先生と呼ばれる人
宿の主人は爽やかな朝に陰鬱な顔で食堂にやって来た私を見て、心配顔で近づいてきた。
「大丈夫?」
他に客がいないのか、主人は私のテーブルの向かいに腰を下ろした。ちゃっかり自身のコーヒーまで持ってきている。
「家政婦希望だったとは思わなかった。たまーにね、居るんだよ香油の研究がしたいとか、ここの石鹸が好きで自分で作りたいって言って来る人が。てっきりルシルもそうかと」
人柄だろうか、サラリと呼び捨てにされたが特段嫌な気はしなかった。ある程度の親しみを持ってもらえたと思っていいのだろうか。
「そうなんですか。下調べ不足でした…」
「でもコルテスが任せろって言ったんだろう?何とかしてくれるさ。彼、頑張り屋だから」
「親切なんですね。テオさんも」
テオさんというのは、今話している宿屋の主人の名前だ。昨日の夕食のとき、「この街の人になるんだったらよろしく」と自己紹介された。
「小さい街だからね。人が増えて、活気が出るのは嬉しいんだよ」
テオさんは照れたように笑いながら言った。私が街の活気に繋がるかは分からないが、ありがたい話だ。この街の人は皆こんな感じなのだろうか。
テオさんの言葉にいくらか勇気づけられ、コルテスさんに頼るだけでなく、自分の足でも仕事を探してみようという気持ちがもたげた。
(とは思ってみたけれども)
朝食を食べ終え、早速街に出てみたはいいが。職業斡旋所が無いとなると、店先の求人の張り紙や直接聞きこむ方法しか残っていない。
とりあえず、求人している店は無いかとあてもなく通りを歩いてみる。
(あった…けど、ウエイトレス。うーん、やってやれないことはないだろうけど)
一応家政婦としての就職先が無かった時の候補として拾っておくことにした。じろじろと求人広告を見ていたら、中から人が出てきそうな雰囲気がしたので、足早に店を離れる。
そんなことを繰り返しながら小さな街を練り歩くこと数時間。
太陽が南に到着した頃。私はすっかり歩き疲れていた。
見つけた求人はいくつか。ウエイトレス、お針子、洗濯屋。家政婦業の内のどれかに特化した仕事ならできそうだと、メモに残しておいた。
(最悪、数か月だけの逗留にして、少しでも給金が溜まったらまた違う街に引っ越すのも可能性としては有りだな)
街の雰囲気と、住む人の良さがかなり惜しくもあったが、家政婦業が性に合っていると思っている身としては仕方のないことだ。
宿に戻ろうと、とぼとぼと足を動かしていると、通りがかる街の人の口から「あ、先生」という言葉が聞こえた。ふと気になり、背後を振り返ったが黒い影が角を曲がったのが見えただけだった。
(先生…お医者様か、教師か)
そういう人もいて然る。私はぐうぐうと鳴るお腹の虫を抑え込みながら、宿への道を辿った。
「あ、お帰り!よかった!」
宿に着いた私を待っていたのはコルテスさんだった。晴れ晴れとした顔をしている。
(もしかして…!)
私の期待が急上昇した。お腹が空いていたのも忘れて、コルテスさんに駆け寄る。
「見つかったのですか!?」
気が急いてしまい、私の方から切り出した。コルテスさんは、ゆっくりと頷く。どこか尊さを感じさせる微笑みだった。
「ですが…」
一転、コルテスさんの顔がフイと背けられ、言葉が濁る。
「え?」
つられるように私も固まらずにはいられない。どういう演出だろうか。喜ばせて落とす手法はやめていただきたい。
「街で使用人を雇っている屋敷は人が足りているそうで」
「はい」
「で、これは残念なお知らせしかできないと俺も落ち込んだんですが」
「ええ」
「先ほど、何と『先生』が直接いらして」
「せんせい?」と私の口から間抜けな声が発せられる。そして、丁度道中そのように呼ばれた人物がいたことを思い出した。
「お医者様ですか?それとも学校か何かの」
コルテスさんはブンブンと首を振った。
「先生は…『魔法使い』です」
「………」
たっぷり数十秒、私の思考は停止した。
「本当に行くんだね」
「はい」
次の日。私は再びトランクを片手に宿屋のカウンター前に立っていた。テオさんに二泊三日分の宿賃を払い、よくしてもらったことのお礼を告げる。予想以上に早く宿を出ることができた。
昨日は『魔法使い』という馴染みのなさすぎるパワーワードに驚いてしまったが、そういう人が世界にいることは聞いたことがある。ただそういう人たちはほんの一握りで、私には一生縁のない世界の話だと思っていた。
コルテスさんは「俺は先生を尊敬している」ということを何度も念押しした後に、先生についての情報をくれた。
「実は先生のところにお手伝いに行った子は何人かいたんだけど、皆一週間ももたなくて」
「どこかからか分からないけど、志願者がいると聞いて俺のところに来てくれたみたい」
「あまり街には降りて来ない人なんだ、家は街の外れの森の奥にある」
「とにかく難しい人だっていうのは確か」
コルテスさんは尊敬している先生にも関わらず、私が断っても仕方がない理由をいくつかくれた。彼なりの誠実だろう。しかし、それを聞いたところで私の答えはひとつ。
「ありがとうございます。是非よろしくお願いします」
断る理由が無かった。三食いただけて、住処も貰える。聞けば給金も十分の額。しかも、空いた時間は好きなことをしていていいらしい。こんな好条件、今の私に逃す手はない。
心配顔の宿屋の主人に見送られ、私はコルテスさんの案内で先生の屋敷に向かった。道中、昨夜の間に浮かんだ質問をしてみる。
「先生、魔法でバーっとやった方が早いのでは?」
「俺、魔法のことはよく分かりませんが、先生は研究に没頭したいそうなので他のことにかかずらうのが厭わしいそうです」
成程。私の魔法のイメージはおとぎ話レベルでしかない。手でやる作業が一気に終わる、という夢のようなものだと思っていたけれど、実際に使える人からしたら違う感覚があるのだろう。
ともあれ、そういうことであれば家のことは全てお任せコースだと思っていていいかもしれない。そう思えば俄然やる気が湧いてくる。
「ルシルさん一人ですから、大変でしょうが。頑張ってください」
「いえ、何かもう、一人の方が楽かもしれません。全部自分のペースでできますから」
「そういうものですか」
この仕事に就いたのは16の時。料理、裁縫、洗濯、庭いじり、日曜大工。大体のノウハウは身についている。
先生の家は、大人数が必要なほどの広さでもないらしいし、むしろ前の屋敷で同僚に恵まれなかった分、余計な人間関係が無いということもプラスでしかない。
そんなことを話しながら森の中を進むと、次第にぽつりぽつりと置き石が現れた。小さな花がそこら中に咲き、童話の世界のようなメルヘンさを覚える。気が付けば植物のトンネルのようなところを歩いていた。
「な、なんか素敵ですね」
「先生は植物がお好きですから」
感動しながら歩みを続けると、森がひらけ、木々に囲まれた広い庭と白い壁の家が見えてきた。庭にもたくさんの植物が植えられていて、綺麗な花が咲き乱れている。
(こんなお家に住んでいるのだから、皆が言う程厳しい人なのではないのでは…)
「先生、ルシルさんを連れてきました」
コルテスさんが木目調のドアに向かって大きめの声を出す。ドアは直ぐに開いた。
「……」
現れた先生を見て、私は思わず気をつけをした。さっき頭をよぎった甘い考えは一瞬で吹き飛んでいた。
「…雇い主のフィリスと言う。入れ」
黒のシャツに、黒のズボン。何より目を引くのが真っ白な髪。冷たく鋭い紫色の目が私を見下ろした。顔に刻まれた皺が一層その冷たさを際立たせた。
不愛想は覚悟していたものの、今まで経験したことのない威圧感を覚えた。ただの強面のオジサマではない。無言の圧力。自分の要望通りやってきた家政婦に対して特段嬉しそうな様子も無い。会釈すらない。
先生はくるりと背を向け、家の中へと消えた。
後に続かなければと、私は先に言われた通り家の敷居を跨いだ。途端に何とも言えぬ心細さを覚え、コルテスさんを振り返る。
しかし、彼からは「頑張って」と笑顔とウインクが返って来ただけだった。
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