フィリスという人
目を覚ますと、自分の部屋の天井が見えた。頭が重たい。体が重たい。息をするのも労力が要る。ゼエゼエと聞こえるのが、自分の呼吸音だと認識できてからは、一層だるい気がした。
記憶の限り、最後に私が居たのはリビングだ。先生と話をしていたはず。
(先生に運ばせてしまった)
世話をする側が、逆に世話をかけてしまった。言い様の無い罪悪感が押し寄せる。倒れるなんて、今まで起こったことが無い。風邪くらいなら引いたことはあるけれど、意識を失うとは。
ジワリ、と生理的な涙が滲んだ。
窓の外からは日が漏れる。まだ日は高そうだ。
(起きよう)
私はよっこらせと体を起こした。
「いたた」
節々が痛んだが、寝ていたせいもあるだろう。私は気合でベッドから降りると、部屋を出た。
リビングには誰もいなかった。時計を見れば、まだ11時。
(うわ…昨日のお夕飯と、今朝のごはん、先生どうしただろう)
時間の経過で、既に二食スキップしてしまったことを悟る。カウンターに手を突いて、やるせなさに苛まれた。
「今日のお昼には、まだ間に合う…」
私はお水を一杯飲み干すと、掛けてあるエプロンを手に取った。
「えーと…お鍋お鍋」
食料庫から食材を取り出し、キッチンの台の上に並べた。次は調理器具を用意。私は頭上の棚に置いてある鍋に手を伸ばした。
「あ」
しかし、鍋の取手に触れたはいいが、掴む前にくるりと鍋は回転し、平衡を失った鍋は落下する。
ガアンという大きめな音が響いた。
(あちゃー)
やってしまった、という辟易した気持ちでよっこらしょとしゃがむと、強めの足音が上の方から聞こえてきた。
ダンダンダン、と階段を下りてきたのは。
「君は、何をしているんだ」
えらく人相の悪い先生だった。
(しまった。煩かったですね)
先生はキッチンまでずかずかやってきて、床に落ちた鍋と、しゃがみこむ私を睨みつけている。
「騒がしくして、すみません」
陳謝すると、先生は身を屈めて私の顔を覗いた。
「休んでいろ」
一層低い声に思わず私は身を固くした。どうやら鍋の音が煩かったということではないらしいと悟る。
(いやでも…)
「お昼食が…」
私が小さな声で訴えると、先生はいよいよ怖い顔になった。そして、私から顔を背けると、短く息を吐く。呆れたような様子だった。
ズキリ、と胸が痛くなる。
「休んでいろ」と繰り返される言葉に、私は無言で承知した。
先生に睨まれながら、部屋に戻る。背中から焼かれるかと思うくらい視線を感じた。
ぼふ、とベッドに沈めば、体の重さでそのまま動けなくなった。先のやり取りが頭の中で繰り返される。
体調が優れないのだから、休んでいろ。
分かる。そういうことだというのは、分かる。でも、動けないわけじゃない。熱があろうが、節々が痛かろうが、私には仕事がある。働けるならば、働かなくては。
(お役に立たないなら…置いて貰う資格なんてない…)
住み込みの家政婦が、何もせずに逆に世話をかけるなんて最悪もいいところだ。私はこの家の一員ではないのだから。役割を得て、ここに契約的にいるだけなのだから。
猫の姿ならまだしも、人間の体があるのに。先生も家に居るのに。
(…役立たず…ああ、駄目。なんか、泣きそう)
自分がある程度仕事をこなせると自負していたからこそ、この状態はきつい。体調が悪いのはその通りだ。どうしてか、涙もろくなっている。
コンコン、と部屋のドアがノックされる。
(え)
返事を待たずに、先生がドアを開けた。いやそこは待って欲しかった。
「…」
先生は、私がきちんと布団を被らずにベッドにそのまま倒れ込んでいるのを見て、眉間に皺を寄せる。今日はこんな顔をさせてばかりだ。
「スミマセン…」
もはや何に謝っているのか自分でもよく分からないまま、私は這うようにしてもそもそと布団に潜りこんだ。
先生を仰ぎ見ると、その手に私がいつもお持たせのお茶を乗せるトレイを持っていた。ベッド横のチェストにトレイが置かれる。何だろうと思っていると、先生は部屋の隅から椅子を持ってきて、ベッドサイドに設置し、ストンと座った。
(???)
この滞在スタイルは一体。
私が軽く混乱していると、先生はこちらにヌッと手を近づけた。思わずキュッと目を閉じれば、骨ばった薄い手が額に触れた。
「…38.7度」
(分かるの!?)
その方法は「熱があるかな?どうかな?」くらいしか分からないと思っていた。やはり先生は突き抜けている。
「それだけあれば、辛かろう」
わずかに先生の顔に影が落ちる。
(先生…)
その眼差しが憂いを帯びている気がして、私の胸がざわついた。
「…不在の間、苦労を掛けた」
ぽろ、と私の目から涙が零れた。先生の目がギョッとする。けれどそれ以上に驚いたのは私自身だった。
(!!!)
慌てて目元を手で拭う。雇用主の前で、涙を流すなんて。しかも特に叱られているわけでもないし、悲しいことがあったのでもないのに。
「す、すみません…」
いたたまれなくなり、私は布団の中に身を沈めた。目の上半分くらいまで布団で覆う。それでも涙は収まらず、じわじわと私の目元を濡らしていく。
(あれ?あれ?どうしよう止まらない)
ついに鼻の調子までおかしくなってきた。ズビ、と鼻を鳴らせば、隠れていても明らかに泣いていることがバレる。
どうしようどうしようと内心で焦っていると、困り顔の先生が見えた。申し訳なさが募る。
「…君の身の安全と、心身の健康を保つのは雇用主としての私の仕事だ」
「……」
「怠ることになり、申し訳ない」
(せ、先生………)
私は愕然とした。先生が、私に向かって頭を下げている。
(そんなこと、していただいては…)
「……」
言葉が出ない。
頭が働かない。胸の中がぐちゃぐちゃになる。いい加減、訳の分からない状態の私が、一つだけ分かること。
(先生は、この、フィリスという人は…)
この人は、使用人のことを「下の者」と扱わない。思えば、私は一度たりとも軽んじられたことは無い。
だから、テーブルを共にしたり、私の好みに合う石鹸を探したり、自らの非を明らかにして頭を下げることができる。
他の現場が正しいとか、この家が珍しいとか、そういうことはない。あり方はそれぞれ違う。結局、自分が居るところに適応していくしかないのだから。
けれど。
私は先生に尊敬を抱かずにはいられない。待遇がいいとか、雇用条件が良好とか、そんなことは表面的なことでしかなく。そこから推し量れる優しさなど、ほんの側面でしかなかったのだ。
私は今初めて、フィリスという人を何の色眼鏡も通さず、素直に見た気がする。
(ああ、そうか)
先生との距離が分からなくなって怖かったのは。
「雇用主」ではなく、この人をひとりの人間として見た時、その人となりに自分が惹かれてしまうことを心のどこかで予感していたからだ。
頭を下げたままの先生の顔を、チラリと見上げる。私の目が、紫色の目とぶつかった。
「…ちゃんと元気になります」
私が掠れた声でそう言えば、先生の目元が柔らかく細められた。
先生が置いて行ったのは、水差しと、しょうがの効いた紅茶と、刻まれた果物が入ったヨーグルト。感激の一言に尽きた。
ふうふうと熱い息を吐く。
(気が抜けた…というか、安心したんだろうな)
ぼんやりと天井を見つめ、私は考えに耽った。この数日、思い返せば尋常でない神経を使った。元に戻れなかったらどうしようと何度思ったか分からない。そもそも人権をまるごと奪われるとは思わなかった。
先生が来てくれたときの安心感といったら、筆舌に尽くしがたく。
(「おいで」って言ってくれた)
抱きかかえてくれた手が、酷く優しかった。
「………」
ボボボ、と顔に熱が集まった。これはもともとの熱ではなく、照れと羞恥によるもので。
思い出してしまった。背中に触れた先生の手や、身を寄せた先生の体の感触を。あの時は全身を先生が支えてくれていたのだ。そう、文字通りすっぽりと。
(た、大変だ……)
頭の中から「破廉恥」「痴れ者」と罵声が聞こえる。それでも私はあの時の感覚を幾度も思い返さないではいられなかったのだった。
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