本編外:個人空間
エピローグ後のお話
先生が朝降りてくるのが少しだけ早くなった。
「おはようございます」
「…おはよう」
これまで「ああ」とか、概ね無言で頷くだけだったのが、挨拶が返ってくるようになった。たったそれだけのことなのに。普通に考えれば何のことはない本当に普通の事なのに。私は初めて聞いた時、嬉しくて思わず笑ってしまった。
そんなことがあったのがしばらく前。
先生は今日も7時15分前にやって来た。けれど私が慌てることは無い。先生はテーブルを通過し、キッチンにやってくる。
「ココア。ミルクティー」
先生は私の隣に立つと、淡々と単語を並べる。暗号ではないし、なぞなぞでもない。翻訳すると、「ココアとミルクティーどっちがいいか」と私に尋ねているのだ。
私が家政婦を解雇されてから、共に食事を同じ時、同じテーブルで摂るようになった。三度の食事と、時々おやつを一緒に楽しむ。
その際、先生は何かしらしてくれる。飲み物を用意したり、お皿を出したり。
可能な限り部屋から出たくなく、研究をしていたいのではと危惧したものの、「たかが15分を惜しまない」とのこと。それどころか「ほぼ君に任せているのは変わりない」と若干申し訳なさそうに言うので、私は気にしないようにと全力で訴えた。
私自身が楽しいのだ。この家の家事をし、先生のお世話をするのが。
とはいえ、先生が何かしてくれるのも勿論嬉しい訳で。私は本日提示された2種の飲み物について真剣に考えた。両方、自分で作るのとは違う味がして大好きだ。
(こ、ココア…!ココアはこないだ美味しくてびっくりした。でもミルクティーも捨てがたい!あれでしょ?紅茶を濃い目に淹れて作るやつでしょ?)
私が迷って黙り込んでいると、先生も黙って私を見下ろし続ける。
「……」
送られる視線が気恥ずかしい。何か言おう。決心しよう。
「ココ、いやミルクティーでお願いします」
ぎりぎりまで悩み、私は結局ミルクティーを選択した。先生はひとつ頷いて既に鍋に用意していたミルクを火にかけた。
「よいしょ」
洗濯物籠をかかえ、物干し竿に向かう。顔や手など、肌が露出しているところに冷たい空気が刺さる。
すっかり寒くなった。動物たちは無事冬眠できただろうか。森の方へ思いを馳せながら洗濯物を干す。この寒さだ、きちんと乾くかちょっとだけ心配。
洗濯物籠の張り紙は健在である。先生は未だに私に二階を任せてくれないけれど、事情が事情なので仕方がない。先生が危険と言うからには相当危険なのだろう。
「仕方ない。仕方ない」
私が「仕方ない」のリズムに乗りながら拭き掃除をしていると、突然背後から「何がだ」と声をかけられた。驚いて振り返れば、先生がマグカップを持って立っていた。
「おかわりですか」
先生は頷いて肯定したが、「何が仕方ないんだ」と繰り返す。私は些か決まりが悪くてどうしようかと思ったけれど、正直に話すことにした。言ってもどうにもならないことなので、「まあいいか」という気持ちが勝った。
「先生のお部屋のお掃除とかができないことです」
私の言葉を受けた先生は黙って何かを考える素振りを見せる。そして。
「掃除は断るが…」
「お、お邪魔いたします…」
自分のカップを持って、私は中腰になりながら先生の部屋の前に立った。先生は先行し、部屋のドアを開けると「どうぞ」と言って中から私を迎え入れた。
「書斎よりはまだマシだろう」と言いながら、先生は自分の机へと向かう。部屋を見渡せば、確かに書斎よりは物が少なかった。しかし油断ならない。ここにも私が軽率に触れたら死ぬまで覗き続ける水晶とかがあるはずだ。想像してみたけれど、地獄だった。暇ですぐ死にそう。
「君はそこに」
「はい」
先生は机横の棚の傍に置いてあった木の椅子を勧めてくれた。のこのこと椅子に腰を下ろすと、部屋が見渡せた。ガラスの器材が複雑に組み合わせられた謎の装置。壁に掛けられたどこかの民族のタペストリーや趣深いドライフラワー。陽の光を柔らかく受け止める白いカーテン。色々メモが書かれた黒板。
成程。こういう部屋だったのか。私は感心して目をあちこちに遣りながら頷いた。ガラスの器材とか、実験道具みたいなものは確かに怖くて近寄れない。呪い的なものではなく、単に壊すことへの心配だ。
「悪いが、そこの観葉植物より先の侵入を禁ずる」
「危険ですか」
先生は「危険だ」とはっきり宣言した。
「触れたら即座に昏睡する棒。聞くと精神に影響の出る鈴」
先生はいくつか、明らかにとても危険なものを指で示しながら紹介した。反論は無し。私は「分かりました!」と良い返事をする。
(あら…でも、この部屋全く生活感がないような)
洗濯物籠にシーツやカバーが登場するのだから、使用していない訳はないし、その辺の床で寝ているとも考え難い。
「あの、先生。先生はどちらでお休みになっていらっしゃいますか」
私の素朴な疑問に、先生はツイと視線を逸らした。
(そこは物置部屋だって言ったじゃないですか!!!!!)
先生は無表情で「ここ」と言って隣の部屋のドアを開けた。当初この部屋は物置だと案内された私は唖然とした。
ドアの先には確かにベッドが一つ。部屋の中は書斎やさっきの部屋よりもかなりすっきりしていた。私は目を大きく開いて先生を見る。先生は私と目を合わさなかった。
「この部屋も危険なのでしょうか」
「いや」
ならば何故。何故私の進行を阻んだのだろう。全くもって解せない。危険なものが無いのなら、と気の大きくなった私は遠慮なく物置と称された部屋の中へお邪魔した。
ベッドがあり。
(あら?)
壁には大きな箒が三本立てかけられ、丸められた絨毯が床に転がる。蓋の開いた箱の中には無造作に数本の杖のようなものが仕舞われている。
「……」
こう言っては何だが、私のおとぎ話レベルの、浅い魔法使いの知識でも察しが付くような、いかにもな魔法グッズのように見えた。私はそれらを指さし、表情で先生に問いかけた。
先生は吐き捨てる様に「前時代の遺物だ」と答えた。
「遺物?」
何のことやら。私は意味が分からず、先生の言葉を繰り返す。
「かつてはこういったものを使って魔力の媒介にしていた。古い話だ」
「…箒で飛んでいたってことでしょうか」
先生は恥ずかしいのか、苦い顔をしてわずかに頷いた。私は一体先生が何を恥じらっているのか分からない。そんな言い方をするのに大事に取っているから?それともそういうものを使っていたのが気に入らない?
こちらとしてはその遺物を使って空を飛んでみてくれないかとさえ思うのだけれど。
私の心の内を読んだのか、先生は「飛ばない」と先手を打って来た。
(ぐうう…)
私はつい両手を握りしめる。
「君が寝床を案じたから通したまで。できればそれらは見せたくなかった」
スッパリ言われる。こうなれば先生は譲らない。私は不貞腐れつつ「はい…」と引き下がった。先生はそんな私の頭を宥めるように撫でる。そんなことをされたところで私の機嫌は…。
(…ぐう)
直った。いや、直りかけた。直っている途中。
(憎い…)
私は自分の不甲斐なさとチョロさに落胆し、がっくりと項垂れた。
「…」
先生が戸惑っているのが手つきで分かる。項垂れたものだから、きっと私が希望が適わなくてしょげていると思っているに違いない。それはそれで申し訳ないので、よっこらせと顔を上げる。今度こそ先生と目があった。
その代わりに、という暗黙の裡の交渉の結果。
(わああああああ)
自分から言い出したものの、私は大変なことになっていた。目の前には横になった先生。自身の肘を枕代わりにしてゴロリとし、何か言いたげに私を見ている。
「ちょっとだけベッドに寝てもいいでしょうか」と訊いた。確かに訊いた。けれど、まさか先生までついて来るとは思わなかった。私はただ、ベッドの寝心地が気になったのと、この部屋でちょっと寝てみるという体験をしたかっただけだったのに。
「……」
そんな「これで満足か」みたいに見られても。
(過多!過多です!)
満足どころではない。込みあがるものに堪え切れず、私はついに羞恥で顔を覆った。
「何故照れる」
言外に「自分で願ったくせに」と受け取れる言い方をされ、私は否定するため必死で首を横に振る。違う、ここまで望まなかった。
ぞわり、と温かいものが耳に触れた。強張っていた体が更に硬直する。
「赤い」
(やめて!触らないで!)
そんなことをされては赤くなる一方だ。けれどもう抗議する力も無い。これは困ったどうしたものかと真っ白な頭でぐるぐると同じ問を繰り返していると、フッと息が漏れる音。
「どうぞゆっくり」
優しい声を残して先生の気配が離れ、私にふわりと掛け布団がかけられた。
「……」
無情にも、赤くなったまま動けない私を残して先生は去った。「あんまりだ、冷たい」と思うものの、私に力は残っていない。いなくなった人の匂いがする布団が私を包む。
私はギュッと掛け布団を被り、勝ち逃げした先生を恨みながらそのままふて寝してやった。
目が覚めたら隣に先生がいて叫び声をあげる羽目になろうとは、知る由もない。
お読みいただき、ありがとうございます!




