異常あり
先生はしっかりと私を抱いて木の上から飛び降りた。地上で私たちを見守っていた人・猫が私たちを囲む。
「せ、先生…さっきのは」
「騒いで失礼した」
何がどういうことなのか、という説明はなく、先生は淡々と謝るとこれ以上の追及は受け付けないといった様子で私を地面に降ろした。
先生の温もりが無くなった寂しさを感じつつ、私は待ち遠しい気持ちで先生を見上げた。
先生は私に顔を近づけ、フッと息をかけた。周りの人が息を飲み、どよめいた。
「あ…」
次の瞬間には、私は人間の体で地面にぺたんと座っていた。この感触。視界。そしてバラバラに動かせる手。
「ッ…!」
私はたまらずに先生を見た。そして。
「先生―――!」
『にゃああああん!』
私と、そしてマカロンさんは先生にしがみつくという平時からしたらあり得ない行為に及んでいた。
頭の中がぐちゃぐちゃで、どうしようもない。
「…」
先生は若干身を引きながらも、私たちを振り払うような真似はしなかった。
「朝、突然あの人が来て!気が付いたら猫で!香草で吐いて!」
『この子猫になってるし!お腹空いた顔してるし!』
我々の言語の違う訴えを、先生は顔をしかめて聞いている。いくら鬱陶しくても、こちらの勢いがあり過ぎて珍しく負けていてくれるらしかった。
「木の上に居たのは、雄猫に追いかけられて!」
『番にされるとこだったんですよ!』
「なに…?」
初めて先生が訊き返した。しかしその反応に応えることもせず、私とマカロンさんは自分の言いたいことをワアワアとぶつけ続ける。とにかくあったことを全部吐き出したかったのだ。本当に、えらい目に遭った。
「それで降りられなくなっていたら…」
「何も」
「へ?」
「何もなかったな?」
喚き続ける私の言葉を先生が遮った。一方的にしがみついていた私の両肩を先生が掴む。それだけで、私はちょっと冷静さを取り戻した。
(あら…?)
先生の紫色の目が、真剣に私の目を見据えている。
「…」
「何もなかったな?」
思わず照れてしまった私にお構いなく、先生は同じ質問を繰り返す。声色から、照れている場合ではないと悟る。
「…あの、はい。逃げ切りました」
「ーーーー」という深くて長いため息が漏れた。先生は視線を外すと、「続きは帰って聞く」と言って顔を森の方へ向けた。
「は、はい」とどもりながら返事をし、私も立ち上がった時。
『にゃあ』
私の足元にマカロンさんが寄って来た。
(あ、そうか。もう言葉が…)
彼女が何を言っているのか、人間に戻った私にはもう分からなかった。この数日、彼女と過ごした日々が満ち潮の様に私の胸の中に押し寄せる。
「マカロンさん…お世話になりました。またお礼に参ります。ありがとうございました」
小さな猫に向かって、私は深々と頭を下げた。猫のまま、お礼を言えなかったことが後悔として心に刺さる。
『にゃん』
マカロンさんは私に向かって得意げに鳴き、フンと鼻を鳴らした。
私と先生は森の中のトンネルを抜け、家に戻ってきた。久々の我が家に、私は安心を覚え、また戻って来れたことに感謝した。
「ルシル」
話の続きを聞くと言いつつ、すぐに二階に上がってしまうかと思ったけれど、非常に珍しいことに、先生が私を呼び寄せた。
「はい」
「来い」という手の合図に従い、私は先生の傍に寄る。正面に立つや否や、グイと先生の両手が私の頭を掴んだ。
「!?」
強制的に上を向かされる。私はびっくりして目を瞬かせた。顔を包まれていると言うこと自体、恥ずかしくてどうにかなりそうなのに、先生はそのまま自身の顔を近づけてきた。
「…」
先生は熱心に私の瞳を覗きこみ、続いて「口を開けて」との命令が下る。
(く、口を…!?)
非常に抵抗があったものの、拒否できる雰囲気ではなかった。私が恐る恐る少しだけ口を開けると、先生は眉間に皺を寄せた。そして私の顎に両手の親指を添えて、強制的に大きく開かせるという暴挙に出た。
「!!?」
いつになく強引で、そして真剣。先生は私の口の奥を凝視した。理由はどうであれ、人様に口の中を見られるのは恥ずかしい。まして先生なら尚更。
どんどんと私の顔に熱が集まり、羞恥で涙が滲んだ頃。先生はようやく私の頭を解放した。
「な、何で…?何でしょうか…」
息絶え絶えに若干抗議めいた声で質問をすると、先生は私の言ったことが聞こえなかったかのように淡々と「体に異常は」と質問を返してきた。
私は「ええと…?」と戸惑いながら、もう尻尾が生えていないことや、ピンと伸びた髭がないこと、手から肉球が消えたことを確認する。
「た、多分大丈夫です…」
先生は私を観察しながら頷きを返す。
「原則、生き物を別のものにすることは禁止されている」
「え」
先生の顔は厳しかった。
「生命を弄ぶことは許されない」
私は何も言えなかった。勿論、人間にあんな芸当はできない。魔法使いの間の決まりだろうか。それを破ったあの青年のことをきっと怒っているのだろう。冷ややかで、それでいて沸々とした熱いものを感じた。
「せんせ…」
「それに、下手な奴がやるとどこかでしくじる」
先生は私の頭のてっぺんからつま先までをジロリと見遣った。
「過去に、元の姿に戻ってから一週間程毛づくろいの習慣が抜けなかった事例がある」
「………」
人の姿で、毛づくろい。想像したらとても不気味だった。何となく、体のどこかがソワソワしたような気がして変な汗が出た。
私が本当に自分の体が異常ないかどうか、密かに神経を巡らせて確かめていると、先生はドフッとソファに腰を下ろした。
「…」
私を見上げる目が物言いたげである。
(…「座りなさい」)
都合よく翻訳し、私は先生の顔色を窺いながらソファの端に身を落ち着けた。何も言われないので、正解だと思いたい。
「…続きを聞く、と言った」
私は目を見開き、息を飲んだ。
(せ、先生!!!!!)
話を聞くという割にはこちらを向いていないし、ちっとも積極的に訊きたいという様子は見られなかったものの、私は先生の温情に大感激した。
(あ…でも)
何を話そうか。先生がこう言ってくれているのに、却って私の方がまごついてしまった。さっき、人の姿に戻ったときに大体のことは報告してしまった。
「あの…差し支えなければ、ですが」
私は思い切って先生にお願いをしてみることにした。覚悟的には「駄目で元々」である。
「先生のお話をお伺いしたいのですが…」
先生は、横目で私を見た。何を思っているのだろう。私の意図を図るような、鋭い視線に私は思わず身じろぎした。
これは駄目かも、と思った時。
「何が知りたい」
「………」
(え…えええええええ!?)
いよいよ私は目を点にした。凄い。先生が優しい。いや、実は優しいことは知っていたけれど。まさか質問タイムに許可が下りるとは。
聞きたいことはたくさんあった。
どうして突然留守にしたのですか。どこで何をしていたのですか。あの魔法使いたちは何なのですか。
頭の中に質問が次々と沸き上がる。脳内が沸騰したかのように熱くなった。
「ま、まず…」
つい先生の方へ前のめりになり、そして。私の体はそのままグラリと倒れていく。
(あ―あれ?)
既にもう自分の意思が及んでいない。体には力が入らず、視界が回った。
ぐるぐるとした気持ちの悪さの中、目の前にはローテーブルの端。これはぶつかるな、と局所的に働いた頭が冷静に分析をする。
しかし。
「…」
私の額は先生の手によってキャッチされ、何とか机の縁に激突するのを免れた。
「…れ?」
自分が何をしゃべったかも分からない。もう殆どなくなった意識の中で、「休め」と先生の声が聞こえた。
(…)
苦くて優しい、初めて聞く声だった。
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