えると、先生は納得した様子で頷く。
「そういう言い方をする人間は大概少し以上飲む」
「………」
(ぐう…)
身に覚えのある私は何も言えなかった。
夜の帳が降り、星がチカチカと光る中、私は先生と共にリリアさんの店のドアを開けた。カランカランとドアベルが鳴り、私たちの来訪を中の人々に知らせる。
カウンターに居たリリアさんは、私たちを見るとパッと笑顔になった。
「きゃあ!本当に来てくれたの!どうぞどうぞ!」
カウンター席は五つ。私は両側に人が来たら先生は嫌だろうと思い、端の席を先生に「どうぞ」と勧める。しかし先生は首を横に振り、「君が」と断った。
(いいのかな)
視線で尋ねると、先生はひとつ頷く。私はこそばゆい気持ちを抱え、こそこそとカウンターの一番端に座った。続いて隣に先生が腰を下ろす。
店内には既に客が数名いた。8つあるテーブル席の半分が埋まっている。仕事終わりに飲みに来たのであろう壮年の男性や、明らかにデートと見受けられる男女、リリアさんに会いに来たファンたち。
「先生…?」
「先生だよな…?」
彼らの目がこぞって先生に向けられ、確かめ合うように囁きが漏れる。当の先生は全く動じていないと言うべきか、完全に無視していると言うべきか。先生は案の定メニューをジッと眺めていた。
(強い)
動揺と緊張に包まれた他の客の空気をリリアさんが「誰が来たって自由でしょ!」と破った。すると客たちは「そうだそうだ」と再び杯を交わし合う。私はホッとしてリリアさんを見れば、茶目っ気たっぷりのウインクが返ってきた。惚れた。
「何を飲む」
完全に我関せずの先生は、もう目を通したのか私にメニューを差し出してきた。渡されたのは手書きのメニューカード。リリアさん直筆だろうか。見た目に寄らず、えらく味のある字を書くと思った。
(ええと…)
私はそこに羅列される素敵なものの数々に心を躍らせた。
(うわあどうしよう…迷っちゃう…)
メニューカードを握りしめて凝視していたら、隣から先生が体を傾けて一緒に覗き込んできた。そういうことをするなら先に言って欲しい。ドキドキした。
「どれだ」
言葉が大分足りないけれど、きっと「どれで迷っているのだ」と訊かれているのだと思う。
「た、食べ物が大変興味深く…!」
先生の目が「食べ物か」と言いたげにわずかな呆れを示す。
「まずは飲み物よ!ほら決めて!」
私たちの間ににゅっと身を滑らせて、リリアさんが笑う。
「じゃ、じゃあウイスキーで…」
「…」
先生は何も言わず、リリアさんは「意外と渋いわね」と真顔になった。放っておいてください。
リリアさんに飲み方を訊かれ「ロックで」と答え、またおつまみ欄を睨む私を、先生は何とも言えない顔で見てきたが、私は目を合わせないように必死だった。
「美味しい!このチーズとっても美味しいです!」
「よかった~。それ遠くから取り寄せてるのよ」
(このオイルサーディンも私では思い付かない味付け!)
私はせっせと先生の小皿におつまみを取り分ける。悩んだ末にいくつか頼んだおつまみはどれも絶品で、是非先生にも味わってもらいたい。
「美味しいですね」と言うと、先生から静かに「そうだな」と返ってくる。いつもと違う場所で、いつもと違うことをする。それが嬉しくて楽しくて、始終私の顔は緩みっぱなしだ。
カラン、とグラスの中で氷が鳴る。いつの間にか、グラスは空になっていた。
「…」
無言で先生がウイスキーの瓶をこちらに向け、わずかに傾けた。瓶を持つのと反対の手で頬杖を突き、興味深そうに私を見ている。
「まだ飲めるだろう」
「…はい」
私が何となく恥ずかしくなって小さく返事をすると、先生は三センチ程私のグラスに琥珀色の液体を注いだ。大きな丸い氷が液体を纏う。店内の明りを反射した。
「ありがとうございます」
先生にお酒を注いでもらう。何て味わいのある、趣深い経験だろう。私がじんわりと素敵な雰囲気を味わっていると。
「せんせいったら、そんなに飲ませてどうする気~?」
突然、酔いが醒め、背筋も凍るような発言が背後から飛んできた。
(ど、どこの者!?そんな恐ろしい軽口を先生に…!)
どんな命知らずかと振り返れば、デートで来ていると思しき、テーブル席に居た青年。空のグラスをリリアさんに渡そうと手を伸ばし、「もう一杯」と言っている。
(酔ってる!酔ってる!)
ここはスルーが吉だと思ったけれど、青年は「ねえ先生~」と再び絡む。頼むからやめて!と私が一層青くなった時。
先生はわずかに身を捩って、青年の顔、そして彼の居たテーブルの方を眺めた。そこには青年の彼女と思しき女の子。
「…酔わせなくてはどうにかできない関係ならば、改めた方がいい」
「………」
青年は目を点にして言葉を失い、私は赤面して絶句した。
「「「………」」」
(何と言う事を…そんな真顔で……)
しばし店の中はちょっぴり気恥ずかしい空気が漂い、皆酔いとは関係なく、ほんのり赤くなった。
結局、青年はおかわりを貰えず、代わりに水を飲めと周りから怒られた。そんな喧騒が背後で聞こえるようになると、私はようやくグラスに手を付けた。
(どうしようかと思った)
数口クピクピと飲み、ふうとため息を吐けば、先生が「存外強い」と感心したように言う。そう言う先生だって私と同じものを同じ位飲んでいるのに全く変わらない。実は紅茶を飲んでいるのではと疑いたくなる。
「飲んでいる内はあまり変わらないのです」と説明すると、先生は深く眉を寄せた。
「影響が出るとしたら明日の…」
言い終わる前に、先生は私の手からグラスを奪った。私が「ああ!」と小さく悲鳴を上げると、先生は呆れ顔で「早く言いなさい」と言ってそのまま私のグラスの中身を飲み干してしまった。
「…!」
お酒を奪われた悲しみも束の間、グラスを煽った先生の上下する喉仏に私の目は釘付けになり、思わず心の中で「ありがとうございます」と感謝した。
先生に促され、殆ど強制的に席を立つことになり、リリアさんによくお礼を言って私たちは店を出た。
先生と共に暗い森の中を歩く。あまり酔っている自覚は無かったけれど、少し前を歩く先生の背中を見ていたら何だか不思議な気持ちになった。さっき絡んできたお兄さんに言った先生の言葉が蘇る。
(先生は…酔っていようといなかろうと、私をどうにかしようとはしないよね)
そこが先生への信用と、恋した故の物足りなさがせめぎ合うところで。
無意識に深く息を吐くと、先生がこちらを振り返る。白い髪が夜の光を反射した。
「大丈夫か」
私は返事をする代わりに、小走りで先生の隣に並ぶ。寄り添い合うように歩けば、手の甲が先生に触れた。
(手を繋ぎたい)
しかし歩きづらいという理由で却下される可能性は大。申し出ても大丈夫かどうか、私は先生の様子を窺った。紫色の目が私を見下ろしている。
(あ…これは…)
何度か経験して分かるようになった。これは、要望を訊いてくれている目。先生は決して口にはしないけれど、表情で、雰囲気で、私に応える意志を伝えてくれる。
胸の辺りが強くギューッと締め付けられた。泣き出したいくらいの愛しさが込み上げ、もうどうしようもない。
(そうなんです…先生はいつも私に応える形でいてくれるんです…)
物足りなければいつでも満たしてくれる。他ならぬ、私の意志によって。望めばきっと何だって叶えてくれるだろう。
(…ぐうう…)
「ルシル」
「…」
「帰ろう」と言って、先生は私の右手を掴んだ。驚いて先生を見れば、先生は前を向いたまま、私に視線を流す。感極まった私の胸の内が、熱を持ったままジワジワと落ち着いて行った。
森を抜けるまで十数分。私は思いの丈を込め、先生にくっついて歩いた。
お読みいただき、ありがとうございます!




