四本足の冒険
待って。ちょっと待って。落ち着いて。いや落ち着けない。
あたふたそわそわ。私は狼狽えながらその辺を行ったり来たり、ぐるぐると歩き回ったり。私の体はどうしてしまったのだろう。
改めて、激しい動悸に襲われながら神妙に自身の手を見つめてみる。
(ああ、見覚えがある…)
くらりと眩暈がした。この丸っこくて、可愛らしい手は。
(肉球だもの)
「猫」と言おうとして、私の声帯から「みゃー」という鳴き声が出た。
「……」
にゃあああああああ!!!!
盛大に私の鳴き声が響く。遠くの鳥が驚いて飛び立つ音がする。
(猫!猫になってる!?どうして!?なんで!???)
何がどうなっているんだ。何をどうしたらいいんだ。
(助けて!先生助けて!!!)
私は混乱のままにしばし庭を駆け回った。疲れ果ててやっと気持ちが落ち着いてきた。いやそこまで落ち着けるわけがない。
とぼとぼと途方に暮れて家の方へと歩く。
(わっ!?)
リビングのガラス戸に自身の姿が映った。ツンとした耳。大きな目。小さな体。揺れる尻尾。
猫だ。どう見たって猫だ。自分が猫の姿になってしまったことを目視して、私は現実に絶望した。
しかし、それ以上に絶望する事態であると気が付いたのは数秒後。
(あれ…どうやってお家に入るの?)
リビングのガラス戸はしっかり鍵がかかっている。裏口も同じく。閉めた覚えがある。玄関のドアが猫の手と力で開けられなければ私は完全に家から閉め出された状態になる。
猫の額ほどでも隙間を作ることが出来たら勝ちだ。
私は玄関まで走り、そして。
「んーーーーー!」
押したり。
「んにゃーーーーー!!!」
もっと押したり。(引けなかった)
は、は、と息が切れる。駄目だ。うんともすんともしない。終わった。
「に、にゃあああああーーーー!(先生―――――!!!!)」
私は助けを求めて精一杯の声を張り上げた。
半日が経ち。私は家の近くの一番日当たりの良いところで丸くなっていた。時折「みー(先生ー)」と呼んでみるが、何も起こらない。
自分から出る声がやけに物悲しくて、「みーみー」と鳴いてみても悲しくなる一方。
先生が書置き通りに行動すると、戻ってくるのは一週間後。その間、私はどうしていたらいいのだろう。ここにずっと蹲って惨めに先生を待つしかないのだろうか。
(マリネが…どんどん漬かっていく…)
一週間後、マリネがどんなことになっているかは想像したくなかった。
マリネと言えば人間の食べ物だけれど、私は何を食べたらいいのだろう。家に入れないとなると、私は自分でその辺から食料を調達し、何かしら食べなくてはならない。
(猫って…何を食べられるの…)
猫を飼育したことのない私は、猫たちの食事の知識に乏しい。ミルクを舐めている姿しか思いつかない。だが庭にミルクは無い。裏の畑には野菜が植わっているが、今はシーズン的にイモや根菜類がメインだ。
「…」
ぷち。その辺に生えていた、先生の好きな香草をちょっと齧ってみる。
「うえええええ」
しばらくしたら、てきめんに体に反応が出て、オロロと吐いた。
「ふー…ぷすー…」
弱弱しい呼吸で横たわりながら、私は青くなる。
(ま、まずい!!!生きていけないかも!!!!)
先生の帰還を待つことすらかなりの大仕事だ。
「…みー…」
私は小さな手足を伸ばし、尻尾をぱたつかせながら寝そべって空に浮かぶ月を眺める。いつのまにか、夜になっていた。
大きな空にぽっかりと浮かぶソレはいつもと違って、異様に遠く見えた。
急に辺りの静けさが気になりだし、心細くなる。ポツンと夜の庭に独りぼっち。
(怖いよう寂しいよう)
泣きたくなって、私は体をキュッと丸くした。家の壁に背中を付けていたら、少しだけ安心して、私はそのまま疲れて眠ってしまった。
猫になって二日目。
きゅるるるるとお腹が鳴る。
(お腹空いた)
昨日の失敗の手前、安易にその辺のモノを口にできない。物によってはお腹が満ちるどころか、体を痛めつけるだけと分かった。
私はある決意をした。朝日を浴びていたら、天才的な閃きが猫の額を過ぎったのだ。
(これは無理)
いくら何でも突然猫になって右も左も上も下も分からないまま、生きるのは無理だ。ここで餓死あるいはそれに準じてはかなくなる選択肢しかない。
(人里に行こう)
私は家を離れる決心をした。もしかしたら一週間しても戻ってこないかもしれない。やっと戻ってきた先生は軒先で猫になって冷たくなっている私を見ることになるかも。想像してゾッとした。
家を離れることは辛く、寂しく、不安な事ではあったけれど、背に腹は代えられない。
これが最善の選択と信じ、私は森のトンネルへと向かった。一度後ろ髪を引かれて振り返れば、白い家が静かに佇んでいるのが見えた。
(こんなに遠かったっけ)
人の足と猫の足では歩幅も歩数も違う。細かくテケテケと足を動かし、森の中を行く。他の動物に会わないのは幸いだ。先生が魔法を使った日に集結した猛獣に出会った時には私など一瞬でお腹行きだろう。
ビクビクと怯えながら懸命に歩き続けると、やっと街にやってきた。私はホッと息をついた。元人なので、人がいると安心する。
私が目指すのは、商工会のコルテスさんのところ。よく窓際に猫が佇んでいるのを見た。あれは飼い猫だったかもしれない、と思い付いたのだった。
それならば猫の扱いは猫である私よりも心得ているだろう。
大都市と化した街の隅っこを歩きながら、私は商工会のある場所まで辿り着いた。どうにか窓横に詰まれている箱の上によじ登り、窓から中の様子を見る。
商工会では業務中の人々が机に向かったり窓口に出たりとそれなりに忙しそうにしている。
(コルテスさんー)
私は額をガラスにくっつけて、彼らの中心で何かを話しているコルテスさんへ念を送った。
「ん?」
思いが通じたのか、コルテスさんは私のいる窓へと視線を移し、不思議そうな顔で近づいてきた。
「見慣れない子だ。どうした?」
コルテスさんが窓を開け、私に話しかけた。
「みーみー(お腹が空いてしまったのです)」
理解してもらえないとは分かっていても、懸命に訴えた。
「…腹が減ってるのかな」
(奇跡!!!)
コルテスさんが首を傾げて呟くと、私はブンブンと首を立てにふる。
「あれ?はは、言葉が分かったみたい。よおし、ちょっと待ってな」
コルテスさんに後光が差している。ここに来てよかった。大正解だ。私は感動して打ち震えた。
少しして戻ってきたコルテスさんの手には小さなお皿があった。
(なんだろう!ミルクかな!)
私はドキドキして彼の手が私の視線に降りてくるのを待った。
「ほら、どうぞ」
「………」
さっきまで全身で表していた喜びが一瞬で消え去る代物が置かれた。
(ざんぱん)
いや。今日の昼に食べようと取っておいた昨日のお夕飯の残りを少し分けてくれたのかもしれない。
もしくは見た目にそぐわずびっくりするくらい美味しいものなのかもしれない。コルテスさんの大好物を泣く泣く少しくれたとか。
「あれ?どうした?いいぞ食べて」
「にゃう……」
どう頑張って好意的に見ようとしてみても、お皿に乗ったソレは、元々人間である私の目からすれば、お料理の際に不要分として落とした魚(生)の端だったり、お肉(生)の欠片でしかなく。
「みーー…」
私は目の前のご馳走をどうするべきかと途方に暮れた。ねだったのはこちらだし、コルテスさんの厚意を無駄にしたくはない、のだが…。これらを口にする勇気も出ない。
(困った)
お皿の前で固まっていると、突然私の隣に何かがヌッと現れた。私と同じ、もふもふの類だ。
「あ、マカロン」
(まかろん)
登場したのは、ここでよく見かける猫だった。私が驚いて動けないでいると、マカロンさんは私をチラリと一瞥すると、スッと身を乗り出し、お皿の上にあったご飯をぺろりと平らげた。
「あ!お前!それはこの子のだったんだぞ!」
助かった。怒るコルテスさんには本当に申し訳ないが、横取りされたことを恨む気持ちは微塵もなかった。ありがとう。それだけである。
素知らぬ顔をしたまま、マカロンさんは尻尾を揺らし、身を返した。どこかに行ってしまうのだろうか。私がジッと見つめたままでいると、マカロンさんは首だけこちらに向け、私を見据えた。
『アンタ、付いておいで』
『え』
マカロンさんはぴょんと箱の上から地面に飛び降り、私を待つようにこちらを見上げた。
先ほどの横取りと言い、彼女からは生きる力と逞しさが窺える。私は彼女にある種の頼もしさを見出した。
(えい!)
私も先ほどのマカロンさんのように、箱の上からジャンプしてみた。猫の本能だろうか、体のつくりだろうか。私は自分で思うよりも上手に地面に降り立った。もっと痛いかと思った。
『行くよ』
『は、はい!!』
私は堂々と歩くマカロンさんに続いた。背後ではコルテスさんが「知り合い…?」と不思議そうに呟いていた。
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