慣れないこと
見ていて飽きない。
それが率直な感想だった。だが、そんなことを見出すためにルシルを見ていたわけでは無い。フィリスは椅子に座り直し、足を組んだ。
「デート」という軽薄かつ極めて不快な単語が頭から離れなかった。自分と彼女はそんな関係ではない。ルシルは信頼に足る有能な仕事人だ。デートなどと言われては、彼女の仕事の価値を歪められているような気がして腹が立った。
まして、花の盛りの彼女と途方もなく年の離れた自分をそんな風に並べるなど。彼女が聞いたらゾッとするに違いない。
フィリスは自らの考えを肯定するため、ルシルを見つめた。彼女の働きぶりを見ていれば、あの日聞いた不愉快な単語を馬鹿馬鹿しい戯言だと綺麗にさっぱりと否定できると思ったのだった。
しかしどうだ。
料理を並べる丁寧な手つき、料理の出来を窺う目、「重たいですよ」と注意を促す声。全て知っているはずのものなのに、それらが新鮮に、鮮やかにフィリスの興味を刺激した。
何故そうなる。
フィリスは自分の中で回答を見出すために更にルシルへと眼差しを送る。その視線はルシルに引き付けられるばかりであった。
あちらもこちらの様子を常に窺っている関係で目が合ってしまい、戸惑い困っている様子だったが、そんな姿も興味深かった。しかし昨日とうとう痺れを切らしたのか、彼女は気丈に見返してきた。その目が「はやく食べろ」と言っているように思われて、ようやくフィリスは観察を中断した。
冷える。先生の言った通り、どんどんと寒くなって来た。朝起きたら畑に霜が降りていた。
「さぶいさぶい」
キッチン地下の食料庫も随分と温度が下がり、冷え冷えとしている。食材鮮度のためにはとてもよろしいが、人間にはあまり優しくない。はやくここから出たいと思いながら、目当ての野菜や瓶詰めのピクルスを抱える。
ふいにギシッと頭の上で音がした。上に人がやって来た証拠だ。まだ先生が降りてくる時間ではないのに。私は慌てて食料庫から這い出ようとした。焦ったせいで腕からジャガイモがひとつ転げ落ちた。
「ああ…」とつい悲しい声を上げると、先生が食料庫の出入り口を覗き込んだ。屈む格好がどこかの小動物を彷彿とさせ、いつも通り簡単にときめく。先生に小動物を重ねる辺り、自分でもいよいよどうかしていると思う。末期だ。
ジャガイモをひとつ落としたことを伝えると、先生は今持っている分を寄越せと手を伸ばす。穴に落ちた人を助けるような恰好だ。ついその手を掴みたくなる衝動に駆られた。
「あの、大丈夫です。私がまずいったん上がって…」
私が当然の如く遠慮をしても、先生は無言で手を伸ばし続けた。早くしろという圧すら感じる。こういう時は従っておくに限る。
「すみません…」
私は早々に諦め、先生にひとつふたつと持っているジャガイモを手渡した。一瞬手が触れ、冷たい地下の空気に晒されていた私の手が、温かさに敏感に反応した。さっきまで寒さで震えていた体が、指先から誘爆したようにじわりじわりと熱くなった。
ようやく私が食料庫から脱出すると、先生はキッチンでお湯を沸かしていた。
(寒かったんだ!温かいものが欲しくなったんだ!)
だから靴下を履いたら良いのにという喉元まで出かかった苦言は飲み込み、私は急いで立ち上がり、袖を捲る。
「いい。君は君の仕事を」
早速「何を作りましょうか」と訊こうとした出鼻を挫かれる。
(えー!これも仕事なのに!)
面食らった私だったが、一応一度くらいは食い下がりたい。
「それも仕事ですので」
「……」
先生は紫色の瞳で私を見下ろした。
「!」
心の準備をしていなかったため、その視線にドキリとする。
(さ、査定…これは査定…)
ジーっと長く続く視線と沈黙。いくら自分に言い聞かせても、一度ドキドキし始めてしまった胸を落ち着かせることはできなかった。
(む、無理です…!)
ついに限界が訪れた。私は先生から顔を背け、真っ赤であろうそれを両手で覆う。熱い。体が沸騰したように熱い。
「負けました…」
消え入るような声でそう訴えると、返って来たのは先生の戸惑ったような息の音。
「……」
沈黙が辛い。私はおずおずと手を少しずらして、先生をチラリと見る。先生は難しい顔をしていた。
「……申し訳ありません。照れてしまいました」
先生が事態の把握に困っているようだったので、正直に事情を話す。先生は更に眉を寄せた。
「なぜ照れる」
「……」
なぜ聞く。しかもそんなに普通に。私は先生を恨んだ。それは聞いちゃいけないやつだ。
(聞いてしまうということは、照れる理由に、全然ピンと来ていないという事で…)
私は上がった体温がひゅううと急激に下がっていく感覚を覚えた。
「…何でもございません…」
「なぜ落ち込む」
がっくりと顔を覆って項垂れた私に、平坦な声が振ってくる。私は無言でそのまま首を横に振った。ちょっと傷が深いので、しばらくそうっとしておいて欲しい。
「ルシル?」
そんな私の胸中を知らず、先生が構ってくる。いつもなら嬉しくて舞い上がるところだが、今は居た堪れなさしか生まれない。
「あの…大丈夫です…何でも」
「君の何でもないは何でもなくないと覚えている」
「………」
優しさが憎い。私はしばし賢者の如く目を瞑り、思案した。
(そういうところが…好きだと言うのに)
私はその時、はたと気が付いた。
(この胸の内を、話してしまった方が良いのでは)
困らせてやろう、とか。もうどうにでもなれ、とか。そういう気持ではなかった。例えるなら、「お洗濯ものはこちら」とか「お風呂は18時以降にお願いします」とか、業務連絡に近い。
「私はあなたをお慕いしていますよ」、と言っておかなくてはこれからお互いにこんな瞬間が増えて困るのでは、と気が付いてしまったのだ。いつか先生もはっきりしないこの時間が煩わしくなるかもしれない。心得ていれば言動に気を付けるだろう。
しかし。しかし、だ。
この状態が非常に不都合で業務に差し支えるとは分かっていても。
(だめだ…言えない…)
いくらディディちゃん、イーダさんという前例があっても、不安は拭えない。私が先生を好きだと表明しても、ここに置いて貰えるという自信が無かった。
この目ではっきり見たではないか。先生に好意を見せても、うんともすんとも無かった現場を。だから、私も華麗にスルーしてもらえるに違いない、とは思うものの。
(もしも、そうならなかったら?私だけ、「鬱陶しいから解雇」なんてなったら?)
あり得る。十分あり得る話だ。容易にその場面が想像できた。
プロの家政婦として業務効率を最優先しなくていいのかと叱咤する自分と、見苦しくここに居たいと思う自分の間で葛藤する。
「あまり見られると恥ずかしいのです」
「…すまない」
結局、私は普段の自分を棚に上げ、当たり障りのないそれっぽいことを言ってその場を凌いだ。
私はテーブルの上に置かれたものを前に、沈思黙考していた。お風呂から出たら、それはそこにあった。
「………」
片手で額を押さえ、無言でそれを見つめる。
『言えないことを書く紙』
何だ、この可愛いものは。それは一枚の紙だった。タイトルの横に『要望をお書きください』と書かれている。十中八九、朝のことを気にした先生の仕業だ。何て分かりやすいタイトル。私にもよく理解できた。
(言えないことを書けるものですか!)
気の遣い方が絶妙にずれている。気を遣い慣れていない感が凄い。突然天然めいた行動をとられ、どうしたらいいのか分からない。
そもそも。こうして敢えて気を遣わなくても、先生は実は普通に優しい訳で。変に気を遣わせたらこの様だ。私は非常に申し訳なく、いたたまれなくなった。
こんなことをする位だから、査定は終わったのだろうか。査定の次は業務改善を図るということだろうか。
「分からん」
とにかく、この気遣いを無駄にしてはならない。私は懸命にここに書くべきことを考え、ウンウンと頭を悩ませた。
いきなり要望と言われても困る。待遇は申し分ないし、特段困ったこともない。先日傷んでいた柵は自分で修理してしまったし。そうなると、あとは思い当たるものといえばかなり限られてくる。
「そういえば、木べらが摩耗してきたけど…あとは…」
ブツブツと呟きながら頭を捻る。そして。
「あ」
私はふと顔を上げた。
(靴下。実際に寒そうだし、心配だから靴下を履いてほしい)
涼しくなってきた頃から思っていた。裸足では体が冷えるだろうと。お風呂や飲み物で先生の保温に努めている身としては、あの足元が酷く目につく。ただ、そんなことを進言して、先生が煩がらないかが問題だ。直接的でなく、請願することはできないか。
私はしばし考えた結果、次の様に書いた。
『靴下を差し上げても構いませんか。あと、新しい木べらが欲しいです』
何だかまとまりがない上に、ただのお願いごとのようになってしまった。
「やむを得ない」
気がつけば大分時間が経っており、眠たくて仕方が無かったので、私はそれを決定稿として、テーブルに残して部屋に戻った。
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