魔法使い
さっきまで必死に力比べをしていた私達は、こちらに迫ってくる異様な光景に完全に言葉と力を失った。
雷雲はゴロゴロと不穏な音を発し、頭上を暗く覆った。
「グルルルル…」
どちら様の唸り声か分からないが、猛獣たちは牙を向き出し、威嚇してくる。今にも襲い掛かってきそうだ。
その先頭を静かに歩いてくる先生からはとんでもない圧力を感じる。無表情な先生から、はっきりと伝わってくる怒り。顔はこれまで見た中で最も険しく、厳しい。
先生は歩みを止めることなく、手をフッと何となく眼前で下ろした。
ドゴオオオオオオン!!!!!
体中を揺さぶるような激しい雷の音が鳴り響いた。落ちこそしていないが、先生たちの背後にはっきりと大きな稲妻を見た。
「わあああああ!!」
「きゃあああああ!!!!」
人々は大騒ぎである。当たり前だ。逃げるべきだ。普通ならばそうするだろう。
しかし、先生の真っ直ぐな目に射貫かれた私とニゼア氏は、先生から目を逸らすことができずにただただその場で呆然とするしかなかった。
「ルシル」
先生は低い声で私の名を呼んだ。驚きと恐怖が突き抜けた頭で、私の脳が返した感想は酷く場違いなものだった。
(名前、知ってたんだ…)
口を開けて固まっていると、先生はついに私たちの目の前までやってきた。私とニゼア氏は先生が引率してきた猛獣たちに取り囲まれる。フンフンと濡れた鼻が足に触れ、彼らの荒ぶった息と声に震えが湧き上がる。生命の危険しか感じない。
「…」
先生は無言で私の手を掴んでいたニゼア氏の腕を引きはがす。そしてニゼア氏の腕を掴んだまま、先生は解放された私とニゼア氏の間に割り込んだ。
先生の背中がとても大きく、そしてとても頼もしく見えた。
「あ…貴様…何を…」
雷を操っているのも、猛獣たちに囲まれているのもどう見たって先生の仕業である。流石の元旦那様も、頭上に雷雲、背後に熊、足元に狼は怖いらしい。さっきまでの威勢はどこにもない。
「去れ。そして二度とこの地を踏むな」
「な…なにものだ…」
先生は私をちらりと見降ろした。私は先生を見つめ返す。
「彼女の雇い主だ」
一瞬、ニゼア氏の瞳が燃える様に光ったが、先生の冷たい目がその輝きを消す。
「了承しなければ、お前を彼らにやろう」
先生がそう言うと、猛獣たちが一斉にまた唸り始める。お腹が空いているのか、口から唾液が垂れていた。
ザっと青ざめたニゼア氏は、言語化できない何かを叫び、早く逃げたい意思を表した。
先生はパッとニゼア氏の腕を放し、淡々とした口調で「送ってやれ」と声をかけた。
すると、猛獣たちは食いつく素振りを見せながら、走って逃げるニゼア氏を追いかけた。よほど力いっぱい走っているのか、ニゼア氏の姿はあっという間に見えなくなる。
「街の者を襲いはしない」
先生は辺りで震えていた街の人々に声をかけた。腰を抜かして逃げそこねた人々だった。
続いて、頭上に手をかざし空を払うように切ると、頭上で雷を湛えていた黒い雲があっという間に散り去った。目を疑う不思議な光景だった。
「……」
先生は何事もない様子で、呆然としている私に振り返った。もうそこには怒気は無い。普段の静かな先生だ。その先生が何をしたか。目にしたことが衝撃的過ぎて、言葉が出ない。
(魔法使い…)
先生の紫色の瞳が私を見下ろす。
「…帰ろう」
一言、先生は私にそう言うと森の方へと向きを変え、数歩歩いた。
「ルシル」
動かない私に先生は振り返り、私の名前を呼ぶ。
「せ、先生…」
「何だ」
「…動けないので…後から参ります……」
立ったまま腰が抜けた。つまるところ、あまりに驚きすぎて動けない。麻痺した頭で何とか先生に後から行く旨を伝えたが、先生は眉を寄せて戻ってきた。
「…痛むか?」
先生は私の腕を見て言った。そこは確かに、ニゼア氏に掴まれて赤くなっていた。しかしすでにニゼア氏との悶着は私の中で矮小化され、かなりどうでもよくなっている。
先生の質問に頭を横に振って応えると、先生は悩ましく目を細めた。
「怖がらせたのなら、謝ろう」
私の反応が鈍いためか、今日の先生はよく喋る。
(困ってる)
先生の顔を見つめていると、冷え切っていた体の末端がじわじわと熱を取り戻していくのが分かった。体の感覚が次第に取り戻されていく。数度瞬きをして、息を吸い、強張っていた体をやっと解放する。
「…先生」
この何を考えているか分からない先生が、心の揺れを見せない先生が。
(怒って、そして助けてくれた)
これまで見せたことのない魔法まで使って。
私の胸の中で、波が打ち寄せる様に大きな感動と感激が湧き上がる。
「先生、ありがとうございました…!」
心の底からの感謝を込めた。深々と頭を下げて意を伝える。
「……」
音声によって返事はなかったものの、先生の雰囲気が若干たじろぎを見せたのを肌で感じる。顔を上げると、先生はタイミングよく顔を背けてしまった。
「…有能な君に、辞められると私が困るからな」
「……!」
先生は私と目を合わせずに言った。思わぬ評価に今度は私がたじろいでしまった。
(何ですか!?そんな風に思ってくれていたのですか!?)
「帰るぞ」
先生はそれだけ言って、一見素っ気なく身を翻して歩いて行く。
嬉しくて泣きたいような、初めての感情で胸がいっぱいになる。今度こそ振り返らずに遠ざかって行ってしまう背中を私は走って追いかけた。
牙を見せて荒れ狂う猛獣に追われ、ニゼア氏はやっとの思いで駅に辿り着いた。獣たちはニゼア氏が駅構内に入るまでしつこく迫ってきた。
汗と土埃と、激しい運動でボロボロだった。かの有名なグリュワーズの名士にはとても見えない。袖口を噛まれ、少々解れていることに気が付かない程、ニゼア氏は疲弊している。
「はあ…はあ…!一体何だここは!?魔法使いが居るなんて聞いていないぞ!あんな女一人に私の命までくれてはやれん!!」
もうルシルが惜しいとは思わなかった。涙を流して喜ぶかと思えば冷たく拒否され、更に三年も面倒を見てやったというのにこの仕打ち。
ニゼア氏は息絶え絶えに列車に飛び乗った。
「性悪な尻軽女め!!!!!」精一杯の悪態を吐き、忌まわしいド田舎から離れて行く。こんなところ、二度と来るかという決意を固めて。
仕事を終えた森の仲間たちは互いに労わり合うように鼻を近づけ合い、そしてフィリスの言った通り街を襲うことなく、大人しく森の奥へと去って行った。
一方、いつも穏やかなコートデューの街は賑わい、人々が熱を込めて見たこと聞いたことを語っていた。
「見た!?先生が魔法を!」
「あの出し惜しむ先生が…いつ振りだろう…」
「やっぱり先生はすごい魔法使いだよ」
「でもおっかなかった…」
しばらく街はこの話題で持ち切りである。それほど『先生』が魔法を使うのは稀だったし、あれほど怒りを露わにしたのを見たのはもっと珍しかったからである。
「難しい人だけど、目に見えて怒る人じゃないのにね…」
「怒ったのってあの子のためかな、ほら一緒にいた」
「アタシ知ってるわよ、彼女」
人々は森の方を眺めた。いつもと変わらない、静かで普通の森だった。しかしその奥に何があるのだろう。街の関心は森に向き、あれこれと語り合う。
人の口が紡ぎ、豊かな想像力で作られる噂はしばらく街の中を漂った。
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