引力
私は一体何を断ってどう邪魔しようと言うのだ。まただ。考えるよりも先に体が動いてしまった。
(…またやった)
さっき二つ折りになって謝ったばかりだというのに。先生の服の裾を引っ張るなんて、いくらなんでも調子に乗りすぎだ。私はこの家の一介の家政婦でしかない。不可避的な用事でもないのに、家主を引き留めるなど言語道断だ。
分かっているのに。先生へ抱いてしまったちょっとの期待が、こんなにも私を突き動かしてしまう。
(どうしよう)
普通にしているなんて無理だ。無意識的に行動してしまってはどうしようもない。私はそっと先生の服の裾を掴んだ手を離した。あまりの居た堪れなさに、顔を両手で覆う。
「な、何でもありません。失礼いたしました」
部屋に駆け込んで布団シェルターに潜りたい衝動を抑え、精一杯の虚勢を張った。後は先生がお部屋に戻ってくれればいつも通り。何でも無かったことにしてもらえるだろうと期待して。
「そうか」
その声に私は安心と寂しさを覚えた。でも、これで私の奇行は無かったことに…。
「待っているように」
足音が遠ざかる。
「……」
(ん?「待っているように?」)
数拍遅れて、先生の言葉が脳に届いた。顔を上げれば、そこに先生は居ない。私は頭に大量のハテナを生産し、立ち尽くした。
数分後、戻って来た先生にお茶を用意するよう指示された。先生のではない。私の分だ。先生は自分の部屋から紅茶のセットを持参していた。
言われた通り自分の飲み物を持って、先生とテーブルに向かい合う。状況が掴めなくて私は挙動不審になった。
「さて」
(さて)
先生はゆったりと椅子の背にもたれかかった。対する私は背筋をピンと伸ばして相手の出方を窺う。
「何でもなくはないだろう」
紫色の目が見透かすように私を見ている。用があるのは先生ではなく、私。先生はわざわざ私のために時間を取ってくれたのだ。
胸が潰れる思いだった。先生は私の不審な行動を放置しなかった。嬉しいやら申し訳ないやらで、吐きそう。
(何と言おう?何を言おう?)
私は俯いた。
(「どうして、私なら気にならないんですか」)
いや駄目だ。そんなこと口が裂けても訊けない。オメデタイにも程がある。一体どんな答えを期待してそんなことを訊くというのだ。もしも望んでいる答えがもらえなかったときは最悪なことに繋がりかねない。
「…ルシル?」
(やめてください…優しい声で呼ばないでください…)
俯いたまま、かき乱した心を落ち着ける様に、深い息を吐く。
(落ち着こう…大丈夫。変なことは言わない)
徐に顔を上げれば、先生と目が合った。気圧されそうになるが、気合で何とか気持ちを保つ。
(よし…せっかくの機会…!!)
私はあの時逃したチャンスをもう一度、と身を乗り出した。
「じ、時効かもしれませんが…」
「で、世界樹というのがその中心にある」
「…な、成程…」
「世界樹が統べる物質的な還元と生命の精神的な回帰はその内部でエレメントとしての融合を果たす」
「……」
私は必死になって耳を傾けた。何故なら、これこそ私の知りたかったこと。いや、本当に?
(わ、分からないよう…!)
分からないなりに、頑張って聞く。けれど知能の限界というものが早々に訪れ、私は分かりたいのに分からないという悲しい状況に陥っていた。殆ど涙目である。
私がしたのは「先生が家を空けられていたのはどういうことだったのですか」といつかの日に聞こうとした質問。倒れてしまったために機会を失った後、再度どうやって切り出したらいいのか分からなかったのだった。
先生は「ああ」と思い出したように呟き、そして大変丁寧に説明をしてくれた。
要約すると、先生はあの日の早朝、研究している世界樹という樹に花が咲きそうということを察知して、急いで現地に向かったとのこと。世界樹こそが、先生の研究対象であり、魔法使いが長年研究している大事な樹らしい。
協会という組織ができる前は先生も他の魔法使いと共に研究していたこともあったらしいが、元々魔法優位主義に疑問を抱いていたこともあり、面倒そうな組織体制が我慢ならなかったため、協会発足に加わらずに抜けたとのこと。協会に与したかつての協力者たちは依然として先生の研究の進捗を期待しているとか。
と、ここまでは何とか理解できたものの、話は専門的な内容に移り、私の頭は簡単にパンクした。
「…という事だが、答えになっているか」
一通り解説を終えた先生は、真面目な顔で締めくくった。私は神妙に頷き、「はい」と答えた。欲しかった答え以上のことを話して貰えた。あんなに寡黙な先生が、こんなに話してくれるとは。十分過ぎる情報量だった。
「申し訳ありません、私には難しいこともありまして…全部理解が…せっかくお話ししていただいたのに…」
とても「よく分かりました」とは言えず、情けなさを携えて私は正直な感想を述べた。先生は「ふむ」と思案顔で頷いた。
「見た方が分かるか」
「え」
先生は「書斎へ」と言いながら立ち上がる。私に目で「来なさい」と合図を送って来た。解説はまだ終わらないらしい。
(私の知りたかったことは大分手前で解決しているけれど…)
私は頭の中に浮かんだ不敬な考えを振り払った。行くしかない。私は先生に習い、テーブルを離れた。
書斎というところに初めて入った。中は本棚がいくつも並び、小規模の図書館のようだった。書物の量は尋常ではなく、所狭し見渡す限り本の山。先生は本棚のジャングルを突き進む。
「す、凄い本ですね」
私が感嘆の声を漏らすと、先生は「不用意に触らないように」と厳しめに注意を促した。うっかりその辺の本に手を伸ばしかけていた私はドキリとして咄嗟に手を引っ込める。
「す、すみません!」
私が慌てて謝ると、先生は私が触ろうとしていた本に目を向け「それは大丈夫」と言う。意味が分からず私が首を傾げると、先生は棚の上の方から本を一冊手に取った。
「君には悪いが。呪詛のかかった書物が無造作に置いてある。例えばこれは、扱いを知らないと死ぬまで本を開くことになる」
「……」
サラリともたらされた非常に大事な情報に、眩暈がした。さっきまで書斎に入れた嬉しさで浮かれていた気持ちと肝が急速に冷える。
私が絶句していると、先生はその呪詛が掛かった本を元の位置に戻しながら「悪い」ともう一度謝った。
「そういう訳で、君には書斎を掃除させられない。散らかっていて、さぞ気に入らないとは思うが。目を瞑ってほしい」
「その内片付ける」と明後日の方を向く先生に、私は目を瞬いた。
(そ…そういう理由だったの…)
「で、では…先生のお部屋も…」
私が上ずった声で尋ねると、先生は「あちらも宛ら」と私と目を合わせずに言った。私は目の前の霧が晴れていくような感覚を覚えた。
(個人空間への侵入が嫌だった訳じゃなかったんだ!普通に危険だったんだ!)
ただガードが固いだけではなかった。こういうところだ。口数が少なくて困るのは。そういう事情であるなら先に教えて欲しかったと思う一方、私は心底、掃除を強行しなくて良かったとも思った。
「………はい」
色んな感情を込めて、私は頷いた。
私が本に触れないように縮こまって先生の後を付いて行くと、やがて先生は大きな本が仕舞ってある本棚の前で止まった。図鑑だろうか。大判のぶ厚い本が並ぶ。その中の一冊を取り出すと、先生は目的のものがどこに載っているのかを把握している手つきで、サッと本を開いた。
「これが世界樹だ」
「えっ」
開かれたページを覗きこみ、私は声を上げた。
『世界樹』というタイトルの下には、細かに描かれた一本の大樹。雲を纏い、太い根が広く伸びる。正確には分からないが、とてつもなく大きいのだろう。
ふと、疑問を抱く。こんなに大きな樹であれば、有名であってもおかしくはない。
「どこにあるのでしょうか」
「世界の裏側だ」
「裏側?」
概念的な答えに、私は頭が再び混乱してくる気配を感じた。間抜けな感じで先生の言ったことを復唱すると、先生は眉を下げてわずかに笑った。分かっていないことがバレたらしい。
「いつか実物を見せよう」
(連れて行ってくださるのですか…?)
オメデタイ胸の内に、ぷかりと淡い期待が浮かぶ。私が喜びを隠しきれずにお礼を言えば、先生は穏やかな様子でひとつ頷いた。
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