不思議な風向き
結局、あの日私は先生の使っている石鹸について決定的な何かを得ることはできなかった。コルテスさん曰く、実物を確認しないと何とも言えないとのことだった。実物の奪取ができていればそもそも相談する必要はない。
まだまだ諦めるつもりは無いのだが、今は石鹸の事よりも、そこから発展して聞いた話が壮大過ぎて、お風呂上がりの先生からいい匂いがする度に何の匂いかを気にするよりも、コルテスさんの話の中の立派な先生であるという感動の方が勝ってきた。
ふわり。
今日も先生からはさっぱりとしたいい匂いがする。
(いい香り。羨ましいなあ。先生はこの匂いで街を救ったんだなあ)
「…」
おっと。つい気を取られて手渡すトレイから手を離すのを忘れた。先生と二人でトレイを持つという奇妙な状態になってしまった。気が付けば先生が目で訴えてきていた。不審なものを見る目つきだった。
「すみません」
目を合わせると、先生は珍しく瞳を揺らし、視線を外した。
(あれ)
しかしそれも一瞬で、ふいと身を返してしまえば分からなくなってしまう。階段を上がっている足音はいつもと変わらなかった。
「…ちょっと、近かったですね」
顔を上げたとき、ちょっと思った。意外と接近してしまったと。
(危ない。気を付けよう。破廉恥な奴だと思われたら即解雇だ…)
鼻先に残る石鹸の香りが、さっきの先生の目を思い出させ、どうしてか胸をくすぐった。
ボオオオオ、と汽車が凄い勢いで蒸気を吐き出した。
「間に合った!よかった!」
「ルシルさん…先生も…!?」
汽車の窓から顔を出したディディちゃんは私たちの姿を見つけて目を丸くした。
今日の朝。ディディちゃんが山向こうの学校に戻るので、見送りに行ってくると言ったら何と先生まで来た。
先生と二人でディディちゃんの居る窓に並ぶ。私は持って来たお土産のお菓子を差し出した。
「これ、おやつにしてください」
ディディちゃんの顔が輝いた。
「ありがとうございます…!家族は仕事があるので、誰も来てもらえなくて…えへへ、嬉しいな」
本当に嬉しそうな様子だった。見ているこちらまで顔が綻んだ。
「いつ出発なんですか?」
「もうすぐのはず…あ、車掌さんが乗り込んだ」
ディディちゃんがそう言ったそばから汽笛が鳴る。出発の合図だ。間に合ってよかった。
「…先生、ありがとうございました」
(せ、切ない…)
彼女の事情を知っているため、胸が苦しくなる。先生、何か言ってあげて。
「…元気でやりなさい」
ディディちゃんは一瞬何かを耐えるように口を結び、そして「はい!」と元気よく答えた。
「またお顔を見せてくださいね」
「…ルシルさんっ」
私も挨拶をすると、ディディちゃんは窓から身を乗り出して私に抱き付いた。
(あ、危ない!)
慌てる私と対照的に当の危険行動をしている少女はおかしそうにクスクスと笑った。そして私の耳元に顔を寄せる。
「先生が魔法使ったのを見たの、数十年ぶりだって。お爺ちゃんが言ってた」
「え?どういう…」
「そこの人たちー!もう出ますよ!!」
車掌さんの注意と共にパッと身を離す。少女は悪戯っぽく笑っていた。
車輪が回り始め、汽車が動き出す。ディディちゃんは手を振りながら見えなくなった。
「……」
遠ざかる汽車をしばし無言で眺める。
「行った」
汽車が完全に線路の先に消えると、先生がポツリと呟いた。私はドキリとして先生を見上げた。
「行こう」
「はい…」
耳の奥でさっきの言葉がずっと繰り返される。胸の奥がジクジクする。よく分からない感覚を覚えながら、私は駅の改札に向かって歩く先生の背中を追いかけた。
「え。一緒に来てくださるんですか」
何と、そのまま家に真っ直ぐ帰るかと思いきや、先生は私の用事についてくると言い出した。どんな風の吹き回しだ。
「石鹸屋さんですよ?」
先生は無表情で遠くを見ている。
(駄目だ…どういう顔かさっぱり分からない)
とにかく来ると言われたからには来てもらうしかない。私は目的が目的なだけに、正直先生がいない方が気楽だったが、ここは仕方がない。この機にそれとなく先生から情報を引き出すことにしよう。
「いらっしゃいま…え!?先生!!??」
石鹸屋さんに入ると、お店の人は驚き過ぎて後ろの棚にぶつかった。並んでいた商品が揺れる。それ以上に動揺している店員さんは「よよよようこそ!い、いらっしゃいませた!ました!」とえらい噛み様だった。
(石鹸屋さんからしたら、伝説の人来ちゃった!みたいな感覚なんだろうか)
私はそんなことを思いながら店内の陳列に目を光らせた。成程、コルテスさんの言った通り雑貨屋さんよりもたくさんの種類が置いてある。
初めて出会った『カモミール』と書いてある石鹸をひとつ手に取り、鼻に近づける。地道な選別作業の始まりだ。
「いい匂い…」
でもこれではない。次。『レモングラス』。
吹き晒しの草原で冷たいレモネードを浴びたような爽やかさ。だがこれでもない。
「うーん」
いくつかそうやって試している内に、段々鼻がおかしくなってきた。鼻を摘まんでリセットしていると、店内を自由行動していた先生が近づいてきた。
鼻を摘まんでいる私を見て、何かを堪える様に表情が固くなった。
(何ですか)
私が怪訝な顔をしてしまったからか、先生は誤魔化すように顔を背け、近くにあった石鹸を取って鼻先に寄せた。骨張った指と石鹸を手に持つ所作が美しい。
「…いい出来だ」
「ありがとうございます!!!」
先生の小さな一言を、離れたカウンターに立つ店員さんが拾った。感極まった顔をしている。先生は「よく聞こえたな」ともっと小さい声で呟いた。
私は先生の持つのと同じ石鹸を手に取り、再び香りを確かめた。さっきも試したけれど、やっぱり先生のとは違う。
私の発した「これじゃない」感に気が付いた先生は、首を傾げた。
「もっと甘くないやつが良くて…」
「ネロリ」
「もっと清涼な…」
「…芍薬」
「…」
この辺でやめておかないと、自分の好みに合うものを探しているのではなく、特定のものを探しているのだとバレそうだ。
先生も思案顔でいくつか石鹸を手に取ってくれたが、私の注文に合致するものにピンと来ない様子だった。店内に無いとすると、やはり先生の石鹸は先生のお手製である可能性が高まった。
(非売品か…)
私は色んな意味でガッカリし、「また来ます」ということにして、店を出た。店の人が先生に来てくれてありがとうと何度も言っていた。ただの尊敬を通り越して、崇め奉る域に入っているような気がした。
「ええと、すみません。お付き合いいただいたのに…」
先生は何でもない様子で首を横に振った。
「では、帰りましょうか…あれ?先生?」
私が森の方へと足を向けたのに対して、先生は別方向へ歩いて行ってしまう。本当に、今日はどういう風が吹いているんだ。私は慌てて先生に付いて行く。何だかいつもと違う一日に、街の色まで違って見えた。
「ここか」
「は…はい…」
完全に予想外だ。私たちが立つのは、私のお気に入りの料理屋の前。ここは私が給料日にステーキ定食を食べに来ている店だ。
(い、いつ、どこでバレたの…?)
先生に秘密で美味しいものを食べに来ていたことが既に知られていたという衝撃と後ろめたさに襲われ、私の心臓はドドドと早鐘を打つ。
まさか先生が「昼を摂って帰る」などと言い始めるとは思わなかった。まして「行きつけがあるだろう」とは。
私が躊躇いまくっている隙に、先生は無遠慮に店のドアを開けた。
(は、入った…!)
店の中から「先生…?」と戸惑いの声が聞こえる。行くしかない。私は意を決し、店内へと一歩を踏み出した。
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