悪質ないたずら
「あれ」
風に乗って足元にやってきたのは、落葉樹の葉っぱ。鮮やかな渋い色に色づいている。日差しの暑さが和らいできたと思ったら、世界は着々と次の季節への準備を進めていたようだ。
私は落ち葉を拾い上げ、指先でクルクルと回した。
「こういうことなら、栗とか、キノコとか。採りに行けるかもしれないね」
栗が手に入れば、シチューに入れたり、蒸したり、甘く煮たり。
キノコが手に入ればキノコをたくさん乗せたお肉のソテーなんかも振舞える。
(先生はお好きだろうか。栗やキノコ)
私は家の周りを囲む森へ近いうちに侵入する決意を固めた。
確かに朝夕が冷えるようになってきたとは思っていた。そういえば、先日お風呂上りでソファに座って飲み物を待っていた先生がクシャミをしたのだった。
初めて見た先生のクシャミ。「何今の音!クシャミ!?」と、テンションが上がり、先生でもクシャミするのかと謎の感動を覚えたものだ。
ではなく。私が考えるべきは先生の保温だ。お年がいくつなのかは分からないままだけれど、冷やして良い訳が無かろう。
いつまでも裸足でいるのもどうかと思うが、そこに口を出してはきっと睨まれる。もこもこの毛糸の靴下でも編んで差し上げたいが、嫌がられるような気もする。
「よいしょ」
家の裏手にある給湯設備。初めて見たときは何じゃこれはと思ったけれど、どうやら先生の作品らしい。タンクに水を入れて、ハンドルをぐるぐると回す。回転を動力として、ゆっくりとお湯を沸かす仕組みだ。
ここから、キッチンやお風呂場にお湯が供給される。何て素敵なんだろう。
細かいことはサッパリ分からないが、非常に便利なので全世界に普及すべきだと思った。もしもここを離れるときがあれば何とか頼み込んで、この図面を一枚貰って行きたい。
さて。夜のお風呂の用意が終われば、次は家の中をどうにかしなくては。
この勢いで、サラリとした暑い季節用のマットやクロスを一気に替えてやろう。物置と称された部屋で色々と漁り、これからの季節によさそうなものを引っ張り出してきた。
(あそこはまだ物色しがいがある…なんか面白そうなものがたくさん置いてあった…)
物置が意外と楽しいところだったという素敵な発見はさておき。私は一気呵成に私のテリトリーである一階の生活空間の模様替えを敢行した。
爽やかだった部屋の中がガラリと様相を変えた。暖色系のマットやシーツで、目にもほっこり温かい。
「えへへ…」
何だか楽しくなってしまい、つい口から笑みが漏れた。どうだ。先生はどんな顔をするだろうか。
定時に昼食にやって来た先生は、リビングの装いを見て「ほう」という顔をした。しかしこれは「凄い」「素敵」と言った感心ではなく、恐らく「あ、今日やったんだ」というような意味合いの「ほう」である。
(ぐうう…)
期待していなかった以下の反応にモチベーションが墜落しかけたが、そんなことで挫けていてはここの家政婦など務まらない。
私は昼食の玉ねぎグラタンスープと野菜入りふわふわオムレツを先生がもくもくと食べるところをしかと見守り、濃い目の紅茶で淹れたミルクティーを差し出すと、思い切って仕事の提案をしてみた。
「お二階も」
「模様替えしていいですか」と続くはずだった言葉は、先生の目から発せられた何らかの圧と「いい」という非常にシンプルなお断りの言葉によって世に出ることなく消えた。
相変わらず、上の階へのガードが固い。初日に案内してくれたわけであるから、立ち入りを禁じられているのではないのだが、私の手が入ることは良しとされない。急用があって、先生の部屋を叩くことが無い限り、これからも二階に用事はないだろう。
(今回もダメだったか)
分かってはいたのだが、やはり断られると面白くない。
(でも)
その一方で、どこか安堵した自分が居た。
これほど頑なに二階への私の侵攻を阻んでいるのが、「いいよ」となったらそれはそれで困惑する。
先生とテーブルを共にし、石鹸を貰ったあの日から、どうも私は距離感が分からなくなっている。これまでは「余計なこと」に抵触しないのはどのくらいなのかと距離の近さを見計らっていたはずなのに、今はどれくらい離れているかを確認している。
だから、これまでの素気無い【極】の先生を見ると安心する。
(おかしい…これは、おかしい)
おかしいのは勿論私だ。雇い主と心の距離が縮まり、信頼関係を築くことは決して悪いことではないはずなのに。
私は一体何を怯えているのだろう。
『研究のため、一週間ほど出掛けます』
数日して朝起きると、テーブルの上に何か置いてあった。書置きのようだ。
「…は?」
私は寝起きでまだ完全に働いていない頭のまま、何度もそのメモを読み返す。
「ほう…?」
出かけると。研究のため。一週間ほど。
(ははーん)
私はスッと息を吸い、リビングのガラス戸の外に向かって言った。
「昨日言えや!!!!!」
研究ってなんだ。突然いなくなるなんて驚くじゃないか。一週間ってまた長いですね!
イライラに任せ、マットを叩く。ボフボフと鈍い音を立てて埃が舞った。
「フン!」
マットを叩く棒を持ちながら、腕組みをして先生の部屋のバルコニーを睨みつける。どうせなら先生のいない部屋に入ってやろうか。
「…あら」
思いついてから、割といい考えなのではないかという気がしてきた。こっちだって都合というものがある。今朝出そうと思って昨日仕込んでおいたマリネが泣いているんだ。
「別に、部屋を荒そうというのではないもの」
少し、覗くだけだ。
そうと決まれば何だかワクワクしてきた。高まる期待と背徳感。
浮かれていた私がいけないのか、先生に悪態吐いた罰か。
「あれ?フィリス師いねえの?」
突然知らない声が背後から聞こえた。
「!?」
背中がゾワリとした。だって、ここは森に囲まれた一軒家で。さっきまで私は庭に一人で。
慌てて振り返ると、そこに居たのは黒いローブを纏った青年だった。赤い髪に赤い瞳。青年ではあるが、見た目からしてまだ十代だろう。
「あんた、ここの家の人?あの人の何?オクサン?愛人?」
話しぶりと言葉遣いから、あまり礼儀を知らない人間であると認定した。私は些か嫌な気分になって、ムッとして「家政婦です」と答えた。
「先生はお留守です。一週間ほど」
淡々と告げると、青年は露骨につまらなさそうな顔をする。
「はー?せっかく来たのに。何だよ」
私はそのままお引き取りいただくのを見送るつもりで青年に冷たい視線を送った。勝手な推測だけれど、お客さんではないような気がした。
(でも待って、突然現れたこの人は、もしかして…)
魔法使いかもしれない、と疎い頭がやっと警鐘を鳴らす。如何せん、先生は普段全く魔法を使わない。私の元主人を撃退したあの時の一度きりだ。そもそも私には人に対して「この人魔法使いかも」と疑う発想が無い。というか普通に生きてきたら無い。この街が特殊なのだ。
私が青年に恐怖を感じとったのと同時に、青年は意地悪な顔でにやりと笑った。
「このまま帰るのもつまんねーから、おら!」
「ッ!!?」
青年が私に向かって掌を突き出し、そして私は目の前がぐにゃりと曲がる嫌な体験をした。ただの眩暈ではない、それだけは分かった。ギュっと目を瞑り、ぐわんぐわんとする感覚に耐える。吐き気がしそうだ。
「……はは!」
嘲笑が聞こえ、私はようやく目を開けた。同時に違和感に支配される。
(地面が近い)
「!!」
そして見上げた例の青年が明らかにサイズアップしている。
(何!?何が起こったの!??)
「かーわいいー。はは、良かったな。じゃ、センセイによろしく」
馬鹿にするように言い捨てると、青年は軽く駆け、そのままジャンプして空に飛びあがった。
(あ!やっぱり!!!)
魔法使いだ。その不思議な光景を目にして、私はようやく確信した。青年はふわりふわりとジャンプを繰り返し、どんどん遠ざかって行く。そしてついに見えなくなってしまった。
(…!ぼーっとしている場合じゃない!私のこの違和感は…)
ふと、私は自分が地面に手をついていることに気が付く。嫌な感覚が全身を襲った。
恐る恐る、手元を見てみる。そこには。
(も、モフモフしてる―――――!!!???)
自分に何が起こったのか。混乱した頭と精神はしばし信じられない事態にフリーズした。
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