噂の二人
『ねえ、聞いた?先生のとこの、ルシルちゃんのこと』
『聞いた聞いた』
にゃあにゃあと猫の集会が開かれている一方で。
『やるぜアイツ』
『俺はそうなると思ってた』
街路樹には鳥が集い。
『やだもうあの子ったら!』
『いじらしい!』
森では獣たちが盛り上がる。
ルシルが一匹の猫にしたつもりの話は、いつの間にかさざ波の様に広まり、街に住む人外の知るところとなった。ここ数日、彼らの間はその話題で持ちきりだ。
「い、行くんですか」
先生は頷いた。
私は半ば捨て鉢になって外套に袖を通した。せっかくの先生とのおでかけなのに、どうして気が乗らないかと言えば、先生が再び私とステーキを食すことを所望したからだ。
「今日は料理屋の日か」と思い出したように言ったかと思ったら、「昼前には出る」と非常にスピーディーな同伴命令が下った。
ちなみに先月は一人で行った。先生の気分の波が分からない。普通にステーキが食べたいのなら言ってもらえれば頑張るのに。私はたまには人に作ってもらったごはんを食べたいので、何があっても料理屋に行くけれど。
いくら大好きな先生でも、私はできれば一人であの瞬間を楽しみたい。というか、先生が目の前に居ては緊張して大好きなお肉の味が薄くなる。
(言えない。そんなこと言えない)
見ればすでに先生は準備完了。私は観念した。
無言で森のトンネルを歩く。木々の色はすっかり様変わりしていた。森の中は気温が一層低くなり、吐く息も少し白くなる。
(季節によって大分変わるものだねえ)
私が「はー」と息を吐いて遊んでみると、先生は正面を向きながらポツリと言った。
「じき寒くなる」
「この辺りは雪が降りますか?」
「たまに積もる」
「では備えなくてはなりませんね」
「ああ」と先生は淡々と答える。先生のツンとした鼻先が少し赤くなっている。何でもない会話がジンと胸に染みた。どうしてこんなに切ないのだろう。
(…季節のせいかな)
ズ、と鼻を鳴らせば、先生は「寒いか」と訊いてきた。
「いいえ」
貴方を見ていたら泣きたくなりました、とはとても言えない。
先生と共に店に入り、案の定お店の人に驚かれ、鉄板二重奏を奏でた。揃って空になったお皿を前に両手を合わせれば、自然と先生と目があった。照れくささが勝り、私は窓の外へと目を向ける。
街角では猫が数匹身を寄り添わせている。
(猫も寒いのかな)
確かに集まっていれば温かそうだ。ここの猫は仲が良いな、と私は彼らを見て呑気なことを考えた。
「すみません、油を買ってきます」
買い物をしていくと言った私に対して一緒に帰ると言ってくれた先生の手には買い物袋。荷物を持たせているという畏れ多さに何度も謝った。早く済まさねばと焦りながら、私は買い忘れの無いように着実に目的の店を攻略していく。
「油…油…あ、あと塩!」
店の外で先生が佇んでいる。私は店の人が丁寧に商品を包んでくれるのをそわそわとして見守った。
『あ!先生だわ!』
『本当だ!』
『ルシルちゃんも一緒みたい!』
どこかから声が聞こえる。フィリスは辺りに目を配り、耳を澄ませた。どうやら向かいの通りに居る三匹の猫と、屋根の上の鳥達らしかった。
フィリスは聞こえていない体でそのままルシルを待つ。たまに街に降りてくるだけで人も動物も驚く。フィリスはそこまで騒がれることではないと呆れていた。
『ね!ね!仲良しね!』
『デートかな!デートかな!』
デート。
全く予期せぬ言葉に、フィリスは思わず声の方を向いた。すると、猫や鳥達は『聞こえちゃった!』と言って散り散りになる。
一体誰と誰が何だと。
フィリスは無意識に猫たちのいた場所を睨みつけていた。どういうことかと問い質したかった。
「お待たせしました」
その時、ルシルが新たな荷物を携えて戻って来た。フィリスの瞬間的に湧き上がった炎が収まって行く。
「どうかされましたか?」
ルシルは不思議そうに首を傾げた。瞬く瞳がキョトンとフィリスを見つめる。フィリスは目を逸らした。
「何でもない」
頭の中には、デートという似合わない単語が居残り続けていた。
(おかしい)
今となってはもう、私がおかしいことは通常であるから、この場合おかしいのは私ではなく。
(先生)
どうしてか、近頃何だか物凄く先生からの視線を感じる。いつもはキッチンの物陰から執拗に眺めているのは私の方なのに。目を向ければ必ず目が合うといった具合に、先生がこちらを見てくる。
(何!?何ですか!?)
本日五回連続で目が合ってしまったところで、ついに私は耐えられなくなった。俯いてはいるが、まだ先生から見られているような気がしてならない。
(どこか、変とか。妙なものが付いてるとか)
寝ぐせは確かに激しかった。でも髪をまとめてしまえば誤魔化せているはずだ。
(あれか、ニキビか)
私は無意識に右の頬に手を当てた。プツリとしたものが手に触れる。
(肌が荒れているぞ。と…)
いや。そんなこと、先生が気にするとは思えない。私の美容事情なんてはっきり言ってどうでもいいに違いない。極めて不衛生な状態ならばまだしも。
では一体この眼差しは何だろう。「やめて!見ないで!」と言いたかったが、当然言える訳もなく。
「!!」
もういいかと思って顔を上げたら、すでに先生は食事を終えていた。何てことだ。見ていないと仕事に支障が出る。けれど見ていると目が合って仕方がない。
(どうしたらいいんだ!!!)
私は心の中で叫びながらラテを入れるためのカップを温めた。
先生が部屋に戻ると、ホッと息を吐く。異様に疲れるのは気のせいではないはず。いつからだ。私はテーブルにべたりと突っ伏しながら思いを馳せた。
特筆すべきことがあったかと訊かれれば、先日のお出かけ位しか思いつかない。それ以外はきっちりとした乱れの無いタイムテーブルが流れていくだけ。
ステーキを一緒に食べたときは普通だった。どちらかというと少しご機嫌寄りだったはず。買い物から戻った後は少しお疲れな雰囲気だったけれど、異変と呼ぶほどの異変は何もなかった。
とすれば。私の脳内に鈍い閃きが走る。
(査定…?)
私はガバッと身を起こした。成程。それならばあの鋭く探る様な視線も納得が行く。
そう。私と先生はあくまでも雇用関係。いくら先生が私と街を歩いてくれたからといって、いつか世界樹を見せようと言ってくれたからといって、私が余裕をかましていて良い理由はない。
最近の私は先生と関われるのが嬉しくて、多少精神が緩んでいた節がある。
(マズイ)
私はごくりと唾を飲み込んだ。もしこれが先生の雇用主としての方針で、厳しい査定だったとしたら、恥ずかしがっている場合ではない。むしろ仕事が滞っては評価を下げるだけだ。
「大変だ…」
私は浮かれていた自分を戒めることを心に誓った。窓の外で、チラリと白いものが舞う。
「……」
「………」
テーブルとキッチンを挟み、私たちは見つめ合った。いや、ひたすらに目を合わせていた。先に目を逸らした方が負け、と私は自分に言い聞かせ、瞬きすらも我慢して先生の目を見返した。
ちなみにもちろん恥ずかしい。あと数十秒我慢していられるか、と不安になったところで、先に目線を外したのは先生だった。
(勝った!!!!!)
私はキッチン台の下でガッツポーズを作る。先生は俯いて黙々とフォークを口に運ぶ。私は尚その姿を凝視し続けた。いつもなら、最初からこういう風なのである。
(よしよしよしよし)
それから先生は私を見つめることなく、静かに食事を終わらせ、リビングを後にした。緊張の査定時間が終わり、私は胸を撫で下ろす。極めて自分が普通だったという自信をもって。
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