治らない傷
部屋のバルコニーに数羽の鳥がやって来た。
『先生、ルシルちゃんは?』
「まだ寝ている」
『ふうん可哀想に。魔法で楽にしてあげられないの?』
フクロウは尋ねながら首をキリリと回した。フィリスは離れた暗い森の先に視線を走らせる。鳥たちはつられるように視線を追ったが、特段何もなく、いつも通りの森だった。
「休むとは、体のことだけではない。ゆっくりする、ということを省かせては道具と同じ。また自然に回復するに越したことは無い」
『ふうん。僕ら難しいことはわかんないや』
フィリスは鳥たちの言葉に眉を下げた。
「お前たちは十分利口だよ」
体を起こしてみる。次いでえいえいと捻りを加えた。
(復活…!)
どこもだるくないし、痛くも無い。むしろ体は軽く、清々しささえ覚える。
「よいしょ」
これなら元気と言えるだろう。働いても問題あるまい。
結局私は三日寝込んだ。昨日の昼あたりからは大分良かったのだけれど、先生からの許可が下りず、おとなしくベッドで静かにしていた。
ベッド脇に置かれたトレイには、空になったお皿。何と、昨日の夕方起きたら魚介出汁の効いたリゾットが用意されていた。お皿には「お召し上がりください」、紅茶には「お飲みください」とメモが付けられており、私が悶絶したのは言うまでもない。
先生に世話を焼かせたという申し訳なさは、これからの働きでお返しするつもりだ。
(…いつも通り、いつも通り)
焦がしてしまった胸は、元に戻りそうにない。じりじりと燃え広がらないよう意識しつつ、これまで以上の尊敬を持って、ここで働くものとしての誇りを持って、やっていくだけ。
先生を追いかけてはいけないことは重々承知。それに私は家政婦だからここに居られる。自分の立場を忘れてはいけない。
「よし!」
私は頬をぱちんと両手で軽く叩くと、いざ行かんと気合十分に部屋を出たのだった。
7時。先生がリビングにやって来た。私はすかさず駆け寄り、頭を下げた。
「ありがとうございました。元気になりました」
先生は淡々と「よかった」と一言。本当にそう思っているかどうか疑いたくなる平坦なトーンだったけれど、この素っ気なさが先生なのだ。口に出した以上、それが本心なのだろう。
それ以上の言葉は交わさず、私たちは普段の朝へと戻って行った。リビングに差し込む陽の光が、いつも以上に明るく見えた。
一日の仕事が終盤に差し掛かった。キッチンの台に手を突いて背中を伸ばす。数日寝ていただけなのに体が鈍ってしまったような感覚がしている。
「んんー」
ストレッチをしながら先生がお風呂から出てくるのを待機する。今晩は少々空気が冷えるので、しっかり温まってもらいたい。飲み物も保温効果の高いものを用意している。
「そろそろお湯を沸かそうかな」
時計を見て、先生が戻ってくる時間を逆算した。もうすぐやってくると予想をつけ、ケトルを火にかける。
(絶対に裸足はやめた方がいいよねえ)
これからの季節を思い、平時の先生のスタイルに文句をつけながら手を動かす。シナモンの粉を保存している缶を開けたら、ふわっと細かい粉が舞った。
(わ)
吸ってしまったスパイスが鼻腔をくすぐる。
「っくしゅん」
堪えきれずにくしゃみが出た。たまにあるある、とささやかなトラブルに気を緩めた瞬間―。
ガチャ!
先生が比較的勢いよくリビングのドアを開けた。
「!?」
「…」
びっくりした。いつももっとスッと帰ってくるのに。日によっては戻ってきたことに気づけない時すらある。
「…」
先生は無言で私の方を見ていた。私はハッとした。脳裏に閃きが走る。きっと湯冷めする前に、廊下を急いで戻ったに違いない。まずい。そうしたら早くこの飲み物を供さなくては。
青くなって作業を再開しようとすると、ソファへ待機に向かうかと思われた先生は何故かこちらにやって来た。
(おおお?)
珍しくキッチンにまでお越しいただいた。なんだろう、シナモンラテは気分じゃなかったのだろうか。本日リクエストは無かったはずだったけれど。
私は多少ビクつきながら、近くまでやって来た先生の顔色を窺った。しかし先生の視線は用意真最中のドリンクではなく。
「本調子でないのならもう休みなさい」
「………」
(はっ!)
思わず息が止まった。そういうことか。私のくしゃみが聞こえたのか。それでご心配をおかけしてこちらに。成程。
(…なんてこった)
喀血しそうな気持をグッと堪え、私は「シナモンの粉が鼻に入って」と恥ずかしげもなく証言した。先生は若干疑わし気な目で見てきたけれど、それ以上の追及をするつもりは無さそうだった。
いやそれよりも。
多少湿気の残る髪、温まって血行の良くなった顔つき、暑いのか肘元まで捲られた袖。そしてふわりと香るあの匂い。
(おかしい)
勿論おかしいのは私だ。今まで何度も見ているはずなのに。何なら毎日見ていたはずなのに。どうして今日はこんなに色っぽく見えるのだろう。
(あああああ!)
頭を抱えたい衝動に駆られるが、ここは根性だ。気合いだ。精神論で己を落ち着けると、私は先生にソファで待つよう申し渡した。
私に物凄く下手に指図された先生は大人しくキッチンから出て行き、ソファにちょこんと座った。
(よ、よし…)
「つ、疲れた…?」
ようやく一日を終え、部屋へと帰還した。特段変わったことはしていない。復帰初日ということで、多少張り切ってはいたけれど。
困った。普通にしていたいのに、私が無意識にときめきを発見していてはどうしようもない。
(ぐうう…)
呻きに似た声を枕に漏らす。慣れだ。もうこれは慣れるしかない。先生とどうにかなりたいとか、そんな大層な野望は抱いていない。それに先生がそういうつもりでないのにどうしてそんなに浮かれたことを期待できるだろうか。
(傍にいられればいい)
思ってから、どこかで聞いた言葉だと気が付いた。
ああ、この言葉を言ったのは。
あどけない少女から、大人びた顔つきになって帰っていたあの子。ディディちゃんの口から出たときには、完全に他人事だった。先生に惚れた幼少期のディディちゃんの通っぷりに感心していたくらいなのに。
(お、愚か者です…私は…)
そんな私が、今同じことを考えた。
「はあああああああ」
あまりのいたたまれなさに、頭を枕に突っ込んだ。
(ごめん…ディディちゃん…ごめんね…)
同じ人を想ってしまった後ろめたさか、あの時彼女の夢を「幼い」と思ってしまった罪悪感からか、はたまたその両方か。
シンとした夜の静けさの中、いつまでも私のため息が部屋の中で空しく繰り返された。
「ッだー!!畜生!」
ガシャン、と力任せにそばにあった鉄格子を地面に叩きつける。錆付いたソレから、破片が辺りに飛び散った。
ガラリ、と瓦礫の山に足をかけ、金の髪をした青年は赤い髪の青年を見下ろす。
「フィリス師に突っかかるなんてどうかしている。君、頭悪いの?」
冷たい視線に、燃えるような眼差しが真っ向からぶつかる。
「ああ!?死にたいのか!?そもそもお前が来なければ」
「うわ、苦手なタイプ」
金髪の青年は嫌な臭いを避ける様に袖で鼻口を覆う。そしてもう片方の手を赤い髪の青年に向けた。
「!?」
手を向けられた青年の体がふわりと浮かび、何かに縛られたようにギュッと押さえつけられる。
「僕だって巻き添え食って腹が立ってるんだよ」
廃墟が広がる地に突如として現れた二人の青年は、幾ばくも無く姿を消した。それを目にする者はいない。
ここは魔法使いのための元監獄、アラネウム。
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