職場体験
「お時間いただけますか」
家に帰ると、部屋に戻ろうとする先生を捕まえた。助けてもらっておいて、何も話さないでいるのは流石の私も後ろめたい。元旦那様の存在が知られてしまったからには、言い訳をしたいというのもある。何とも勝手な事情だ。
私に引き留められた先生はスッと凪いだ瞳を私に向けた。
(あ、嫌がってるかも)
その顔を見て一瞬そう思ったのだが、先生は足の向きを変え普段食事をするダイニングの椅子に腰を下ろした。
「……」
目をぱちくりとしていたら、今度は「座らないのか」という視線をいただく。慌てて私も席に着いた。先生の斜めに陣取る。先生と同じテーブルに着くのは初めてだった。
こちらから話しかけておきながら、本当に付き合ってくれることに感動を覚える。
「この度は、お騒がせをいたしました」
私はぺこりと頭を下げた。先生の表情は変わらない。多分私が話し続けていいのだろう。
「さっきのは、実は私の元職場の旦那様で…その、大変お恥ずかしながら私、その奥方に暇を出されまして。というのも…」
スッと先生の骨ばった指がテーブルの上に何かを置き、ツイ、と私の方へ滑らせた。
「…落としてました?」
「廊下にあった」
それは件のしつこいストーカーを撃退するための方法が書かれたメモだった。ポケットを探ってみたが確かに無い。先生に拾われたと思うと、恥ずかしさで顔がカーっと熱くなる。
「また来るようなら次は少し炙ってやろう」
真顔で言う先生に一抹の不安を覚える。「冗談ですよね」と確認する勇気はない。
「旦那様はもう」
「来ないと思います」と言うつもりで開いた口は、ぺそりと何かに封じられる。先生が持っていたメモを私の口に軽く当てて制したのだ。
「……」
私は口を開く代わりに当てられたメモを受け取った。先生はメモから手を離しながら腰を上げてしまう。
(あ、もう行ってしまわれるのですね)
事情を話したいというのは結局私の自己満足だ。先生にわざわざ聞かせたことが正しかったかどうかは分からない。
先生が立ち上がると、こちらに向けられる視線は角度の都合で流し目になった。目元が色っぽく見えてドキリとした。
そんな私の胸中を知らず、先生は去り際にポンと私の頭に一瞬手を置いた。
「もうあんな風に呼ぶ必要はない」
低い声でそれだけ呟くと、先生は普段通りのテンションで階段を上がって行った。
「………」
残された私はフリーズし、しばし無の時を過ごした。
(あんな風にって…もしかして、「旦那様」…?)
慰めてくれたのだろうか。
辞められると困ると言ったり、今日の先生はサービスが過剰だ。こんなに話したのもここに来て初めてだ。
「先生えええ…」
込みあがる尊さに胸を抑え、嗚咽に似たうめき声を上げた。
(雇ってくれてありがとう)
先生の触れたところがサワサワとくすぐったかった。
朝。爽やかな風が庭を撫でる。草や野花が揺れて歌った。あれからふた月。私たちの生活は変わらない。強いて言えば、気のせいでなければ、ほんの少し目が合うことが多くなったかもしれない。
例えば。
(そのお魚のソテーはいかがですか。隠し味にちょっぴりガラムマサラが入っていますよ)
キッチンの奥から先生が私の作ったご飯を静かに平らげていく様子を凝視する。食べ進めていることに「よしよしよし」と心の中で頷いていると、ふいに先生が顔を上げる。
そこで、ぱちりと目が合うのだ。
「…」
そして何があるでもなく、先生はお皿に向き合う。
私はこのアクションを『有り』と翻訳した。好意的に取ることが正解なのかは分からないが、いつも綺麗になったお皿を片付けているのだから、きっと口に合っているのだと思う。
「ふふ」
プチプチと庭のハーブを摘みながらその時の光景を思い出し、嬉しさで思わず笑いが漏れる。
コーヒー、紅茶、ハーブティー。三つの入れ物を掲げると、先生はハーブティーを指した。どうやら朝出したものがお気に召したらしい。
午後のお持たせ用のお茶を淹れていると、庭の方から声が聞こえてきた。不思議に思って先生を見ると、わずかに目に伏せられる。忖度の必要性を見出した。
「居留守しますか」
「…無理だろう」
庭に面したガラス戸の向こうで、見知った男性と見知らぬ少女がこちらを見ていた。
「突然すみません」
「こ、こんにちは…!」
やって来たのは青年商工会会長のコルテスさん。ともう一人。歳は十四、五だろうか。大きな目の、髪をお下げにした可愛らしい少女だった。
三人にお茶を用意して引っ込もうかと思ったが、コルテスさんに居て欲しいと言われたので私まで一緒にテーブルを囲んでしまっている。
先生はいつもの席に静かに佇み、本人に自覚があるのだか無いのだか分からない威圧感を放っている。
コルテスさんは話をどう切り出そうかと気まずそうにしている。一緒に来た少女ももじもじと恥ずかしそうにしている。
「あの、ええと。そうだ、まず彼女は」
コルテスさんが隣の少女へ手を向けた。少女は顔を赤くして輝く目で先生を見る。
「ディディです!あの、その初めましてではないのですが…」
恥ずかしいのか、言葉尻がしぼむ。
(初々しくてかわいい。この子が先生に会いに来たのかな)
「覚えている。ジョルダの孫だろう」
私は返事をした先生をジロリと見た。こんなにかわいい少女の精一杯の自己紹介に返すにしてはちょっと素っ気なさ過ぎる言い方だった。こんなときくらい愛想よくしてもいいのに。本当は優しいんだから。
そう思いながら、ディディちゃんが怯えてはいないかと内心ハラハラして彼女を見る。
「本当ですか!?嬉しいです!」
余計な心配だった。少女はさっきよりもいい顔をしていた。
「小さいときに頂いた押し花のしおり、大切にしています!花束もドライフラワーにして!」
「……」
「…何だ」
思わず先生を凝視したら抗議めいた視線が向けられた。
(だって!押し花のしおりや花束を小さい子にあげるなんて、そんな素敵なことを?この先生が?)
思っていることがバレたらしい。先生は煩わしそうに私から目を外す。誓って言うが、バカにしたのではない。確かに意外だったが、物凄く見直したのだから。
「で、先生。本題はですね」とコルテスさんが変な顔で切り出した。苦いものを食べているかの様に見える。
「ディディは山向こうの中等学校に居るのですが…卒業したら家政婦になりたいそうで…」
その言葉に身に覚えのある私はドキリとした。
「しかし、彼女の家は反対していて。上の学校にやりたいと」
(ははーん。家とは違う)
「で、大喧嘩になり…。それならもう実際に体験してみては…どうかと…」
コルテスさんは先生の圧に耐え切れず、段々と歯切れが悪くなった。先生から「何故家に来た」というオーラが出まくっている。
「その…ルシルさんが、同じように16歳からこの道でやっているということで…話も聞きたいと」
あろうことか、突然矛先がこちらに向いた。固まる私に、言い淀むコルテスさんの隣でディディちゃんはにこにこと頷いてくる。
「…」
妙に視線を感じた。先生だ。きっとこの視線は「そうなの?」という意味に違いない。私は肯定するために頷いた。
「…」
しかし先生は私の頷きを待たずに顔を正面に向けてしまう。空振った気分だ。反応をしても見られていないとちょっと恥ずかしい。
(そういう意味じゃなかった?それとも知っていた?言ったっけ?それともどうでもいい?)
「い、いかがでしょうか…本当にご迷惑とは存じますが…」
コルテスさんに回答を求められた先生は静かに息を吐く。
「…私は上にいるだけだ。彼女の仕事が滞らないならば」
先生は思ったよりも寛大な返事をした。その言葉を受け、コルテスさんとディディちゃんの目が私に向く。
(え。私が決めるの…!?)
キラキラとした少女の目。そこには勢いと眩しさと、希望が溢れていた。
「…と、滞らないなら…」
結局、先生の言葉を繰り返すしかなく。
「もちろんです!!!」
ディディちゃんは当然、力強く頷いた。
二人が帰った後。嵐が去ったような気分でリビングに立つ。
「商工会の会長さんは、ああいうお仕事もあるんでしょうか…」
「…あの二人は従兄妹だ」
「あ、成程…」
見れば先生は私がお茶請けに出したクッキーを摘まんでいた。ポリポリとクッキーを食む姿が何とも和やかに見えた。
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