永年雇用は可能でしょうか
先生は珍しく狼狽えた。いつもなら落ち着いているのは先生で、あたふたしているのは私なのに。
依然として世界樹は歌い、私は心を響かせて涙を流している。けれど、心象風景はどこまでも晴れやかで、爽快な青空の如く。
私は頬に涙を流したまま、愛しさが溢れて笑った。
先生の背後に流れ星が光る。
「悪かった」
「え」
往路と同じ行程を辿り、私たちは家に戻って来た。やり切った感のある清々しい私とは反対に、先生は始終難しい顔をして口を閉ざしていた。
リビングにやってきて、ようやく喋ったかと思ったら先の謝罪だ。私は唐突な謝罪に目を白黒させた。先生から謝られることで思い付くのはひとつしかない。
(ふ、フラれた!?)
私が絶句してよろめき、一歩後ろに下がると、先生は眉を寄せて俯いた。
「君の心の内を暴こうと、連れて行ったのではない」
苦しそうな低い声に、私は先生が極めて真剣に言っていることを察する。そしてまだフラれていなかったことも理解した。
「気を強く持てと言ったのは、感情を揺さぶられて…そう、君の様に涙が止まらなくなることがあるからだ…だから…」
(問題の大分手前で先生が悩んでしまわれている…!)
分かっている。無理矢理姑息に私の秘密や恥ずかしい過去を吐き出させようとしたわけでは無いということは。というか、そんなこと思いつきもしなかった。
「胸の内まで吐露するとは予想になく…」
「承知しています。世界樹の特別な姿を見せてくださったのですよね」
「…」
先生はバツが悪そうにため息を漏らした。
「私も見たかったです。普通に生きていては絶対に見ることのできない物でした。本当に感謝しています」
「ありがとうございました」と頭を下げる。それでも尚、居心地の悪そうな気配が先生から漂っている。顔を上げれば、気まずい顔の先生と目が合った。
(あ、すごく嫌な予感が)
私も恋する乙女の端くれ。この不穏な空気にピンと来ないわけでは無かった。先生は、次の問題に触れようとしている。
しばしの沈黙の後、先生はとても気が進まない感じに口を開いた。
「…年長者を敬うという意味ではないのか?」
「はい」
先生は顔を背け、横目で私を見る。
「君から見れば、相当なジジイのはずだ」
私は無言で首を横に振った。大分年上とは分かっているものの、老いているとは思わない。
先生は大きくため息を吐いた。
「君と私とでは、あまりに年が」
「分かっています!…でも…」
私が赤くなって俯くと、先生も押し黙る。しばし無言の妙な空気が流れた後、先に口を開いたのは先生だった。
「君を看取れと言うのか」
「…」
(え)
私が思わぬ発言に間抜けな顔をすると、先生はしかめ面になった。
「み、看取ってくださるんですか!?」
(つまり、一生傍に居てくれるということ…?)
私が望外の言葉に目を見開き、期待を込めて食いつくと、先生は間髪容れずに「看取らない」とやけにしっかりした声で言い切った。
「え!?」と私が訴えるように声を上げれば、先生は再度「看取らない」と繰り返す。今まで見た中で一番、あからさまに不機嫌な顔だった。
(ひどい)
ぬか喜びもいいところだ。持ち上げて落とすなんて鬼の所業。けれどここまではっきりとお断りされてはこれ以上食い下がれないし、先生相手に打つ手もない。
(そっか……。はい、分かりました)
ショックはショックだし、悲しいは悲しいものの、存外すっきりとした気分だった。例えるならば、不安定なぐらぐら揺れる板の上から降りたような。
「先生、でしたら…」
私は微笑み、先生は珍しくたじろいだ。
「永年雇用は、可能でしょうか」
パン、とエプロンを叩いて皺を伸ばした。
「さて」
先生とは、一昨日から顔を合わしていない。先生は「即答しかねる」と言って部屋に籠ってそのままだ。
定時になっても降りて来ないので、食事を部屋の前に置き、「お召し上がりください」とメモを残してきた。しばらくして様子を見に行くと、「ご馳走様でした」というメモと綺麗になったプレートが部屋の前にあった。
昨日はそうしたやり取りしかしていない。断固として顔を合わせたくないのかと思えば、意外と反応があって、先生がどういう状態なのかが分かりかねた。即答しかねる件は、いつ結論が出るのだろうか。
シンとした部屋の中。私はリビングのガラス戸から外を見た。寒い季節になり、森はすっかりと寂し気な装いになった。草が生い茂っていた庭も、静かに冷たさを湛えている。
7時15分前。
私は卵を用意し、パンを焼く準備をした。お湯を沸かす傍ら、ミルクを温める。作るのが早すぎて冷めてしまうことを危惧し、もう少し時間ぎりぎりになったら本格的に作り始めることにする。
不安と言えば不安なのに、どうしてか心は軽かった。
一昨日のやり取りで私は吹っ切れた。私がうじうじしていたのは、心のどこかに期待が巣食っていたからだ。私の恋は実らない。そうはっきり分かったら迷いが消えた。
(それでいいや。傍に居て、お世話をして、年を取って役に立たなくなったら出て行こう)
それが私の永年雇用の最終目的だ。なあに、先生は私の数倍ゆっくりな時の流れの中に居るのだから、私の永年なんて些細なものだろう。
ディディちゃんやイーダさんの前例はあるが、私が彼らと同じように好意を示しても、そのままここに置いて貰えるとは限らない。こちらが先生に何も望まずに弁えて仕事のみに専念してさえいれば、継続して雇ってもらえるかもしれないけれど…。
(置けないって言われたら、すっぱり諦めよう)
それが私の先生への誠意だ。惚れた方が負けとはよく言ったものだと思う。
お湯が沸騰し始め、音を立て始めた時、二階の階段から人影が落ちた。先生だ。降りてきた。
「おはようございます」
7時10分前。ほのかに朝日が照らすリビングに、いつもより少し早く先生が現れた。
先生は目を細めて私を見た。疲れを忍ばせる顔つきに、私の胸が痛んだ。こんな顔初めて見る。イーダさんが夜中にドンパチやっていた時でさえ、良い顔色だったのに。
先生はテーブルに着かず、そのまま脇を通過した。こちらに来ようとしていると察し、私はキッチンから出る。
「先生…」
「…」
先生は何も言わなかった。ただ、私を無表情で見つめるだけ。私は思い切って、今一度先生に尋ねた。
「永年雇用は、可能でしょうか」
先生はひとつ息を吐くと、真っ直ぐに私に顔を向ける。真剣な表情に、胸が騒めいた。
「却下」
「…ぐ!」
覚悟していたとはいえ、そこまで即答されては流石に心に刺さる。
(ぐうう…なんてすげない…)
恨みがましい目で先生を見上げれば、先生は淡々と「解雇」と畳みかけてきた。一応家政婦と雇用主として上手くやっていたと思うのに、その対応はあんまりにあんまりではなかろうか。
(もっと、言い方ってものがあるじゃないですか…!)
気が付けば無意識に首が下がり、がっくりと項垂れる形になっていた。心の中では「酷い。あんまりだ」と繰り返し、すっぱりと諦めるという決意はどこかに行ったというよりもバラバラに砕け散った。こちらの意志がどうとか、そういう次元じゃない。誠意なんて強がりの綺麗ごとでしかなかったことを自覚し、さらに落ち込む。
「ルシル」
視界に先生の足元が入って来た。今日もやはり裸足である。こうなれば、せっかく靴下を贈ったのに、と不満も出てくる。
「ルシル」
先生はもう一度私の名前を呼んだ。抜け殻の様になった私は、殆ど人形の様に顔を上げた。「泣かれるとバツが悪い」と言いながら先生は私の目元をぐいと手で拭う。いつの間にか、目には涙がせり上がっていた。
「君は、酷なことを望んだと、よく知るように」
「…?」
今心がバキバキになっているのは私の方であるはずなのに、どうしてか先生が傷ついたような顔をしている。私は事情が分からずに押し黙った。
「寿命の都合、確実に先逝くのは君だろう。それが分かった上で、君は私に自身の死を耐えさせ、来る日を怯えて過ごせと言う」
「……」
「これを酷と言わず何と言う」
私は何も言えなかった。卑怯にも、目からは涙が溢れてくる。先生はキリがないと思ったのか、拭うのを諦めた。
「だが、それは長寿であるが故の私の事情でしかない。と、昨日結論づけた。然るに」
先生は目元を緩め、穏やかに微笑む。
「雇用関係を解消する」
パチパチと瞬いたうるおい過多な目が、ぼんやりと先生を映す。自分が息をしているかどうかすら分からなかった。
「家政婦として扱っては、君に応えることは不可能だろう」
「…だッ…!!!」
滂沱の涙が頬を流れた。先生は私が発した一文字を拾って「何が言いたい」と首を傾げた。
(だ、だって!!!先生は私の事好きじゃないのに!!!!!?????応えるってどういうこと!????)
しどろもどろ、言葉の並びもぐちゃぐちゃに先生に訴えれば、先生は気まずそうに顔を背けた。
「…!?…!」
私は言葉を発せずに身振りと表情で意図を問う。もう頭は回らない。その場に湧き上がる感情だけが私を突き動かした。
「…こう長く生きると、大概の事には無感動になるものだと思っていた。事実、驚くことは早々無く、喜びも希薄だ。感情そのものが麻痺していた」
「だが」と言うと、先生は私に向き合い、自嘲的に笑った。
「君が彩る日々を掛け替えのないものと思う。君が関われば、死にかけた感情が蘇る」
細められた目が、私を捕らえた。「これで答えになっているか」と訊く困ったような笑顔に愛おしさが込み上げる。
「…!」
想いが溢れて抱き付いた私を、先生はしっかりと受け止めた。
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