高いところから失礼
ぎゅんぎゅんと通りを走る。私に驚いた街の人が「わ!」と声を上げた。
(ごめんなさいい!)
チラリと後ろを見ると、件の雄猫が猛追をかけてきていた。
(ぎゃああああああ!)
私はもつれそうになる足を必死に動かし、何とか距離を保とうとする。
捕まったらどうなるか分かったものではない。「ご挨拶」だけで済むのならこんなことにはなっていない。
「万年発情期」と「番う」という恐怖ワードが頭を駆け巡る。考えただけで身の毛がよだつ。もしも、もしもそんなことになれば、一体どうなってしまうやら。私は猫ではなく、人間なのに。
(話して分かりそうな相手じゃない)
「にゃあああああん!」
(うわあよく夜中に近所で聞いた声!!!)
背後から殺気立った声が飛んできた。地元にある私の実家近辺は猫が多く、一年に数回は猫の高い声が響く。今のはまさにそれだ。
(やばいやばいやばい)
私は無我夢中で走り続け、街の中を縦横無尽と逃げ回った。
「フーッ…フーッ…」
結果。気が付いたら、驚く程高い木の枝の上に居た。どうやってここまで来たのか分からない。家々の屋根が下に見える。足元を見て体の中心がヒュっとなった。
「……」
今度は違う恐怖が沸き上がった。
(みみみ、見ちゃダメ、下を見ちゃダメ…!)
私が空の一点を見つめながら固まっていると、下の方から二匹の鳴き声がする。
『チッ、あんなところに逃げやがって…フン。じゃーな』
『誰のせいだと思ってんの!…ルシルちゃん!』
少しすると、マカロンさんの声しかしなくなった。どうやら私を追いかけ回していた雄猫は諦めて去って行ったらしい。ふざけるな。
『助けてー!誰かー!あの子降りられなくなっちゃったの!!』
助けを呼ぶマカロンさんのつんざくような叫びが辺りに響く。私は怖くて震えていることしかできないというのに。
『どうしたどうした』
『なんだなんだ』
しばらくすると、マカロンさんの声を聞きつけた猫たちが集まって来た。下を向くと気絶しそうだったので、見て確認することはできないが、何匹かいるようだ。
『ありゃ無理だぜ』
『どうやって上ったの』
『馬鹿のせいよ!』
ああ、猫たちが何やら話し合っている。でもあまり助けは期待できそうにない。
「なんか猫が集まってるぞ」
ふいに、猫以外の声がやってきた。人間だ。よかった、何とかなるかもしれない。私は淡い期待を込めて弱弱しく「にゃー(たすけてー)」とひと鳴きした。
すると私の存在に気がついた人が、「ああ!」と大きな声を上げる。
「大変だ!降りられなくなってる!!」
「うわ、本当だ!猫ってそういうとこあるよね!」
(スミマセン)
元人間だが、大分猫らしさが板についてきたのかもしれない。
どうしてこんなことに。そもそもあの変な魔法使いがやって来たのが始まりだ。慣れない猫生活を強いられ、挙句猫のまま貞操の危機に遭い、今は命が危うい。
「しかしちょっと高すぎるな…」
「どうする?放っておけば降りて来られないか?」
(無理だよ!)
私は完全にめげた。ニゼア氏の屋敷を追い出されたときの方がどれほどマシだったから分からない。
「にゃああああああん(うわあああああん)」
やりきれなさが振り切って、大声で泣く。酷い、あんまりだ。私の泣き叫ぶ声が街を通り抜けていく。壁に反射し、遠くの空まで響いて行った。
べそべそと私が泣き続けていると、びゅうう、と突風が吹いた。
(!!!!)
力を振り絞って木の枝に爪を立てる。何とか落ちずに堪え切れた。精神共に削りとられて、もうだめかもと弱気になったとき。
「みーつけた!」
聞いたことのある声が、すぐそばで聞こえた。
ふわり、と枝先に降り立ったのは、あの時の赤毛の青年。
ぞわぞわぞわ。諸悪の根源との再会に、私が抱いたのは怒りではなく恐怖だった。
(な、何しに来たの…)
「もおおーいなくなってるから手間取ったぜ。フィリス師がもう帰ってくるって!だから…」
青年の続く言葉に私は絶句した。
「アンタが居ると、都合がいい。おら、こっちこいよ」
青年の目はギラリと見開かれ、燃えるように光っていた。
(まともじゃない!!!)
逃げようにも、逃げ場がない。それに恐ろしさで体が固まってしまった。こちらに伸びる青年の手がスローに見える。
捕まっちゃう、と頭が真っ白になったとき。
「ッうお!?」
青年の手は、私を捕まえようとし、そして空を切った。
(あ…)
青年のローブが後ろから別の者に引っ張られ、その手は私に届かなかったのだ。彼の手を阻止した人とは。
「何をしている」
(せ、先生――――――――!!!!!)
待ち焦がれた、うちの先生だった。
「チッ!間に合わなかったか!」
青年は体勢を整えようと体を捻ったが、彼のローブを掴んだままだった先生が更に強くローブを後ろに引き、青年は目を白黒させながら遥か背後に矢のように飛んで行った。
「ルシル」
「にゃああああん!(先生いいいい!!!)」
私がしきりに鳴き声を上げると、先生は眉を下げた。「揺れる」と断りを入れ、私の立つ枝へと身を移す。先生はいつも通り、家で見るスタイルの黒いシャツに黒いズボンという恰好で、どうしようもない安心感が芽生えた。
『戻して!もとに戻してください!』
私が必死に訴えると、先生は眉を寄せた。
「ここで戻ってもあまりいいことが無い」
先生の落ち着いた声に、私はハッとする。私が居るのは依然として高すぎる木の上。
(た、確かに。今戻されても困る…)
先生は枝を伝い、愕然としている私の近くに来た。こんなに高くて心許ない枝の上を普通の地面の上のように歩く先生がスゴイ。
先生は「おいで」と言いながらこちらに手を伸ばし、軽々と私を抱き上げた。
「!?」
グンと視界が更に上がったものの、しっかりと背中に回された手と、ピタリと引き寄せられた先生の体が私の全身を支え、恐ろしさは無い。むしろ、温かさと安心感に包まれる。
「悪かった」
先生は謝りながら、私の背中を優しく撫でた。骨張った大きな手がどうしようもなく恋しくて、私はそのまま先生に身を摺り寄せた。この腕の中が、今の私にとっては絶対安全安心が保証された唯一の空間だった。
「すぐ戻してやりたいが…もう少し辛抱してもらう」
私が『え』と顔を上げたのと同時に、遠くから「おらあああああ」と威勢のいい声が近づいてきた。
奴だ。
私が総毛だったのを察した先生が、場違いなくらいに落ち着いた手つきで私を撫でた。
「にゃ…(ええ…?)」
背後に戦意を滾らせている彼がいるというのに、先生は見向きもしない。思わず私の方が慌てた。
青年が、こちらに手を向けていた。脳裏に嫌な記憶が過ぎる。
「くらえよ!フィリス師!よろしくおねがいしまーす!」
言葉が色々おかしい。青年の自信満々の声と共に、掌から炎が発せられた。
(な、何あれー!!!???)
ぎゃあああと慄く私と、うんざりとした様子でため息を吐く先生の間に大変な温度差が生まれる。
業火が私たちのいる木に到達しようとせん、というところでまたもや不思議なことが起こった。
ジュッ。
木と一定の距離を置いたところで、炎が音を立てて消えている。
(えええええ)
私たちが居る木の下からも「えええええ」と声が上がった。
「はは、全然何ともないってか。流石だよ!」
「…」
先生は青年魔法使いの言うことを聞いているんだかいないのだか。木の下に向かって「驚かせてすまない」と言っている様子から、全く聞いていないと見える。
炎はえらい勢いなのに、あるところで切り取られたかのように消滅している。魔法のことはちっともわからないが、炎を消しているのが先生の魔法ならば、圧倒的な力の差があるように思われた。
「じゃあこれはどうだ!!!」
先生が完全無視しているので、青年がひとりで盛り上がっている感じになってしまっている。
青年の掌から炎が止み、今度は眩しい光が集まり出す。先生に抱かれている私と、木の下にいる猫、人はハラハラと青年の掌から次に発せられるものに怯えた。
『せせ、先生…!』
私が先生のシャツにキュッと爪を立てた時。
「こらこらこらー。フィリス師に絡んでるのは誰だー?」
青年と同じく、空中に現れた別の魔法使い。金色の滑らかな髪が風にふわりと揺れた。イケメンである。
イケメンは先生に向かって「お久しぶりですー!」と何やら愛想がいい。彼も場違いと言えば場違いっぽかった。
私が新たな魔法使いの登場に驚き、そろりと先生を見上げると、そこには非常にお天気の悪い先生の顔があった。
(うわ…)
「何だてめー!邪魔すんな!」
「あはは!君の相手は僕だよ!」
イケメン金髪の魔法使いが、「ね、フィリス師!」とこちらにウインクをした途端、先生がぼそりと「どっちも邪魔だ」と低く呟いた。
「ぎゃー!!!!」
「何で僕まで!!!???」
次の瞬間。二人の魔法使いは目に見えない大きな力で遠くの空に連れ去られ、二秒ほどでその姿は見えなくなった。
「……」
『……』
猫だから分かる。今、この場に居る人も、猫も、呆然としていることが。何が起こったのか。考えたって、きっと分からない。分かるのは、先生がスゴイということ。
「帰ろう」
そう言う先生は、もういつも通りの静かな先生だった。
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