エピローグ
『お慕いしております』
君の言葉を聞き、真っ先に想像したことは。
君の居ない日々。空虚なリビング。味気の無いキッチン。君の声、眼差し、表情を探せどどこにもない。
耐えられるか。
直ぐに答えは出た。否。この歳だ。いい訳は見苦しい。惜しいのは彼女の仕事、能力だけではないだろう。好ましいのだ、理屈ではなく。好ましいと思うこと、それ自体がどれほど貴重であるかは自分が一番よく分かっている。君を引き留めたいと思うことが答えの全てだ。
耐えられるか。そこまで想う彼女とのいつか来る別れを。
否。そんなもの。彼女といる時間を得ることと天秤にかけるまでもない。それに、生命の期限を鑑みても、論理的に優先すべきは彼女の人生だ。
こうして自分が悩んでいること自体、彼女の時間の無駄である。
フィリスはいつになく穏やかな気持ちで明けゆく夜を眺めた。一日見ていない彼女の顔を思い浮かべて。
私が解雇されて、一週間後。
先生と街に降りてきた。商工会に顔を出してコルテスさんに挨拶をすると、若い商工会長は手にしていたペンをカランと落とした。
「…ま、待ってください」
「どうされましたか」
コルテスさんはただならぬ様子で椅子から勢いよく立ち上がった。
「今何と?」
先生は無表情で明後日の方を向き、私はじわじわと頬に熱を溜めた。
「で、ですから、一応解雇されたので、ご報告に…」
「でも一緒に暮らすですって!??ちょっと待ってください、それって…!」
コルテスさんはボッと顔を赤らめ、言葉を切った。そして項垂れたかと思ったらブツブツと何か言っている。
「予想外だ…うわあ先生と仲良しで微笑ましいと思ってたのに…そう来たか…」
「何ですって?」
「俺の想像力が未熟だって言ったんですよ」
コルテスさんは私と先生を交互に見ると、眉を下げて笑った。
「俺が生きている間に、凄いものが見られました。どうぞ、お幸せに」
そんなことを言われては、どうにも恥ずかしい。照れてしまって「ありがとうございます」と言うので精いっぱいだった。
同じように、お世話になったテオさんの宿屋へも顔を出し、リリアさんの所へも会いに行った。それぞれの表現方法で驚き、そして喜んでくれた。
(この街に来てよかった)
コートデューという街で、私はこれからの人生をずっと過ごすだろう。まさかこんなことになろうとは思ってもみなかった。そう、こんなに幸せになるとは。
「ありがとうございました」
「いや」
挨拶に行きたいという私のわがままに付き合ってくれた先生。殆ど何も喋らなかったけれど、街の人は皆ニコニコと先生を見ていた。慕われていることが窺い知れ、私は嬉しさでついにやにやしてしまった。
「楽しそうだな」
「え」
私は両手で頬を覆った。先生は目を細めてこちらを見ていた。目元の皺が深い。その優しい顔に、心臓が掴まれる。
(ひえ!素敵!!!)
あまりの尊さに、口を覆った。私が内心でてんやわんやしていると、「コンコン」とリビングのガラス戸を叩く音がした。
先生はソファから立ちあがり、ガラス戸に向かった。そして、戸を開けたと思ったらしゃがみ込む。一体何だろうか。
(どうしたどうした)
私が近くによって覗きこむと、そこには大変な光景が広がっていた。
(リス!猫!ウサギ!猿!うわ!向こうからもっと大きい熊みたいなのが来る!!!)
それぞれめいめい何かを手に持っている。
「せ、せ先生…!?」
「……」
私が声をかけても反応が無い。動物たちが先生にしきりに喋りかけているらしかった。キイキイと鳴き声がする。
『冬眠前にご挨拶に来ました!聞きましたよ!おめでとうございます!』
『ルシルちゃんは前から先生のことが大好きで!!』
『眼鏡かけると素敵とか、声が格好いいとか、手が大きくてきれいとか、そっけないけど強くて優しいとか』
固まっている先生を不審に思い、私は「あの…」と再び声をかけてみたが、間髪容れずに「後で」と言われてしまい、大人しく口を噤んだ。私には分からない大事な話らしい。
すげなくされ、また仲間に加われないので面白くなく、若干荒んだ気持ちでしばらく佇んでいると、ふいに先生は立ち上がった。
(あら、お話はおしまいですか)
「もうよろしいのですか」と言いかけたところで先生が「君」と被せてきた。
「はい」
「……」
返事をしたはいいものの、先生から続きがない。
「あの、先生?」
「…勘弁してくれ」
「え」
何と、先生の耳が赤くなっている。私は目をひん剥いた。驚きで「ちょ!」と近寄ろうとすると、片手で「寄るな」と制される。そうしている間にも、先生の様子は益々おかしく、ついには袖口で口元を隠しながら私を恨めしく睨んだ。
(何!何!?)
意味が分からずに呆然としていると、先生は低い声で「彼らに何を話した…」と唸った。
「え!?私、動物たちとはお話できませんよ!?というか今何を話していたんですか!?」
「私のことを話しただろう…」
「ええ!??そんな」
「まさか」と言おうとした瞬間。はた、と気が付いた。
(あれか?マカロンさんに惚気たときのことを言われている?)
私の顔色が変わったことに目敏く気が付いた先生は深いため息を吐いた。
(え?まさか)
私は庭にぞろぞろと木の実や魚を持って集まった動物たちを見た。パタパタと尻尾を揺らす犬、猫、嬉しそうな唸り声をあげる熊、狼。私は気が付いた。彼らのお祝いっぽい装いに。
「!!!」
背筋が寒くなった。マカロンさんには結構喋ったという自覚がある。それこそ、相手が猫さんだからと恥ずかしげもなく。
(あの惚気が、今本人の耳に入ったということ…?)
カーっと全身が熱くなった。
「い、いや!私マカロンさんにしか!」
どうしてどうやって動物たちに広まり、そして先生の耳に入ることになってしまったのか。必死に弁明する私を、先生は耳を赤くしながら呆れた顔で睨み続けた。
「……」
動物たちが冬眠前に駆け込んだお祝いの挨拶が終わり、私たちはソファに無言で座っていた。といっても並んでではない。端と端に座っていたたまれない空気を味わっているところだ。
(怒ってるかな)
私はチラリと先生を盗み見た。あちらも私を見ていたため、ぱちりと目が合う。
「すみませんでした…」
一応謝ってみると、先生から「いや」と短い返事が返ってくる。声のトーンと雰囲気から察するに、もう機嫌を戻してくれたようだった。
「あの、そちらに寄ってもいいですか」
「…」
先生はソファのひじ掛けで頬杖をついたまま、私に視線で応える。
(あれは恐らく、「いいよ」)
都合よく解釈をし、私はこそこそと横移動をして先生の隣に陣取った。思い切って肩を寄せてみる。
「…」
「……」
これと言って反応はない。逆に言えば、嫌がられていないということだ。
(よし…!)
そのまま大人しくしていると、先生は頬杖を止めて私の方へと体を寄せた。
「…」
(どうしよう)
右肩から伝わる先生の体温が愛おしい。もっとくっつきたいという欲求が出て来てしまった。温かい。寄りかかれば、先生は逃げずにそのまま私を支えてジッとしていてくれる。
(まだ避けられない)
まだ大丈夫、いける。私は思い切って、本当に思い切って先生の顔を覗き、目を見つめた。
(キスしてもいいでしょうか)
心臓がドキドキする。体中熱くて、実は頭はあんまり働いていない。大好きで、愛しくて、寄り添えることが嬉しくてたまらない。
先生は私の意図を汲んだのか、目を合わせたまま動かない。
(えー!いいの!?)
私は信じられない気持ちで、ゆっくりと顔を近づけた。どうしよう、いいのかな、大丈夫かなと案じながら唇が触れようとした瞬間。
先生がそっと目を逸らした。
(!!!!!)
その些細な行動に、私の不安が掻き立てられる。
「お、お嫌ですか…」
小さな声で尋ねると、先生は決まりが悪そうに眉をわずかに寄せた。そして再び私に視線を戻すと、同時に私の頭に骨張った手を回す。
「いや」
私は吸い寄せられるように、先生の唇に口づけた。唇に、頬に、触れて分かった。先生も、照れていたのだと。
(愛し過ぎます…)
放したくない、と思うまでも無く、先生は私が満足行くまで―耐えられなくなるまで―長く優しくキスをしてくれた。
穏やかな日差しが、一つになった私達の影を柔らかく包む。
先生と二人。私はいつまでも幸せだった。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました!
趣味を詰め込みました。ドン引かれていないか心配です。
大変楽しく書きました。お読みくださった方にも楽しんでいただけると幸いです。
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